彼女の場合

13

 久しぶりの椎名さんとの行為は、確かに彼が言った通り情熱的に盛り上がり、出会ったばかりの頃の快感を思い出させてくれた。しかし、あたしの中で彼が激しく動き回るほど、あたしの心はどこか遠くに追いやられ、嬌声を上げる自分をもう一人の自分が静観しているような感覚に襲われた。
 情事後特有の倦怠感を抱えながらも、一緒にベッドを共にすることは躊躇われた。今までは行為後にいちゃつく時間の方が好きだったのだけれど、今は一人になりたかった。あたしはそれをあからさまに表さず、一言だけ断ってシャワールームへと飛び込んだ。
 掴みどころのなかった椎名さんがどういう人か、今夜で理解できた気がする。流石にこれが彼の全てとは言えないだろうが、あながち間違ってもいないだろう。彼の方こそ己の欲望に忠実だった。
 レストランで椎名さんはあたしと自分は同じ類の人間だと言ったが、求めているものは全然違った。あたしは快楽の先に求めるものがあり、彼は快楽そのものを求めていた。他人から見ればそれだけの違いかもしれないけれど、あたしにとっては大きな意味を持っていたのだ。だからその差をまざまざと思い知らされ、あたしはショックだったし、同時に彼との距離が一気に遠のいた気がした。
 きっと椎名さんも気づいているだろう。彼はモテるタイプの人だ。そして多くの人と経験を積んできた人でもある。あたしの“演技”に気づかないはずはないと思う。
 あたしは椎名さんを好きだったのかな……?
 だからこんなにも苦しいのだろうか……?
 シャワーを頭から浴びながら、暫くはじっと排水溝へ流れていく水を見つめていた。
 長い時間をかけて体を洗い、無理矢理時間を潰すようにして、普段はしないトリートメントを念入りに行なった。あたしがシャワールームから出る頃には、椎名さんもベッドから移動し、一人の時間を満喫していたようだった。
 泊まる気はないと宣言するまでもなく、察しの良い椎名さんはおもむろに片付け始めたあたしに言葉を掛けるでもなく、ルームサービスで頼んだワインを傾けていた。バスローブ姿でソファに腰掛ける彼は、見るからに優雅な雰囲気を醸し出していて、そこにあたしがいない方がむしろしっくりくる。彼の隣にあたしは似合わないのだと改めて気づかされ、だからと言って自分を変えようとは思わなかった。
「じゃあ帰るねぇ」
 すっかり身支度を整えて椎名さんに声を掛ければ、一応は見送ってくれるらしい。ソファから立ち上がり、あたしの目の前まで足を進めてきた。
「ああ、またね、エミちゃん」
 ここ最近強請ってからようやくもらえていたキスを彼はすんなりとあたしの額に落とし、にっこりと笑顔を作る。
 次があるのか今のあたしには答えられず、曖昧に笑って部屋を出た。
 ところが、である。
 椎名さんからの次の誘いは、意外にも早く訪れた。あの日から1週間程しか経っていない週末、いつもと同じ文面で食事に誘われたのだ。待ち合わせ時間は彼の仕事終わりだからか遅めの設定だった。もしかして、との予想通り、レストランを出ると彼に連れられてい行ったのはラブホテルだった。いかにもといった所ではなく、一見ビジネスホテルのような質素な建物だ。
 そこで濃密な夜を過ごし、しかしながらやはりあたしは泊まることはせず、そのまま先に帰ることにした。椎名さんはそんなあたしに何を言うでもなく、笑って見送ってくれる。

 そんな一夜が過ぎていく度、あたしはいつまで続くのかと不安になるのだけれど、もちろん椎名さんから期限を突きつけられることもないまま、もうすぐでひと月が経とうとしていた。

 久しぶりに会うマスターは、相変わらず優しい態度で迎えてくれた。
「今日はどうする?」
「うーん。ウーロン茶ぁ」
 依然と変わらず、狭い空間の中で少人数の常連客が静かな店内を僅かに賑やかし、居心地のいい空気を作ってくれている。その大元が目の前にいるマスターの人柄ゆえのものだということをこの中にいる誰もが理解していて、皆が平等にほろ酔い気分を味わえるのだ。
「お疲れのようだね、エミちゃん」
 キンキンに冷えたウーロン茶を一口飲み干すと、にこにこと微笑を浮かべるマスターが声を掛けてきた。確かに今日のあたしは疲れていて、カクテルを頼もうものなら半分も空けずに酔えそうな程だった。これから人と会う約束があるのにそんな状態では行けないだろう。
「もぉ疲れたよぉ。聞いてぇ、マスター」
 項垂れる頭を何とか持ち上げて、適度な相槌を打ちつつ黙って聞いてくれるマスターに、あたしは今日までいかに大変だったかを切々と語ってみせた。内容は主に先週から始まった試験のことだ。学生の本分であるから愚痴ったところでやらないわけにはいかないのだけれど、どうにもならないことでも言わずにはいられなかった。何よりも酷いのは多嶋先生だ。
 多嶋先生の講義に試験はなく、全てレポートで評価が決まる。とは言っても学校側としては形式だけでも試験を行なわなければならないようで、レポート形式の試験を行なうことになったのだ。これは多嶋先生の講義だけが特別というわけではなくて、レポート形式を取っている講義はいくつかある。
 レポートのテーマは事前に知らされており、レポートを仕上げる準備期間も多少ではあるが設けられた。その上先生の計らいで、試験当日は事前に用意したものを指定の用紙に書き込むだけで大丈夫なようになっていた。
 祐から少なからず情報は得ていた為、ある程度の覚悟はできていた。正式に取っていた講義ではなかったけれど、途中参加だとしてもテーマを配られた以上、これが単位に加算されずとも真面目なあたしに放棄という選択はなかった。
 だから祐や周りの友人達に手伝ってもらいながらも準備を整え、当日までになんとか下書きを完成させることが出来た。この苦労は何物にも変えがたく、試験が終わった暁には無理からでも先生に褒めてもらおうと密かな企ても立てていた。むしろ単位が貰えないにも関わらず頑張ったあたしは褒められるべきだろうとさえ思っていたのだ。
 それなのに、それなのに……!!
「先生ったらねぇ、頑張ったなぁの一言もなかったんだよぉ! 酷いよねぇ!? エミすっごく頑張ったのにぃ」
 はっきり言って多嶋先生の講義は完全に専門外だ。一般教養にも入らないような講義なのだ。学部が違うあたしが貴重な時間と労力を費やしてレポート出す義理なんて全くない。けれどあたしは、健気にも毎週通い、テーマを配られたから素直に試験を受けた。物が欲しかったわけでもない。ただ「よくやったね」とか「偉いね」とか、小さな子に与えるくらいのものでいいから、労いの一言を貰いたかっただけなのに、何一つ言葉を掛けてくれなかった。
 それを先生に直談判しても、呆れた顔をしただけで何も言ってくれなかった。どうでもいいようにあしらわれ、研究室を追い出されただけだった。
「大変だったのにね」
 慰めるような柔らかい口調で言ったマスターは、小さなチョコレートを数個テーブルに置き、あたしに渡してくれた。マスターは本当に優しい。このチョコレートが先生からだったら、今頃あたしは上機嫌でカクテルの一つでも飲んでいたに違いない。そんな妄想を抱いてしまった自分に溜め息を吐いた。
「ホントだよぉ。そりゃあさぁ、全部エミの力で書いたわけじゃなかったけどさぁ」
 胸を張って「自力でやりました」なんて嘘でも言えないけれど、ネットの文章を丸写しにしたわけでも他の人のレポートをコピーしたわけでもなく、ちゃんと内容を理解し、自分の言葉にして書いたレポートだ。その努力を認めてもらえないのは悲しいし寂しい。
 本当は言葉がなくても良かった。ただ認めてもらいたかっただけだ。無言でも、頭を撫でてくれるだけで嬉しいのに。
 そんなふうに思うあたしは子供っぽいだろうか?
 だから先生は相手にしてくれないのだろうか……。
 いやいや、とあたしはすぐに自分で自分の疑問を否定した。あたしは間違っていない。酷いのは先生の方だ。
 そこまで結論付けた頃には、約束の時間が迫っていて、慌てて会計を済ます。
 バーを出ていつかのグランドホテルへと向かう。倉掛さんが同じ場所を指定するのは珍しかったけれど、あたしは気にしなかった。倉掛さんの都合もあるだろうし、むしろ方向音痴気味なあたしには一度行っている所の方がありがたかった。
 前と同じレストランへ入り、名前を告げると、同じように席を案内された。席は違えども外の景色はよく見える位置で、倉掛さんは既に席に着いていた。あたしに気づくと嬉しそうに手を上げてくれる。
「ごめんな。なかなか時間が取れなくて」
 申し訳なさそうに謝る倉掛さんに、あたしはフルフルと首を横に振った。倉掛さんが忙しいのは今に始まったことではないし、そもそも頻繁に会ってくれるのだって彼の好意でしかない。だから都合がつかないことをあたしが責めるのは可笑しいのだ。
「実は、引越しを考えているんだ」
「え?」
「嫁の母親がこの前倒れてね。この機会に二世帯住宅にしようかという話が出てるんだよ」
 それは、あたしにとってはあまり現実味のない話で、ただ、まじまじと倉掛さんを見つめた。彼は困ったふうでも戸惑ったふうでもなく、淡々と事実だけを述べていく。その表情の奥には家族を思う気持ちがあるのだろうと想像できた。それと同時に、あたしとの関係をどうすべきか、迷っているようにも見える。
 言わば倉掛さんは、あたしの保護者的立場にあった。今でさえあたしとは体の関係を持っているけれど、もともとはただのご近所さんで、彼には当時から付き合っていた今の奥さんがいる。普通に考えれば、離れたとしても面倒をよく見ていた子として、付き合いを絶つことはないだろう。あたしもいい加減成人を迎えた年齢だし、例え心配になることはあっても、一人で生きていけないことはない。普通ならば――。
 それでも倉掛さんが迷うのは、あたしとの関係が普通とは少しかけ離れたものだからに他ならない。
 あたしは目一杯の笑顔を浮かべて答えた。
「エミなら平気だよぉ? もうオトナだもん」
 倉掛さんを安心させる為に言ったけれど、本当はあたし自身に言い聞かせていた言葉でもあった。でもそれは決して悟られてはいけないことだから、浮かべた笑顔を崩すわけにはいかなかった。
 けれど倉掛さんの表情は硬いままで、僅かに苦笑を零した。角度によっては自嘲のようにも見えるだろうか。
「……そうか。そうだよな……。あれからもう10年だ」
 正確には、倉掛さんと出会ってから13年経っている。あたしの人生の半分以上を彼は知っていて、きっと実の親よりも詳しいだろう。もしかしたらあたし自身よりあたしのことを分かっているのかもしれない。
 感慨深げに呟いた倉掛さんの手が、あたしの頬を撫でる。髪を掬い、耳にかける仕草は、劣情を抱いた時に彼がする癖だ。その証拠に、仄かに欲望を宿した光が彼の目に浮かび上がっている。中学生のあたしを抱いた時と変わらない光だった。

 最後だ、と倉掛さんは言った。これがあたしを抱く最後の夜だという意味だ。
「結局、エミから拒まれたことは一度もなかったな」
 ホテルのベッドへあたしを押し倒し、どこか残念そうに倉掛さんは呟いた。服を脱がせながら吐くセリフではないと思いつつ、その真意を分かっているから、あたしは何も答えず苦笑を浮かべた。
――本気で好きな人ができたら、決して他の人に体を開いてはいけないよ。
 初めてのセックスの時、何よりもまず倉掛さんがあたしに約束させたことだ。それはつまり、恋人が出来たなら倉掛さんとの関係は絶つことだということだった。その意味を本当に理解できたのは随分と経ってからだったけれど、結局それを遂行できたことはなかった。あたしは求められればいつでも応えていたし、また自ら誘うこともあった。その度に倉掛さんは愛しむように接してくれていたけれど、本音はあたしに拒んで欲しかったのかもしれない。
 最後だという今になってそんなことを思った。
「本当は、こんなふうにしないでも、安心させてやれれば良かったんだが」
 悲しそうに呟いた倉掛さんは、しかしそれでも最後まであたしを優しく抱いてくれた。
 椎名さんのような激しさはなく、親鳥が雛を温めるようにただ温もりを与えてくれた。
 あたしにはこの方法でしか人の温かさが分からないから。
 きっとそんなふうにしか感じられないあたしは、どこか壊れてしまっているのだ。