彼女の場合

10

 僅かに漂ってきた煙草の匂いが嗅覚を擽り、ゆっくりと意識が覚醒する。硬い布地の上に横たわっているようで、視界から入ってくる景色の方向感覚がおかしい。
「……起きたか?」
 体は起こさず視線だけを動かせば、どうやらここは車の中だということが分かった。声からしてあたしは後部座席に横たわり、声の主は運転席にいるようだ。窓を開けているらしく、外から話し声のような音がはっきりと聞こえてくる。
「せんせぇ?」
 聞き覚えのあるその声の、人物の代名詞を口にしてみる。そういえば意識がなくなる前、最後に会ったのは彼だと思い出す。そうしてようやく、あたしは今まで眠っていたことを自覚した。まだまどろんだ中にいて、なかなか起き上がろうとしないあたしに、先生は苛立つ声を出すこともなく、かと言って興味なさげに無視するようなこともなく、声だけをこちらに向けてくる。
「よく寝てたな」
「うん……まだ眠いぃ」
 やっぱり先生の声はよく通る。決して大きくはないけれど、低すぎず太すぎず重すぎず、心地良く耳に入ってくる。
 再び目を閉じ、眠ろうとするあたしに、先生はふっと息を噴いて笑った。
「寝すぎ。腹減らないか?」
 お腹空いたかな? 言われて改めて考えてみる。が、あたしのお腹は鳴って主張することもなく静かなままだ。食べることに興味はなく、食生活は極めて不規則で、だから今も要らないと言ってしまえばお終いなのだろう。それでも、椎名さんとの食事をしたきり食べていないから、何か入れた方がいいかもしれない。
 先生に言われて思い直したあたしは、見られてるわけでもないのにコクンと小さく頷いた。
「ちょっとだけなら入るかもぉ」
 すると先生は助手席の方へ腕を伸ばし、ようやくあたしの方へ体を向けてくれた。手にはコンビニの袋があった。昼食を買ってくれていたのだろうか。あたしは起き上がってそれを受け取る。
「食えるなら食え」
「これ全部ぅ?」
「ああ」
 袋を覗けば、サンドイッチ1個と缶コーヒーが1本だけ入っている。男性の昼食というには小食すぎるメニューだから、やはりあたしのために買ってくれたものらしいと判断する。タマゴとツナとサラダのサンドイッチはあたしがよく買う種類のもので、それが何だか嬉しい。
「ありがとぉ。先生はぁ?」
 サンドイッチを開けながら尋ねると、先生はまた体の向きを直して、あたしからは後頭部しか見えなくなった。煙草の煙を吐き出す仕草だけがよく見える。灰皿には少しだけ盛り上がった吸殻が見え、先生のスモーカー振りが垣間見えた。苦い煙草の匂いは……少しだけ苦手だった。
「俺はもう食った。つか、もうすぐで昼休みも終わるから、お前もさっさと食って授業出ろ」
 12時30分。携帯で時間を確認して、はぁい、と良い子の返事をする。ちらりと窓の外を見れば、今この車が止まっているのが大学内の駐車場だと気づいた。ということは、午前中既に先生は講義をしてきたのだろう。車の中に一人残すとは、と怖くなるが、結局こうして様子を見てくれていたのだから文句を言う筋合いはないのだと思い直した。
 先生は、講義を受ける限りは表情も乏しく――というよりむしろ無表情に近く、こんなふうに面倒を見てくれるような人格者には見えなかった。だからかな、と食べながら思った。先生が凄く良い人に思える。苦手な煙草の匂いの中でもサンドイッチは美味しかった。
「なぁ。なんであんな所で寝てたのか、聞いていいか」
 煙草を吹かしながら、世間話をするように、しかし直球過ぎる質問だった。勿論馬鹿正直に答えるような性格は持ち合わせていないあたしは、食べながら何と答えようか逡巡する。
「終電に間に合わなかったからぁ、待ってただけですぅ」
 うん、嘘は言っていない。
 ただ先生は納得してくれなかった。
「だからって女の子が一人で、危ないだろう。迎えに来てくれる彼氏くらい居るだろう?」
「彼氏なんていないですぅ」
 少し拗ね気味に答える。確かに彼氏が居れば、あたしは40男にナンパされてもホイホイ着いて行かなかったし、そもそも椎名さんとの食事だけの逢瀬に不満を覚えることもなく、あの夜道端で眠るようなことはなかっただろう。だからと言って簡単に恋人を作れる程あたしはモテないし、こればかりは仕方がない。大抵近寄ってくる男はカラダだけで終わってしまう。なぜだろうか。
 先生はあたしの表情を直接見たわけでもないのに喉の奥で笑った。バカにされたわけではないだろうが、信じてくれたのかも甚だ疑問な態度だ。
「そういう先生は、あの近くに住んでるんですかぁ?」
 あたしが逆に聞き返すと、先生はゆっくりと煙草を吸い込み、窓の外へと煙を吐き出す。そうだよ、と声が聞こえたが小さくてよく聞き取れなかった。やっぱりあたしの面倒を見ることに少しイラついているのだろうか。
「俺はいつも電車なんだ。なのにお前が寝るからタクシーを呼んで家まで引き返して、この状態だ」
 何か言うことは? と先生が振り返る。
「ご迷惑をおかけしましたぁ!」
 食べかけのサンドイッチを口から離して頭を下げる。それで正解だったようで、先生は笑った。だから許してくれたような気になって顔を上げれば、先生はまた顔の向きを戻し、煙草を灰皿へ押し付けていた。
「それ食ったらちゃんと授業出ろよ」
「はぁい!」
 先生が笑うからあたしも嬉しくなって、無意味に大きな声で答えた。こんなにも笑う先生って珍しいんじゃないかな。少なくともあたしは良い意味でイメージを覆された。あたしだけが知っているような気がして僅かな優越感に浸る。
 サンドイッチを食べ終えてコーヒーも飲み干したのは、休み時間が終わるギリギリの直前だった。先生に急き立てられながら車を降りる。一緒に降りるわけには行かないから、と先生はもう少しだけ時間を潰すようだ。あたしは窓際でもう一度頭を下げて、駐車場を出た。
 講義の始まる時間が迫っているせいであまり学生の姿は見当たらない。あたしはホッとしつつ、もう一度だけ振り返る。駐車場の端に止まっている黒のセダンが先生の車だ。普段の先生みたいにパッと見は存在感があるとは言えないけれど、よくよく見れば愛着が沸く様な気がする。隣にある赤のクーペや、入口近くのミニバンに比べても、先生のセダンは見劣りせずにカッコイイと思う。おそらくそれを誰かに言うことはないだろう。先生にだって絶対に言わない。褒めて嫌がる先生の姿がありありと見えて、あたしは一人で笑った。

 昨夜のことで反省をしたあたしは、もう二度と道端で眠ることはないように、と奈々に相談を持ちかけることにした。
 昼過ぎになってようやく姿を現したあたしを見つけた奈々は、荷物を置いていた隣の席を空け、遅い、と一喝して呟いた。
「ごめんねぇ。社会経済論代返してくれたぁ?」
 おじいちゃん教授の一般教養は比較的代返のきく講義だ。少なからずの期待は否めない。
 案の定、奈々は忌々しげに頷いてくれた。
「したした。2限目はユッコが代返してたわ」
「ありがとー! ユッコにも後でメール送っとこぉ」
 後でと言いつつ既に指は携帯のアドレス帳からユッコの番号を引き出している。何事も早い方が良い。
 それから、まだ講義も始まらない内に、とあたしは本題に入ることにした。奈々に「あのね」と耳打ちする。内緒にするほどのことでもないのだけれど、あまり大きなものは避けたかった。周りは特にノリの良い人間ばかりだから、すぐに広まるのは目に見えている。
「え? 合コン?」
 もともと大きな目を更に大きくして奈々は驚いた。今日も奈々はバッチリメイクを決めていて、あたしはラブホで慌しく直しただけで、この差だけでもしっかり近づかないといけないと思う。……まぁ、思うだけなんだけど。賢明なあたしはそれを口にしない。
 あたしが珍しい相談を持ちかけたものだから、奈々が戸惑うのも当然かと思いつつコクコクと頷いた。
「うん。誰か紹介してくれないかなぁと思ってぇ」
 そういえばいつもは奈々から誘ってきたのに乗るだけで、あたしから催促をしたのは初めてだった。
「なんで? 椎名さんがいるじゃない」
 奈々の疑問も当然だろう。だから答えとしてあたしは首を横に振った。
「椎名さんは彼氏じゃないもん。あたしは彼氏が欲しいのぉ」
「じゃあ椎名さんはセフレってこと?」
 あたしは溜め息を吐きそうになって、慌てて飲み込む。そしてもう一度首を横に振った。彼氏じゃないならセフレって安直過ぎやしないか。いや、あたしの日ごろの行いを見ていれば当然導き出される結果なのか。椎名さんは最初から気のある素振りで近づいてきたから、ヤることはヤってると思われても仕方ないかもしれない。
「セックスは最初の1週間だけぇ。今はただの友達だよぉ」
 言いながらこの1ヶ月を思い返す。本当に、あの甘い日々は最初だけだった。今も会えば甘い雰囲気はあるけれど、雰囲気だけになってしまった。あたしが欲しいのは甘い行為だ。胸焼けするような甘ったるい行為だ。雰囲気だけじゃ我慢できない。
 大きく溜め息を吐いたあたしに、奈々は仕方ないなぁと呆れたように苦笑を零した。
「ま、合コンのセッティングくらいなら何でもないわよ。やっぱり年上?」
 流石は奈々だ。あたしの好みのタイプをよく知っている。
 満足気に微笑んだあたしは、全てを奈々に任せることにした。予定は2週間後と決めて、次の講義のために移動する。その前に、と奈々に呼び止められた。
「エミがどう思ってても、椎名さんとはちゃんと話しなさいよ」
 その時、あたしは奈々の言っている意味が分からなくて、内心首を傾げつつも小さく頷いて見せた。
「はぁい」
 少し困った顔をした奈々にバイバイと手を振って廊下を進む。今更椎名さんと何を話せと言うんだろうか? 彼氏を見つけに合コンをすることを? そんなことを態々言う必要はないだろう。それとも今の関係をはっきりさせろということだろうか?
 どちらにしても、あたしには話すことなんてない気がした。椎名さんがどういうつもりであたしと会っているのかは分からないけれど、セックスをしないんだから、あたしにしてみれば関係なんて明白だ。セックスはするけど友達でも恋人でも家族でもない倉掛さんとの関係の方がよっぽど複雑だと思う。一言で片付けるなら腐れ縁とでも言うのだろうか。あたしは頭が良くないから、当てはまる言葉を知らない。
 そう考えれば、椎名さんとの関係は簡単なようにも思えてきた。奈々にも言った通り、あたしと椎名さんはただの友達だ。セックスをしない普通の友達……。
――ああ、そうだ。
 侑くんとも、もう普通の友達にならないといけないなぁ。
 それは少しだけ寂しいと思う。本当は高校生の頃、侑くんと出合った時、少しだけ恋をしていたからかもしれない。



「今日、重役出勤だって?」
 奈々とも別れてぼんやりと図書館へ向かっていると、不意に後ろから声を掛けられた。振り返ると祐がすっきりとした顔でこちらを向いていた。
 侑くんのことを思い出して少しだけ胸がチクリと痛む。
「なんで祐が知ってるのぉ?」
 何でもないような声で聞き返せば、奈々から聞いた、とひどく明快な答えが返ってきた。
「エミがサボるなんて珍しいって騒いでたからさ。心配してたんだぞ」
「そっかぁ」
 確かにあたしが講義をサボることは滅多になかった。遅刻も片手で充分足りるほどしかしていない。奈々が驚いていたのも無理はないだろう。……と、納得して、そういえばと祐に向き直る。
「あのねぇ、祐にお願いがあるんだけどぉ、聞いてくれるぅ?」
 小首を傾げる祐にしたお願いは、奈々に頼んだことと同じ内容だ。つまり、男友達を紹介して欲しいということで、念を押して言ったことは「今回はかなり本気だ」という旨だった。祐は最初こそ驚いた顔をしたものの、真剣なあたしの表情を見て面白そうに引き受けてくれた。中身はともかく、外見はかなりイケてる祐のことだ。期待はできるだろう。
「でも、また、どうして急に?」
「侑くんのこと諦めることにしたんだぁ」
「あ……そうなんだ?」
「うん」
 そうか、と呟く祐の反応を見れば、おそらくあたしが侑くんに対して抱いてた感情には気づいていたようだった。無駄に聡い祐だから、それは予想内の反応だったけれど、こちらとしては面白くない。少しくらい動揺してくれてもいいのに、と思う。
 侑くんが可哀想だから、悔しいけれどこれ以上はやめておくことことにした。余計な事を言っても祐の感情が向かう先はあたしじゃない。