彼女の場合

11

 賑やかな喧騒がむしろ心地良く、適度に入ったアルコールも手伝ってか、あたしはとても機嫌が良かった。隣に座っているのは今日の合コンで初めて会った山田君だ。少しぽっちゃりとした体格で、はっきり言って全然タイプではないのだけれど、話し方や気遣い方が心地良く、その人柄に僅かながらの魅力を感じる。酔っちゃったみたい、とその腕に撓垂れかかれば、あまり女の子には免疫がないのか、柔らかそうな肉で覆われている体がひどく緊張したのが分かった。そこがまた可愛くて、今日はこの人でもいいかなぁ、と回らない頭で考える。
 奈々や祐に頼んで開いてもらった合コンも、今日で2回目だ。1回目は先々週の木曜日だった。どこで知り合ったのか、相手は法律関係の仕事をしている社会人4人だった。インテリ系相手の合コンはあまり盛り上がらなくて、連絡先は交換したけれどそれきりで終わってしまった。たぶん向こうも、女子大生という肩書きだけが目当てだったと思う。バカっぽいあたしやユッコには見向きもせず、ひたすら知性溢れる奈々に人気が集中していた。それも盛り上がらなかった要因ではあるだろう。
 今回は専門学校2年生という男子グループで、先日に比べれば随分と気楽で、まぁ外見は少々難があるけれど、皆良い人そうなのは幸いだった。
「エ、エミちゃん。大丈夫?」
 くってりと頭を腕に預けたまま動かないあたしを心配そうに山田君が覗き込んでくる。ふふっと小さく笑い、あたしは締まりのない顔を浮かべていたと思う。
「ねーぇ、この後二人で抜けちゃわない?」
 息を吹きかけるほどの小さな声で囁きかければ、山田君は耳まで真っ赤にしてまじまじとあたしを凝視する。小さく細い目がまん丸になるのはとても可笑しくて、思わず声を出して笑いそうになったけれど、喉の奥に飲み込んで更に体を寄せる。常套手段として自慢の胸を彼の腕に押し付ける格好なのだけれど、見事に脂肪に覆われている山田君の腕に果たして効果があったのかは謎だった。ただ、胸元を大きく開いた服装だったことは功を奏したようで、山田君の視線は遠慮がちながらもしっかりとあたしの顔と胸を交互に行き交っている。これはなかなかの好感触だ。あたしはダメ押しの一手で、あたしの腕2本分くらいありそうな彼の太腿にそっと手を置き、軽く撫でる。
「……だめぇ?」
 やや上目遣いで窺えば、山田君は小刻みにコクコクと頷いた。やったぁ、と喜び、笑顔を見せれば、山田君も小さく笑い返してくれた。この近くに泊まれるような場所はあったかと考えてみるけれど思い当たらず、それは外に出てから考えればいいかと思い直す。
 奥手そうなこの男はどんなふうに女を抱くのだろうか。この脂肪のように柔らかく温かく包み込むようなセックスだろうか。あたしは太い腕に甘えながら、下世話な想像をしつつ、抜け出すタイミングを見計らうことにした。


 朝、電車の中でメールを開く。着信は2件で、先ほど別れたばかりの山田君と、食事に行ったきりの椎名さんからだった。山田君からは「楽しかったよ」という感想と「次はいつ会えるか」というお誘いメールだ。不器用な彼らしくテンプレの顔文字が一つ、文末に付くだけのシンプルな文章で、それだけで好ましく思える。ああいう性格で絵文字をジャラジャラ付けるようだったら正直萎えていたかもしれない。
 山田君には次の約束を取り付けるメールを送った。山田君は本当に好青年という感じだったから、彼氏としては物足りないけれど、キープくらいはしていてもいいだろう。セックスも慣れていないようで、たどたどしく、むしろもどかしかった。女の子にも慣れていないようだったから、テクニックなんて端から期待はしていなかったが、それに鈍くささが追加されるのは無駄に焦らされているようで如何ともしがたいものだった。それでも抱きしめられればその重圧感に安心できた。及第点は今のところそこだけだ。
 不意に、ああそうか、と思い当たる。山田君は倉掛さんと似ているのだ。女性の扱いはともかく、優しい雰囲気とか、大らかな肉体が、倉掛さんのイメージと重なる。だから初めから好感を持てたのかもしれなかった。
 あたしは一人で納得して、次のメールを開く。椎名さんは相変わらず忙しいのか、メールの内容も食事のお誘いだけだ。誘われているだけマシなのだろうか? けれど、とすぐに思い直す。出会った頃は食事の後も必ず用意されていた。それ込みでの誘いだったはずだ。それが今は、メールの内容から明らかに食事だけと分かる。飽きてしまったのか、面倒になったのか。どちらにしても、それならば食事の誘いも必要ないように思う。
 電車が目的の駅に止まった。あたしは返事は保留にして席を立ち、ホームへと降りる。この駅を利用するのはほとんどが学生である。その波に乗りながら、あたしは一度携帯に視線を落とし、しかし再びメールを開けることなくバッグへしまった。まだ椎名さんのことは考えが纏まっていなかった。返信はゆっくり考えてからでも遅くはないだろう。
「エミ! おはよ」
 改札を出て通学路を歩いていると、後ろから声を掛けられた。振り返れば声の主は奈々だった。あたしも「おはよう」と返す。
「今日も暑いわね。梅雨が明けた途端なんだから、嫌になっちゃう」
 奈々はひどく鬱陶しそうに顔を顰めて言う。春は花粉症が辛いと嘆き、梅雨は梅雨で「湿気のせいで髪が纏まらない」と愚痴を言っていたから、結局はどんな季節でも文句は出てくるのだろう。あたしは「そうだねぇ」と適当に相槌を打ってその話は流した。
「そうだ。今年の夏休みはさ、皆で旅行行かないかって話してたのよね。エミも行くでしょ?」
「皆ってぇ?」
「私とユッコとサオリ。男子は彼氏組みとケンね。あ、あとサトシも行くって言ってたかな」
 彼氏組みというのはユッコとサオリの彼氏のことだろう。奈々の彼は社会人で、学生のあたしたちと休みを被せるのは難しいだろうし。調度男女4対4になるし、メンバーとしても悪くない。
「良いよぉ。エミも行くぅ!」
「じゃあ、メンバーはこれで決まりね。あと行き先なんだけど、皆バラバラなのよね。一応国内ってことにはなってるけど」
 エミはどこに行きたい? と聞かれて、あたしは真っ先に思いついた場所をそのまま口にした。
「んー、大阪かなぁ。一回食い倒れてみたいんだぁ」
「アハハ。エミらしいわね。オッケ、エミは大阪ね。ケンも生で甲子園見たいって言ってたし、関西巡るのもいいかも」
「ユッコ達はどこって言ってたのぉ?」
「ユッコとサオリは北海道よ。で、サトシが福岡で、私は長野」
 北海道と長野は避暑地として挙げたのだろう。福岡はやはり食べ物メインだろうか。皆場所はバラバラだけれど、考えることは一緒なのだ。それが可笑しくて笑ってしまう。
 奈々は、後日旅行会社でパンフレット貰ってくるから、そこからまた皆で決めようと言った。確かに時間はあるがお金は無い学生にとって、値段はかなり重要なポイントだ。あたしもそれには賛成して、帰りにどこか駅前でパンフレットを貰える場所があるか見てくることにした。皆で行くのだから奈々に任せきりいうのも悪い。奈々からすれば、立案者なのだから当然ということなのだろうけれど。
 一通り話している内に大学が見えてきた。1コマ目は同じ講義を受けるから、そのまま一緒に教室へと向かう。
「そういえばさ、合コンの人とあの後、どうだったの?」
 奈々が言うのはきっと山田君のことだろう。法律関係の社会人とはあれきり会ってもいないから、今後があるとすれば今のところ山田君だけだ。
「ヤったよぉ。でもまだ付き合うかは微妙だなぁ」
「そっか。まぁ、アレは外れだったわね。その前がもっと酷かったからマシに思えたけど」
 雰囲気だけだったね、と苦笑する奈々に、あたしは曖昧に笑う。奈々が気にする外見は、あたしにとっては大した問題ではないのだ。でもそのおかげで奈々のセッティングする合コンに来る男性陣はイケメンが多いから、彼女の価値観を否定するような言動を敢えてするような子は、あたしを含め一人としていないのも事実だった。
「それはいいんだけどぉ。でもぉ、また話があったら持ってきてねぇ」
 あたしがそう言うと奈々は「分かった」と頷き、けれども窺うようにしてあたしに視線を寄越す。
「でも、椎名さんは本当に良いの?」
 奈々の言いたいことは充分に理解しているつもりだ。だからしっかりと頷いて、良いの、とはっきり答える。
「別に付き合ってるわけでもないしぃ。好き……とかもよく分からないしねぇ」
 本当に、なんと呼べばいいのか、分からない。セフレでも友人でも、ましてや恋人でも家族でもないこの関係は、何なのだろうか。相手が望んでいることも、自分がどうしたいのかも分かっていないこの状況は、ただ苦しいだけだ。ならばいっそ止めてしまおうか、とも考えるけれど、それを椎名さんにぶつける勇気はなかった。
 侑くんとのように関係がはっきりとしていれば終わり方も簡単なのに、それもないから何と切り出していいかも分からない。そもそもあたしと椎名さんの関係ってなんだろう? そんなところから聞かなければならないのかと思うとげんなりする。「あたしと貴方って何?」なんて、どこの恋愛ドラマか。そんなセリフを吐く自分が想像つかなかった。


 結局椎名さんからの誘いは断ってしまった。彼からの誘いを断ったのはこれが初めてだ。どんな反応が返ってくるのか、正直怖かったが、案外とすんなり受け入れられてしまい拍子抜けした。仕方ないね、と苦笑交じりの表情が浮かんできそうな文面を見ながら、そんな程度のものか、と落胆する気持ちも少なからずあって、そんな自分に驚いたりもした。これでは恋愛中の駆け引きのようだ。全く以ってあたしらしくない。
 あたしは恋愛に関しては常に直球勝負だった。好きになって、告白して、付き合うなりフラレるなりして、それの繰り返しだった。駆け引きの真似事さえしたことはなかった。気を引きたければ婉曲な手は使わずにアピールしてきた。遠回しな事は苦手だった。
「ねぇ。手ぇ、繋いでもいいかなぁ?」
 隣を歩く山田君に寄り添うようにして尋ねてみれば、驚いた表情の彼がこちらを振り向く。デートをしているクセに、少しも予想していなかったと言わんばかりの反応に、つい声を立てて笑ってしまった。
「え、あ、あの」
「だめぇ?」
 語尾を上げて尋ねるふりを装いつつ、あたしの手は既にしっかりと山田君の太い指に絡まっていた。軽く握れば、僅かに汗で湿った彼の指が優しく包み返してくれる。気持ち悪いなんて思わない。一生懸命なそんな仕草が肌で感じられて、少しだけドキドキする。
「あのっ、あ、僕、汗っかきで、そ、その、汗が、あの」
 何を焦っているのか、山田君は掌だけでなく額にまで汗を流し始めていた。それでも絡まったままの手は振りほどかず、あたしは小首を傾げた。
「あー、今日も暑いもんねぇ。すごい汗だよぉ? 大丈夫ぅ?」
「い、いや、これは、その、大丈夫なんだけど、その……」
「良かったらぁ、ウチでシャワー浴びてから帰るぅ?」
「ぅえ!?」
 何気なく言ったあたしの言葉に山田君は思い切り驚愕した声を出した。ますますよく分からない。既に体を重ねた仲だ。今更気にするようなこともないと思うのだけれど。それとも、今日は本当にこれで帰るつもりだったんだろうか。――まさか、と思う。それでは椎名さんと同じになってしまう。
「嫌ならホテルでもいいけどぉ」
 元々そこへ行く予定ではあったのだし、と続ければ、山田君は更に体を強張らせて、表情も驚愕のまま固まってしまった。
 あたしは仕方なく、固まったままの山田君を引っ張るようにして繁華街へと向かい、一段と派手な装飾を飾るホテルへと入る。山田君がようやく我に返ったのは部屋に入った時だった。街の喧騒が無くなり、静かな空間が彼の落ち着きを取り戻したようだ。
「あの、あのさ、エミちゃん……?」
「なぁに?」
 ドアを背にした山田君の首に腕を巻きつけているあたしは、いつでも彼とキスをできる状態だ。しかしそれができないのは、なぜか必死にあたしの体を離そうと、山田君の手があたしの肩を抑えているからだった。
「ぼ、僕、汗、すごくて、だから」
 言われなくてもそんなことはとっくに分かっていることだ。額や米神から流れる汗は頬を伝い、彼の首を濡らしている。着ているTシャツも僅かに濡れていて、脇の色が全く違うものになっていることは見なくても容易に想像できた。それにあたしの体と引っ付いているのだ。その湿り具合は直に伝わっている。だから、何だと言うのだろう。汗も立派な興奮剤になるのを、彼は知らないのだろうか。
「エミは汗の匂い好きだよぉ?」
「そ、そうじゃなくて!」
 なぜだか山田君は半泣きだ。そんなに気になるのなら仕方ない。あたしは渋々腕を解いて体を離した。あからさまに安堵する山田君に、少しだけショックを受けて、ムカついた。
「僕達、まだ付き合ってないよね。こ、こういうこと、まだ早いと思うんだ!」
 今度はあたしが驚く番だった。山田君は俯き加減で視線を漂わせながらも、汗まみれで真剣に言葉を続ける。
「そっ、そりゃ、この前は酔ってて、勢いでやっちゃったけど、や、やっぱりこういうのは、こ、恋人同士がすることで」
 呆然とするあたしと、ようやく山田君の視線が重なる。真っ直ぐに見つめる彼の小さな目は、しかし射抜くような強い眼差しを放っていた。優しい彼の雰囲気からは想像も付かないような強さで、それが気合によるものかは分からないけれど、あたしは戸惑うしかなかった。
「だから、あの……、ごめん……」
 力なく呟く声と共に下がる顔に、重なっていた視線が逸らされる。
――もしかして。
 もしかして、これは、フラレているのだろうか。
 告白もないまま、好きという感情さえ育つのを待たずに、あたしはこの男にフラレたのか、今。
「エ、エミちゃんは、可愛いから、もっと、自分を大事にした方がいいよ。……ぼ、僕に言われても、し、しょうがない、かも、だけどさ」
 そうやって優しい声音で話す山田君は、けれど指一本、あたしに触れてはこなかった。