彼女の場合

14

 連日、猛暑日が続き、朝の目覚ましは専ら蝉の鳴き声に変わっていた。
 倉掛さんから引越しの日程がほぼ確定したと連絡が来たのはほんの数日前だ。あの日が最後だと言っていた倉掛さんは、それでも小まめにメールや電話をくれる。接し方は変わってしまったけれど、見捨てられたわけではないのだと安堵した。むしろ本来あるべき姿に戻ったというところか。
 それでもあたしは求めてしまう。倉掛さんから与えられていた優しい温もりの代わりを探してしまう。それは彼の望んでいた結果ではなかっただろう。簡単に体を繋げてしまうだけの関係の脆さを、倉掛さんはきっと知っていた。
「エミ、起きてる?」
 抱き合った後の状態のまま横になっていると、背後から眠そうな声が聞こえてきた。ここ幾日かですっかり耳に馴染んだ声は、倉掛さんでもなく椎名さんでもなく、ましてや祐とも違った甘さの感じるものだった。
「朝だけど……何か食べるか」
 ごそごそと起き上がる気配がして首だけを回して振り返ると、寝癖の酷いサトシがこちらを向いていた。あたしと同様彼も昨夜の情事を思わせる雰囲気を残し、裸のまま寝ていたようだ。サトシは片足だけ膝を立てて気だるそうに前髪を掻き揚げた。胸元に小さなペンダントが光る。お気に入りのブランド物だというそれを見るのは何度目だろう。最初に触れたのはこの前の旅行の時だったか。
「お腹空いてない」
 視線を正面へ戻して答えた。少しの空腹感はあったけど食べたいとは思わなかった。それよりもこうしてグダグダとベッドの上で過ごしたい。扇風機だけが回る部屋は蒸し暑くもあったけれど、今はその汗ばむ温度と気だるさの中に浸かっていたかった。
「昨日もそう言ってあんま食べてないだろ。つか、マジで家に帰らなくていいの?」
 何度目かの問いかけに、あたしはブランケットを頭からすっぽりと被り体を隠した。サトシの溜め息が小さく聞こえ、どうやら彼はベッドから降りたようだ。服を着る音がしたかと思うと、部屋から出たのが分かった。意外とマメな男だから、生真面目に朝食を作りに行ったんだろう。そしてそこにはあたしの分も用意されているはずだ。幾度かの朝を共に過ごして初めて知った彼の一面だった。
 サトシと初めて寝たのは、奈々が声を掛けてきた旅行に行った時だ。倉掛さんから最後だと宣告されてから1週間程経った後だった。大阪で花火を見た帰り、酔った勢いだった。あたしは倉掛さんを失って寂しかったし、サトシも彼女と別れたばかりだと愚痴っていた。隣で花火を見上げている内に酒の力もあって妙な雰囲気になり、そのまま二人で抜け出した。泊まっている部屋は奈々と一緒だったけからホテルには戻らず、近くのラブホを見つけて入った。旅行の時はその一回きりだった。戻ってきてからは今日まで、申し訳ないという気持ちが薄れるくらいにはサトシの部屋に入り浸っている。狭くて殺風景なここは驚くほど快適だった。
 本当はサトシが心配するのも分かるのだ。夏休みなのをいいことに、あたしは最低限の動きしかしていない。朝目が覚めて、サトシが用意したご飯を無理矢理お腹に詰め込んで、また寝て、サトシが出かけるのを見送って、夕飯を食べて、お風呂に入って、サトシに「おかえり」と言って、寝る。それを繰り返すだけで、何もしていない。体重は少し増えたかもしれない。
「おい。早く起きろよ」
「はぁい」
 オカンか、サトシは。
 あたしはのろのろと動き出す。昨日と同じTシャツと短パンに着替えて布団から出た。部屋の中央に置かれているちゃぶ台にはトーストとインスタントの味噌汁が並んでいた。思ったとおり、あたしの分もある。
「今日はバイトはないんだけど、大学行くから、エミも来いよ」
 サトシの真向かいに座ると、トーストを片手にそんなことを言ってきた。誘ってくる意味が分からず小首を傾げた。
「なんでもエミも行くのぉ?」
 トーストを齧ったままで味噌汁をかき込むようにして飲んだサトシは、一息ついてこちらに目を向ける。
「どうせ今日もやることないんだろ。部屋に篭ってるより出た方が良いって」
「答えになってなぁい」
 それでもサトシが焼いてくれたトーストは美味しかった。バターを付けただけなのに、ほんのり甘くて香ばしい。味噌汁は懐かしい味がした。サトシにはこのセットが定番らしく、朝だけは毎日同じメニューが出てくる。最初こそ違和感があったものの、今はこれもアリだと思えた。
「とにかく篭ってるのは良くないぞ。……何があったか知らんが、外に出れば気晴らしにもなるだろ」
「ん……。そうだねぇ」
「早く食えよ」
「はぁい」
 やっぱりオカンだ、サトシは。



「――で、なんでまた俺の所に来るかな」
 大学に着いて研究室を覗くなり、目敏くあたしに気づいた先生は振り返って呆れたように言った。前と同じように端へ追いやられていた椅子を持ってきてくれていたけれど、前にはなかった座布団がさり気なく敷かれていた。
「だって強制的に連れてこられたんだもん。行くとこなんてないしぃ」
 遠慮なく椅子に座らせてもらえば、くるりと回って先生と向かい合う。相変わらず先生はボサボサの髪を正すこともせず、ヨレヨレの白衣で身を纏っている野暮ったい格好をしていた。それが先生らしくもあり、妙に様なっているように見えるのは、あたしがこの姿に慣れたということだろうか。皺くちゃのスーツは、それでも大事に長く使っているようにも見えた。
「他に友達はいないのか」
 心配するでもなく、ただ口にしただけという感じがひしひしと伝わる口調で先生が尋ねた。
「いるよぉ。でも先生に会いたくなったんだもん」
 にっこりと微笑んでみせる。先生は呆れたような諦めたような溜め息を吐いた。頬杖をついてこちらを見る視線はあたしを哀れんでいるようにも見えた。ひょっとして嘘を吐いていると思われているのかもしれない。
「それよりさぁ、先生って夏休みもずっと学校に来てるのぉ?」
 近くにあった本をパラパラと捲るが、日本語とは到底思えない文字の羅列が目に入ってすぐに閉じた。アルファベットや数字がただ並んでいるだけのようにも見えたし、何かの文章になっているように見えなくもないが、それらは理解の範疇を超えているとしか言い様がなかった。唯一探し当てた見覚えのあるものと言えば、レポートを完成させる為に祐から借りたノートに書かれていた定型コードくらいだ。
「ずっとということもないが。自由に時間が使えるのはお前らが休みに入っている時くらいだからな」
 そういえば大学の先生は研究職だった、というのを思い出した。論文の締め切りが近いからと時々休講になる先生もいたから、あたしが思っているより先生達は多忙な生活をしているんだろう。
「じゃあ今、エミって邪魔してるんだよねぇ……?」
 立ち上がる気もないくせにショボンと落ち込んだ。困ったように表情を歪ませた先生は、けれどもあたしを責める言葉は口にせず、コツンと額を指で弾いた。
「話したいことがあって来たんだろう? 変に気を遣われる方が気味が悪い」
 ほら、嫌そうな表情をしながらも声音はどこまでも優しく響いて……。
 だから、先生に甘えてしまうんだ。先生は分かってるのかな。
 それにしても不思議に思う。どうして先生の傍はこんなにも安心できるんだろう? キスもセックスもしていないのに、例えばさっき先生の指先が触れた額だとか、なんだか温かい気がするのはどうしてだろう?
 内心そんなことを考えながら、素直に口を開いた。椎名さんのことや旅行のことやサトシのことを、止め処なく話した。最初から先生には自分を取り繕うなんてことはなかった。する必要も感じなかったし、そもそもそんな気さえ起きなかった。椎名さんと会った時と似ているようで全く違うこの感覚は、初めて感じる心地良さだ。
 雑談のような相談のような、話しているあたしにもよく分からない話を、先生は一度も止めることなく聞いてくれる。だからかな、とも思う。適度な相槌と時折向けられる視線に聞いてくれているという安堵を覚えるから、つい言いにくいことまでポロリと零れ落ちてしまった。
「変だよねぇ。今までそんな付き合いばかりしてきたのにショックを受けたなんて」
「……変じゃないだろ。全然普通のことだよ」
 馬鹿にすることもなく、真剣に答えることもなく、淡々とした口調で返してくれた言葉は、ストンとあたしの胸に突き刺さった。
「そう……かなぁ」
 自信を持てずに聞き返せば、そうだよ、と簡単に頷いてくれる。
 何も考えてないみたいにあまりにもあっさりと言うから、一瞬だけ戸惑う。
「お前、そいつのこと好きだったんだ。だからショックも受けるし、それでも関係を切ろうとしなかった。それだけのことだよ」
 驚いた。
 どことなく先生と恋愛ごとは結びつかなくて、“好き”なんて単語をその声で聞くとは思わなかった。
 そうだったんだろうか。あたしは椎名さんのことを好きだったんだろうか……?
「で、でもねぇ? エミは山田君やサトシともエッチしたんだよぉ。ううん、もっと他の人ともした……椎名さんだけじゃないんだよぉ?」
「それで?」
「え……」
 間髪入れず先生が尋ねた。それで、って。それだけのことだ。他に言い様が無くて困ってしまう。好きな人ができたら、その人としかシたくないって、普通はそう思うものじゃないの? 少なくとも倉掛さんはずっとそう言っていた。あたしもそうなんだと信じて疑わなかった。だからあの日、倉掛さんは最後まで拒まなかったあたしを悲しそうに見つめながら――抱いたんだ。
「それで、そのエッチはどうだったんだ。ヤマダクンやサトシとしたのと、シイナサンとしたのと、違いがなかったか?」
 違い……?
 聞かれて、思い出してみる。椎名さんとの激しいセックスと、山田君とのたどたどしいセックスと、サトシの馴れ合うようなセックスと、それから――。とにかく思い出せる限りの夜のことを思い返してみた。そうすればそうするほど、自分の節操のなさに項垂れる。けれど結局はどれも自分で選んだことだ。後悔はしていない。どの夜もそれぞれに温かくて、自分の存在を求められる嬉しさは変わらない。あたしが求めていたものは、形は違えど全て辿り着く先は同じで、そういう意味では椎名さんとのセックスだけが特別というふうには感じられなかった。それでも先生は、あたしは椎名さんのことを好きだったというのだろうか。
 分からない。自分のことなのに、混乱さえしてきた。
「もしかしてお前、人を好きになったことがないのか?」
 いつまでも答えられないあたしに、先生はやはり静かな口調で聞いてきた。
 そうかもしれない。あたしは小さく頷いた。人を好きだと感じたことはあっても、それはきっとここで先生が聞いている意味での“好き”とは違うものなんだろう。椎名さんの好きと山田君やサトシを好きだと思う気持ちの違いが、あたしには分からない。倉掛さんのことも好きだったし、勿論先生のことも好きだ。
 初恋の記憶は小学生の時のものだけれど、苦い記憶と重なって上手く思い出せなかった。ちょうど家の中がごたごたし始めた頃だ。あたしは両親が言い争うたびに身を潜め、そこから父親が酒びたりになり、暴力が始まったはずだった。
 そこまで蘇ってきた記憶を慌てて追い払うように頭を振った。嫌な事まで思い出してしまった。胸が苦しくなるのと同時に吐き気を覚えた。
「ごめん、先生ぇ、もういいよ……っ」
 反射的に立ち上がるとクラリと一瞬眩暈がしたが、すぐに感覚を取り戻して研究室を出る。先生の驚いた顔が視界の隅で見たけれど、今は構っていられなかった。本当に吐きそうだった。
 研究室が並ぶ3階から2階の女子トイレへ駆け込む。夏休みだからか、トイレの中は無人だった。一番手前の個室に入り、体を屈ませた途端、胃の中から込み上げる残飯が便器へと吐き出される。酸の苦味と味噌汁の塩辛い味が独特の不味さを作り出し、口の中に残った。それを何度か繰り返し、落ち着いた頃には肩で息をしていた。苦しくて涙が目の端から零れた。
 水を流すが、口の中の嫌な味は残ったままで、ふらふらと手洗い場に出た。口の中を数回漱いで顔を上げれば、不細工なあたしが鏡の中にいる。水滴とも涎ともつかないものが口の周りを汚し、ダラダラと垂れていた。
 何年振りかに吐いてしまった。あの頃を思い出してこんなふうになることは初めてではなかったけれど、それでも最近はすっかり無くなっていたことだったのに。
 口の周りを綺麗に拭き、トイレから出る。静かな廊下はいっそ不気味な程で、じっとしていられなくてあたしは適当に歩き出した。
 そういえばサトシはどこに行ったんだろう。どうせ戻るのは彼の部屋だから先に帰ると声を掛けようと思ったのだが、サトシの行きそうな場所が思いつかない。サークルに顔を出すと言っていたから、部室棟に行けば分かるだろうか。何のサークルかは思い出せないが、なんともマニアックなサークルだった印象だけ覚えている。サトシのチャラい外見とはミスマッチ過ぎて奈々たちと爆笑したっけ。本人はいたって真面目だったけれど。
 などと考えていると、サトシを見つけた。一人だ。前から歩いてくるサトシは、あたしを見つけるとややぁと手を上げた。
「よぉ。どこに行ってたんだ?」
 その能天気な笑顔にあたしの張り詰めていた何かがプツンと切れる音がした。
「うー……サトシぃ……」
 駆け寄ってサトシの薄い胸に飛び込む。驚くサトシは、だけど突き放すことはせず抱きとめてくれた。泣いてはないけど、泣きそうだった。先生の腕の中も安心できたけど、サトシの腕の中はまた違った感覚がある。それはきっと突き放されることはないとう信頼感だ。
「サトシはオカンだよぉ」
「なんだそれ? こんな大きな子供を持った覚えはないけどなぁ」
 笑いながらサトシはヨシヨシと背中を摩ってくれる。やっぱり何と言おうとサトシはオカンだ。
「つか俺男な。オカンはやめろ。せめてオトンだろ」
「だってサトシ細いもん。オトンは逞しいって決まってるもん」
「あぁん? 誰がもやしだって?」
「そこまで言ってないよぉ」
 二人だけしかいない廊下で抱き合ってじゃれ合っていると、心も頭も落ち着いてきた。
「ありがとぉ。もう大丈夫ぅ」
 そろそろと背中に回していた腕を解いて体を離せば、同じようにサトシもあたしの背を撫でていてくれた手を離した。サトシはあたしの前髪をそっと指で払う。
「泣いてないな?」
「うん」
 泣きそうだったのは本当だったから、サトシは心配してくれていたんだろう。にっこりと笑って答えれば、サトシも安堵したように小さく笑みを零した。人前で泣いたのは、アレからは先生の前だけだ。そう思うと、さっきのことは少し悪かったような気がした。先生にもちゃんと謝らなくちゃ。それから今日の分の「ありがとう」も言おう。
 サトシには少し待っててくれるように頼んで、再び3階へ上がった。小走りで研究室へ戻れば、先生の姿はなかった。椅子や机の上はそのままだから、少し席を外しているだけだと判断できた。あたしは研究室の前で立ったまま先生の戻りを待つことにした。
 急に出て行ってごめんなさい。話を聞いてくれてありがとう。
 それだけを言いたくて待っていた。

 だけど先生は来なかった。

 待たせたままのサトシの所へ戻る途中ですれ違ったのに、先生は視線も合わせてくれず、呼び止めても振り返ってもくれなかった。
「先生ぇ!?」
 絶対声は聞こえているはずだったのに、どうして……?