彼女の場合

12

「アハハハ! 振られたんだ、エミ?! あのヤマダに!?」
 講義終わりの休み時間、教室に残って雑談中、弾みで山田君との顛末を話した途端、ユッコはお腹を抱えて笑い出した。面識のないユッコがなぜ彼のことを知っているかと言えば、以前あたしがプリクラを見せたからだった。顔を寄せて撮ったツーショットを見て、その時もユッコは一人で笑った。どちらかいうと奈々寄りのユッコは、ひたすら男の美醜について熱弁していた。つまりは山田君を貶し、ひいては彼を選んだあたしをもバカにしていたのだけど、彼女にそういった自覚はないことも知っているから、少し苛立ちながらも無視したのはつい先日のことだ。
「ひどいよぉ。そんなに笑うこと無いじゃん」
 頬を膨らませて不服な表情をして見せるが、ユッコも奈々も特に気にした様子もなく笑って流された。それでもこの二人だから仕方ないかな、とは思う。彼の魅力は彼女たちには絶対に理解できないのだろうから。
「だってエミの男の趣味って変なんだもん。祐くんには全然興味示さなかったし、椎名さんともオトモダチでしょ。なのにヤマダとは付き合うかもぉとか言うし」
「山田君は良い人だよぉ」
「でもあの脂ぎった顔とかマジ勘弁って感じじゃない? 正直、エミとヤマダって釣り合ってないし、ヤマダの気持ちの方も分からないでもないわ。ヤマダにしては正しい選択だったと思う」
 酷い言われようだ。あたしに言っていたとしても彼に対してだとしても、どちらにしてもバカにされてるとしか思えない言動に、つい口を滑らせて閉まった数分前を激しく後悔した。奈々もあれだけ祐に対して執着を見せていただけあってユッコの意見には賛成のようで、あたしをフォローしてくれる気配も無い。あたしは余計に落ち込んでしまう。
「もぉ、いいよぉっ」
 堪らず立ち上がる。鞄を持って席を立つと、二人は漸く笑うのを止めて見上げてきた。
「あれ、どこ行くの?」
「帰るのぉ」
「あ、そう? じゃあまた明日ね」
 あっさりと手を振られて更に落ち込む。あたしが振られることって、まぁ少ないとはいけないけど、二人にとってはそんな程度なの? 悲しくなって、あたしは手を振り返さずに教室を出た。帰るといってもまだ日は高い。部屋に戻ってもすることはない。課題も提出したばかりで、試験もまだ1月ほど先で準備することも無い。
 違う誰かに慰めてもらおうかと思ったところで、祐を見かけた。旧図書館にでも行くのだろうか。祐は中庭を横切る所だった。
「祐ぉ!」
 声を掛けると祐は足を止めて振り返り、あたしを見つけると軽く手を上げてくれたので、ひらひらと手を振って駆け寄る。相変わらず大学では眠そうな顔をしていた。
「何、どうした?」
「ううん。今から図書館行くのぉ?」
 ふと祐の手に抱えられた本を見つけて問いかける。中庭を横切るのは旧図書館に行くかその向かいにある西館に行くかのどちらかだ。本館を回る行き方もあるけど、中庭を突っ切った方が近道なので、あまり前者から向かう人は少ない。そもそも旧図書館は主に和装本や古文書、貴重書を扱っていて利用者自体が少なく、だから中庭もほとんど人通りがない場所だった。
「いや、西館の方」
 そう言って持っていた本を持ち上げて見せた祐は、最後まで言わなかったけれど講義なのだろう。本のタイトルへ目をやってみたが横文字が並んでいてすぐに理解することを諦めた。文学部のあたしには理系の祐の講義内容を理解すること自体がおこがましいのだ。
「そっかぁ。じゃあ時間ないよねぇ」
「悪いな」
 祐は全然悪いとは思っていないような声音で答えた。愚痴を聞いてもらいたかったけど講義なら無理は言えない。残念だけれどあたしは祐と別れ、中庭を引き返す。
 携帯を開いてみるけど、会いたいと思う人は居なかった。椎名さんに他の男に振られたって話をするのはなんだか複雑で気が引けるし、侑くんとはもう会わないって決めたし、あとはサークルや高校時代の友達だけれど、そうなると既に誰でも良くなってくる。誰でもいいってことは一人には決められないってことで、カーソルを何度も上下に動かしてみたものの、結局決定キーを押すことはなく携帯を閉じた。

「だからってなんで俺の所に来るかな」
 先生は呆れながらも狭い研究室の中にスペースを作ってくれて、荷物置きになっていた椅子を運んでくれた。あたしはそこに座ると先生と向き合う形になる。煙草の匂いが不快感を刺激するけれど、不思議と先生の傍は居心地が良かった。
「先生だったらちゃんと話聞いてくれそうだったからぁ。でもぉ……迷惑ぅ?」
 困ったように上目遣いで見れば、溜め息を吐きつつも先生は「いや」と首を横に振った。表情は明らかに迷惑そうだったけれど言葉では否定されなかったから、あたしはほっと胸を撫で下ろす。
「けどプライベートな話されても、俺は何も言えないぞ」
 アドバイスできるほど立派な生活を送ってないからな、と真面目に言う先生が可笑しくて、あたしはついクスッと笑ってしまった。
「ううん。話を聞いてくれるだけでいいよぉ」
 それから先生の目に促されて、今までのことも掻い摘みながらもユッコに笑われたところまでを一気に話した。どうして侑くんや椎名さんのことまで話してしまったのかは自分でも分からないけれど、ちゃんとあたしのことを理解して欲しかったから、隠したくはなかったんだと思う。
 椎名さんと会って、でも最近は構ってもらえなくて、寂しくて……カラダだけの関係は嫌だったから侑くんとは関係を絶つことにして、山田君に会って――。
 そこまで話してふと思う。どうしてあたしはカラダだけの関係に満足できなくなったんだろう? 今まではそれで良かったのだ。だから侑くんとは高校時代から随分と長い時間付き合ってきたし、その間にも祐やサークルの先輩やナンパ男や、色んな人とも肌を重ねてきた。それは一夜だけのこともあったし、数ヶ月続いた時もあった。気が向かなかったら別れて、それが続くと自然と連絡も来なくなって、アドレス帳のナンバーだけが増えていくのだ。
 いつからだろうと考えて、最初に思い出したのは椎名さんと会ってからだった。最初こそ情熱的だった彼の接し方が、会う度に影を潜め、今ではあたしから求めない限りキスもなくなった。恋人同士というわけでもないからそれは当然なのかもしれないけれど、不自然な始まりだっただけにその当然のことが返って不自然に思われる。今までもこういうことがなかったとは言わない。しかし今までと違うのは、肌を重ねなくなったことが会う時間が減るということに繋がらない、ということだ。
 普通だと連絡することもなくなるのに……と思ったところで思考が途切れる。
 全て話し終えても先生は無言だった。考える内容もなくなってようやく落としていた視線を上げると、じっとこちらを見つめる先生がいた。
「……」
 立ち上がった先生はあたしの目の前に立つ。やはり一言も話さないで、静かにあたしの頭を慰めるように撫でた。くしゃくしゃと撫でられて、あたしは髪が乱れると怒る気にもなれず、ずっとされるがままに先生の手の温もりを感じていた。
――ずっとこうしてほしかったんだ。
 誰かに慰めて欲しい、愚痴を聞いて欲しいと思っていたけれど、本当は誰かの体温を感じたかったんだと気づいた。ただ抱きしめられるんじゃなく、心の方にも構ってほしいと願っていたんだ。自分でも気づかなかったけれど、本当に望んでいたのは、この手ただ一つだったのかもしれない。
「泣くなよ……。困るだろ、俺が」
 本当に困ったような声で先生が言う。ポタポタと落ちる雫が頬を伝い、スカートを濡らした。そんなことを言われても涙は止まらない。あたし自身が泣きたいと思っているわけでもないから、溢れ出てくるそれらの止め方がわからない。困った先生を見るとあたしも困ってしまうから顔も上げられない。
 それでも先生の手があたしに温もりを感じさせ続けてくれるから、涙が自然に止まるまで甘えてしまう。
「落ち着いたら帰れ。もう送ってやれないからな」
 言葉自体はぶっきら棒で乱暴だけれど、その声音は優しくて、コクンと頷いたあたしにもう一度先生の手が軽く頭を撫でてくれた。
 それが嬉しかった。不思議だった。
「ありがとぉ、先生ぇ」
 指で涙を払って顔を上げる。不細工だとは思ったけれど笑顔を浮かべた。苦笑する先生が手を離す。
「なんで俺のところに来るかな。他にも適当な奴がいるだろうに」
 先生の呟きは独り言のように小さく、あたしが答えることはなかった。


 先生に慰めてもらった後、あたしは少し考えた。今まで椎名さんがあたしを避けていたと思っていたけれど、本当はあたしの方だったのかもしれない。自覚がなかったから気づかなかったし理由なんて分からないけれど、椎名さんはあたしとの関係をどう思っているのか、ちゃんと確認したら何か気づくことがあるかもしれない。
 だから、あたしから椎名さんを誘った。珍しいね、と返信の時に言われ、そういえばそうかもしれないと思い当たる。椎名さんから誘われることが多かったけれど、あたしから会いたいと言ったことはなかった。誘われれば会いたいと思ったけれど、そうでなければ、あたしはどうだったんだろう。
「嬉しいよ。エミちゃんから誘ってくれるなんてさ」
 ニコニコと微笑む椎名さんは、相変わらず優しくて、そのことにほんの少し勇気をもらえた。
「ねぇ、椎名さん、ぎゅってして?」
 路上で、公衆の面前で、こんなことを言うのは恥ずかしかった。だけど椎名さんは少し驚いただけで躊躇うこともなく、緩やかにあたしを腕の中に引き寄せた。
 椎名さんの胸に頭を寄せる。人の体温は心地良い。ドキドキする。そして椎名さんとのセックスを思い出して、少しときめく。
「今日は甘えてくるね。嫌な事でもあったの?」
 優しく耳に響く声音があたしを擽る。
「話があるんだぁ」
 言って、体を離す。小首を傾げる椎名さんを連れて、そのまま椎名さんが予約してくれていたレストランへ入る。ホテルの中にあるフレンチレストランだ。家族連れの客は少なく、カップルの方が断然多い。窓は大きく、硝子越しとはいえ夜景はさぞや美しいだろう。あたしたちは壁側だったから拝むことは出来なかったけれど、遠目からでもネオンの光は覗き見れ、それだけで綺麗だと思った。
「いつもこんな場所に誘ってもらえて嬉しいけどぉ、高そうだねぇ」
「エミちゃんに喜んでもらえるなら安いものだよ。ここは気に入ってくれたかな」
 さり気なくエスコートしながら嫌味なくそんな答えを言えるのは、それが椎名さんだからこそ成せることだろう。
 そして前菜やスープを食べ終えた頃、前置きは充分だろうと椎名さんから本題を切り出した。
「それより話って何かな?」
 ウェイターがメインディッシュを並べ終え、後ろに下がってからあたしは口を開く。
「椎名さんにとってあたしって何だろうって思ってぇ」
 メインのステーキを切っていた手を止めて、椎名さんは若干驚いたようにあたしを見た。
「どうして今更?」
 確かに今更過ぎる質問だ。それは分かっている。自分でも呆れるくらいバカバカしいと思う。
 それでも聞きたかったことだった。椎名さんは答えないあたしに更に何かを尋ねることはなく、ただ静かに答えた。
「まぁ、友達以上のことはしたし、かと言って恋人なんて甘い関係でもないし、エミちゃんの言うことも分かるよ」
「本当ぉ?」
 ホッとして聞き返すと、ニッコリと頷いてくれた。
「うん。でも、僕は今以上の関係になることは望んでいないし、今のままでいいと思ってる」
 ニッコリと他意のない微笑を浮かべながら、椎名さんは言った。
「エミちゃんも僕と同じでしょ? キモチイイことに忠実で、でも恋人なんて面倒なものは作りたくない」
 何も言えないあたしの表情をどう読んだのか、椎名さんはさらに笑みを深くして小さく笑う。
「驚いた? でも当たってるだろう? 初めて抱いた時、ああ僕と一緒だなって思ったんだ。甘えてくるくせに自分の深いところには踏み込ませないところとかね。そこがエミちゃんの魅力的な部分だとも思うから、何も言わなかったし言うつもりもなかったんだけど。だからと言って僕たちの関係はこれからも変わらない」
「じゃあ、最近誘ってこなかったのはぁ……?」
「ふふ。寂しかった? でもその方が、今夜は盛り上がると思わないか?」
 悪戯っぽく笑う彼はひどく楽しげだった。あたしはなんとか引き攣った笑みを返すことが精一杯で、上手く頭が回らない。
……ああ、なんだ。椎名さんにとってはそれだけのことだったのか。
 それだけの存在だったのだ、あたしは――。
 深く考えすぎていた。バカみたいに悩んだあたしは、少しくらいは彼を好きなんだと思っていたけれど。
 見上げた先の彼の笑顔は、今までのような紳士的な印象は全くなくなり、心情が見えないその表情はただ不気味に思えた。