彼女の場合

15

――久しぶりに夢を見た。小学校高学年の頃の夏休みだ。5年だったか6年だったかは曖昧だったけど、ひどく蒸し暑い日だったのを覚えている。そしてこんな日は大抵父親の機嫌が悪く、伝染したかのように母親の機嫌も良いとは言えなかった。この頃の母親は、家に居る父親を避けるかのように仕事を入れ、帰りも22時を回ることが常になっており、そのことが更に父親の機嫌を下げていくのだった。
 そんな悪循環の環境の中で家庭というものが機能するわけもなく、いつしか父親の苛立ちは母親から子供へと向けられていった。最初は怒鳴るなどの威圧的な態度を取るくらいで済んでいた。それでも充分に恐怖となり得たが、幼いあたしや兄が泣いたり抵抗を見せれば更に彼の神経を逆撫でし、自然に手を上げられる回数も増えていった。
 ただ暴力を揮われるだけなら我慢が出来た。痛いし辛かったけど、傷は時間をかければ治るものだ。抵抗しなければ、耐えていれば、やり過ごすことが出来た。しかし、それだけには留まらなかった。酒に溺れ自我をなくした父は、手を上げる以外の暴力を向けてきた。それが初めて意識した性的な行為だった。
 男も女も関係なかった。ただの暴力と化していたそれは、時間や場所関係なく、あたしや兄を襲った。悪魔だと思った。
「ったい! 痛いよぉっ! ぁうっ、あ、ぁあっ、やぁぁっ!!」
 いくら叫んでも止めてはくれなかった。むしろより一層凶暴な力で押さえつけられ、犯された。ツライ、よりも、イタイ。
 痛くて痛くて痛くて――。
――目が覚めた。息苦しさにしばらく仰向けのまま動けなかった。辺りはまだ暗い。人の気配がして横を見ると、暢気な顔で寝ているサトシがいた。息苦しさが若干和らいだ。
 ジャージを着たあたしはTシャツにハーフパンツ姿のサトシの隣で寝ていた。
 昨夜はセックスをしなかった。昨夜だけじゃなく、ここ一週間程は誰とも体を重ねることをしなかった。誘われることもなければ誘うこともしなかった。つまり、そういうことだ。故意的に行動を起こさなければこんなにも呆気なく日常は過ぎていく。怯えていた恐怖が来ることもなければ、求める温もりが訪れることもない。それを平和だと思うか寂しいと感じるかの違いだけだった。
「……っ」
 どうしてあんな夢を見てしまったんだろう。ここ数年は思い出すこともなかった痛みがじくじくと体を覆っているような気がして、自分の腕をぎゅっと抱きしめる。どうしてここに倉掛さんはいないのだろう。椎名さんでも先生でもいい。誰かこの震えを抑えてくれないだろうか。
 振り返ってサトシの寝顔を見上げる。改めてじっくり見たことはなかったが、二枚目でも三枚目でもない中途半端な顔立ちは寝顔もそのままだ。バカみたいに穏やかな顔で、きっと幸せな夢を見ているに違いない。どことなく憎らしくなり、鼻を抓んでみた。僅かに顔を歪ませ、指を離すとまた規則正しい寝息を立て始めた。
 ごそごそと態勢を変えて、無理矢理サトシの腕の中に入り込んだ。大して居心地の良いものではなかったけど、僅かに聞こえる鼓動に耳を傾けていれば、いつしかあたしは再び眠りにつくことができた。


 椎名さんから誘いのメールが来たのはお盆を少し過ぎた土曜日だった。ホテルの中にあるレストランを予約しているとのことだったが、待ち合わせはその下にあるカフェだった。数週間ぶりに会う椎名さんは程よく日焼けをしていた。彼は数日前まで里帰りをしていたらしく、お土産に田舎の名物だというお菓子をくれた。かつて天皇陛下に献上されたこともあるというそれは、漉し餡の入った白皮の小さな饅頭で、ほんのりと甘くて美味しかった。
「へぇ、じゃあ大阪に行ってたんだ?」
 カフェから移動し、レストランへ一緒に入ると、あたしは奈々たちと旅行した事を話した。
「ちょうど花火大会やってたみたいでぇ、皆で観に行ったんですけど綺麗でしたぁ。こう……水上花火ぃ? っていうんですかねぇ。水面から花火が噴出してる、みたいな感じのやつもあったりしてぇ」
 あたしは旅行のお土産なんて買ってなかったから、せめてもと土産話をすることにしたのだ。本場のたこ焼きやお好み焼きを食べた時の事や、偶然居合わせた花火大会の事、通天閣から見た大阪城が意外に小さくてびっくりした事など、話す事はたくさんあった。
 楽しそうに聞いてくれるおかげで、あたしも楽しく時間を過ごせた。少し話しすぎたりして食事を終えるのに普段よりも遅くなってしまったくらいだ。それでも「慌てなくていいから」と落ち着き払う椎名さんは変わらず紳士的だった。
 前までは、そんな対応がオトナでカッコイイと胸をときめかせたりしたけど、どうしてだろう、今はそんなふうに感じなくなった。そんな自分にショックを受けた。確かに椎名さんはスマートでカッコイイ人だ。外見だけでなく、さり気なく見せる気遣いや仕草にそんな感想を抱く事は多々ある。だけれど、あの時から、その裏に何かあるのでは、と勘繰ってしまうのも事実だった。
「実はここの部屋を取ってあるんだ。なかなか良い部屋が取れたから、きっと気に入ると思うよ」
 そう言って連れてこられたのはそこそこ上層階の一室で、ダブルにしても広さが充分に分かる部屋だった。間取りも普通のアパートよりしっかりしていて、セパレートタイプのトイレとバスに、ゆったりとできるバルコニーまであった。ベッドはクイーンサイズで、二人で寝ても充分な大きさだ。
 なかなか良い、なんてものじゃない。凄く良い部屋だ。
 椎名さんは部屋に入り、上着を脱ぐと、ワインを持ってテーブルに着いた。グラスが二本あったから、一緒に飲もうというのだろう。バッグをソファの端に置くと、注がれたグラスを手に取った。ワインの味は良く分からないけど、雰囲気を楽しむというのも一つの飲み方だ。それを教えてくれたのは倉掛さんだったけれど。
「マスターが、エミちゃんが全然顔を見せに来なくなったって、寂しがってたよ」
 ツマミのチーズやフランスパンを運びながら椎名さんは言った。そういえば随分と行っていない気がする。マスターの優しい笑顔が思い浮かんだ。
「今度二人で行こうか? そしたらマスターにまた、付き纏うなって怒られるかな」
 椎名さんは自分で言いながら「それは嫌だな」と笑った。その場面が目に浮かぶようで、あたしも釣られて笑う。
 ボトルを半分程開けた頃、椎名さんはシャワーを浴びに席を立った。二人で飲んではいたけれど、あたしは最初の一杯だけでフワフワとしてきた。ボトルの半分を飲んだのは椎名さん一人だ。一人になると特にする事もないので、クッションを枕に横になった。この後もあるだろうに、横になるとますますアルコールが回るようで、微かに聞こえるシャワーの水音を耳にしながら、ウトウトと瞼が重くなってくる。
 ダメだ、と思いつつ目を閉じた。しばらくして目を開けると、目の前にはすっかり髪を乾かした椎名さんがバスローブ姿でワインを飲んでいた。いつの間にか眠っていたようで、目を開けたあたしに気づいた彼は「よく寝てたね」と苦笑しつつ言った。
「疲れてたのかな。今日はこのまま寝るかい?」
 あたしは起き上がって頭を横に振る。久しぶりの椎名さんとの夜だ。何もしないで帰るのは勿体無い。それにサトシには、今日は泊まることを伝えてある。おそらくサトシもそのつもりで今日の予定を既に決めてあるかもしれなく、それを勝手に覆す事はなんだか気が引けた。それなら自分の部屋に帰ればいいのだろうけれど、一人になるのはそれ以上に避けたかった。
 あまり働かない頭のままシャワーを浴びに立ち上がる。アルコールはだいぶ抜けたと思ったが、若干足元が覚束ない。
 よろけたあたしの腕を椎名さんが間一髪で掴み、無様な転倒姿を見せないで済んだ。
「危ないなぁ。もうこのまま寝ようか」
「でもぉ……」
 せっかく椎名さんと二人なのに……。そう言おうとする前に、椎名さんによってベッドへ連れられた。布団の中に入れられて、けれど椎名さんは同じベッドに入ってはこなかった。
「たまにはこんな日があるのもいいよ。きっと休みが続いて遊びつかれてるんだろう。ゆっくりお休み」
 そんなわけがない。休みが続いているのは時間的なものだけじゃない。遊びになんて……ショッピングすら全然行ってない。
「――うん」
 それでも優しく頭を撫でてくれたから、あたしは抵抗もせずに目を閉じた。
 眠れそうにないと思ったが、指先が離れていくのを感じながら、次第に意識も落ちていくのが分かった。

 翌朝は、椎名さんの車で駅前まで送ってもらった。結局昨夜は本当に眠っただけで終わった。朝シャワーを浴びた後も、戯れのようなキスを1回しただけで、今日も仕事だという椎名さんと一緒にチェックアウトした後も腕を絡ませる事なくホテルを出た。これじゃあセフレにもなっていないと思うのだけど、椎名さんは気にしていないみたいだった。
「ありがとうございましたぁ」
「またメールするから」
 手を振って椎名さんの車を見送る。
 振り返って気づく。サトシの部屋の最寄り駅を選んで送ってもらったここは、多嶋先生が通勤路だったからと言ってあたしを拾ってくれた駅でもあった。ここで待っていたら、先生に会えるだろうか?
 なんて、少しでも思ったのが悪かったのか。時間があるだけ待ってみる気になっていた。
 改札の前まで行き、見逃さないように壁を背にして立った。日曜日だからか、それ程人の往来は激しくなかった。普段はスーツ姿のサラリーマンや制服姿の学生が多いのだけれど、小さな子供を連れた親子や友人連れの若者達が目を引いた。彼らはこれから遊楽地にでも行くのだろうか。楽しげな表情を見ていると、今あたしは何をしているんだろうと思う。
 ただ先生に会って、どうしてあの日あたしを無視したのか、それを聞きたいだけだ。だけどそれも先生にとっては迷惑なんだろうと思った。研究室を覗くたび呆れつつも迎え入れてくれる先生に甘えているのは分かっていた。最初からそうだった。先生があたしを歓迎してくれることなんてなかった。言い訳するなら、そうでもしなければあたしと先生との接点なんて皆無だからだ。
 また無視をされたらどうしよう。そんなことが頭に過ぎる。あの日は急に昔のことを思い出して取り乱してしまったから、ただショックで立ち尽くすことしかできなかった。今日はまだ冷静だ。一過性のことだと平静でいられるから、そしたら……。
 考え事に真剣になりすぎていた自分に気づき、慌てて俯きがちになっていた顔を上げる。この間に先生が前を通っていたら、と焦って見渡すが、それらしい姿はなかった。安堵したような落ち込んだような気持ちで溜め息をついた。そもそも今日は日曜日だ。学校も休みで、こんな朝早くからここを通るだろうか。
 ふとそんな初歩的な疑問が浮かんだ。そうするとその疑問が確信に変わっていく。ここに先生が来るわけがないじゃないか。時計を見ると朝も大分進んで、あと一周長針が回れば正午になる。
 あたしは待つことを止めた。電車には乗らないからそのまま外へ出る。目の前の公園に目をやる。ここから見えるベンチには誰も座っていない。時折ランニングしている中年男性や年配の女性が目の前を通った。
 いつの間にか早歩きになっていた。ピンヒールを履いていたから何度かこけそうになったけど、息切れし始めると、小走りになっている事に気づいた。いてもたってもいられなかった。
「オーカーンー!!」
 サトシの部屋に入るなり叫んだ。まだ部屋で寝ていたらしい彼は突然のことに驚き、飛び起きた。
「エ、ミ……!?」
「オカン、起きてぇ!!」
 脱いだサンダルを投げ飛ばし、ドタドタと足音が立つのも気にせずサトシの腹の上にダイブした。勢いがつきすぎて、サトシがゴフッと苦しげな声を上げたが、気にしなかった。
「だからオカンじゃねーって。いつの間にかあだ名みたいに呼んでるし」
「エミ決めたっ、ここに住む!」
「はぁ!?」
 あたしの一大決心を聞いたサトシは素っ頓狂な声を出してあたしを見下ろす。サトシの膝上に跨ったまま、あたしは更に続けた。
「大学もエミの部屋から通うより近いしぃ、近くにモールもあるしぃ、オカンの近くに住んだらいつでも会えるよねぇ」
 それに何より、先生との距離が縮まる。そんな気がした。あの駅が通勤路ならばこの辺りの徒歩圏内に住んでいるはずだ。
「あ、ああ……この辺りに越してくるってことか。びっくりした」
「でねっ、部屋が決まるまでここに泊まってもいいかなぁ」
「はあぁぁ!?」
「その代わりエッチはいっぱいしてもいいよぉ」
 そろりとサトシの股間を撫で上げれば、朝だからか少し立ち上がっていたソコがびくりと震えた。サトシは慌てるが、そんなことはものともせず、あたしはサトシを押し倒した。椎名さんとヤらないまま帰ってきたから、体力は余っている。
「待て待て待てー!!」
 サトシはあたしの肩を抑えて辛うじて距離を保とうとした。重力があるからこの態勢からでは女だとてあたしの方が有利な状況ではあるけれど、あまりの慌てぶりに上がっていたテンションを少しばかり沈める。このまま雪崩れ込むのは時間的に憚れるのも分かった。
「泊まるのは良いがそういうことは無しにしようぜ、な、エミ」
「どうしてぇ?」
 あたしにできるものと言えばセックスの相手くらいしか思い浮かばない。あたしが家事も洗濯も掃除も不得手な事を既にサトシは知っているはずだった。
「やっぱり俺ら友達だし、健全な付き合いが必要だと思うんだ。俺にもこの先彼女できる予定だし、余計な揉め事は避けたいだろ」
 確かに彼のいうことには一理ある。余計な揉め事は既に侑くんとのことで経験していたから身にしみるほどだ。失念していた。簡単に言ってしまった己の失言に肩を落とした。
「ん、わかったぁ。オカンの言うとおりだねぇ」
 しおらしく素直に頷けば、サトシはホッとしたように胸を撫で下ろした。それもちょっと失礼じゃないかと思ったが、何も言わない事にした。
「それにさ、前からずっと言わないとって思ってたんだけど、エミはもっと自分を大切にした方がいいよ。自分の体、安売りするなよ」
 あたしはキョトンとして小首を傾げた。山田君にも同じことを言われたことがある。
「エミ、安売りなんてしてないよぉ? ちゃんとシたいなって思う人とじゃないとシないもん」
 そう思う人が普通より多いってことは自覚している。なのにどうして同じことを何度も言われるのだろう。あたしはこの体に誇りを持っているし、大切にしている。体を重ねるのは一番人の優しさや温もりを感じられるからで、むやみやたらと足を開いているわけじゃない。
 サトシは不思議そうにしているあたしを見て苦笑し、けれどそれ以上は言ってこなかった。あまりあたしのことを伝わった気はしないけど、言われなければ分からない。あたしは人の機微を見れるほど洞察力に優れてもいない。
「エミには包容力のある人じゃないと心配だなぁ、……オカンとしては」
「それって……」
 例えば――先生とか?
 あたしは喉まで出かかった言葉を押し込む。どうしてここで先生が出てくるんだろう?
 次に浮かんできたのは倉掛さんと椎名さんだった。うん、彼らの方がしっくりくる。