彼女の場合

09

 お気に入りである割にはここ最近足が遠のいていたが、マスターはにこやかな笑顔で迎えてくれた。そのことにホッとしながら、カウンターの席に着く。ウーロン茶を頼んで一息ついた。いつ来てもこの店は静かで穏やかな雰囲気を保っていて安心できる。偏にマスターの人柄の賜物であろうことは容易に想像できた。
「久しぶりだね」
 グラスを前に差し出しながらマスターが言った。その通りなのであたしは軽く頷く。
「ここのところ忙しくてぇ。でもやっぱりここは落ち着くぅ」
「そうだったんだ。お疲れ様」
 グラスを拭いたり片付けたりと手元は忙しく動かしながらも、マスターの口調はあくまでもゆったりとしている。だからこそ人は気兼ねなく話してしまうのだろう。
「あのぉ、椎名さんって最近も来てたりするのぉ?」
 聞く気はなかったのに、気づけばそう尋ねていた。ずっと気になっていたことでもあったから、マスターの与えてくれる安堵感につい口を滑らせてしまった。マスターは少し驚いたように目を丸めたが、すぐにまた目を細め弧を描いた。優しげな目元の皺が深くなる。
「うん。今もよく来てくれているよ」
「そうなんだぁ」
 相槌を打ちつつも、どことなく引っ掛かりを覚える。まさかマスターが嘘を吐く理由も思い当たらないし、そもそもマスターはあたしと椎名さんがこの1ヶ月でどれ程の関係を築いているか、椎名さんが言っていない限りは知らないと思う。だから自分がどこに引っかかったのかは分からなかった。しかしその違和感の正体のヒントは、マスターによって容易く得られた。
「彼が気になるのかい?」
 手元は相変わらずグラスを拭くことに懸命で、マスターは視線を下にやりつつも気遣わしげに尋ねてきた。
「そういうわけじゃないけどぉ」
 何と言って言いか分からず、所在無くグラスに手をやり、しかし口に運ぶことはせず、中の氷を転ばせて遊ぶ。半分になっているウーロン茶が縁の内側に綺麗な円を描いて揺れ、零れる寸前で傾きを変える。
「そういえば前に口説かれてたね。まさか今もしつこくされてるんじゃないのかい」
 マスターの言葉で、そういえば、と椎名さんに初めて声を掛けられた時の事を思い出した。正しくこの席に座り、マスター相手に愚痴っているところに、近くに座っていた椎名さんが話しかけてきたのだった。その時の紳士的な態度と、今彼に抱くイメージに変わりはない。食事をしている時も体を重ねている時も、彼は常にエスコートし、リードしてくれている紳士だ。優しく気遣ってくれる男性は多数いるが、それが押し付けがましくなく、また嫌味に感じられない自然な態度でできるのは、既に才能の域だ。そんな彼に手厳しい評価をするのはマスターくらいではないだろうか。それが可笑しくて、小さく笑う。
「そんなことないよぉ。大丈夫だから安心していいよぉ」
 一口ウーロン茶を飲み、無駄だとは思いつつ余計な事は言わないように考えながら、なぜ椎名さんのことを尋ねたかの言い訳を口にする。
「この前仕事の話を聞いたからぁ、忙しいんじゃないかなぁって思っただけぇ」
 曖昧に誤魔化せば、マスターは納得したように頷いた。ただマスターがそれを信じたのかはあたしには判らない。あれからあたしは何度も椎名さんと会っていて、今彼について知っている情報がいつどこで聞いたかまでは覚えていないからだ。
「仕事は忙しいだろうけど、ここに顔を出してくれるくらいには余裕があるんじゃないかな。本当に忙しい時は会社に泊まることもよくあるらしいから、ここにもぱったりと来なくなったりするよ」
 ふぅん、と相槌を打ちつつ、先ほどの違和感が何だったのかに気づく。つまり、お酒を静かに飲む時間を作れるほどには余裕があり、あたしを構う時間が持てないくらいには忙しいということだ。マスターによって導き出された結論は決して面白いものではなく、口を尖らせて不満を露にした。しかし優しいマスターはそんなあたしの態度に構うこともなく、他の客のオーダーを取りにあたしの前から離れていった。
 椎名さんはあたしとの関係をどう思っているんだろうか?
 唐突にそんな疑問があたしの中で巡り出した。勿論今まで気にならなかったわけではないし、実際に奈々から問われるまでもなく不思議に思わなかったわけでもない。ただ、今まで明確な答えを必要としなかっただけだった。椎名さんを前にすれば、“関係性”なんて目に見えないものに捉われることもなく、ただ彼の体温を感じられればそれで良かった。体を重ねている時が一番分かりやすい。その時だけは何も考えなくて済んだし、その必要もない。
 だが、今はどうだろうか。会っても食事をして会話を楽しむだけで、触れることと言えば帰りに強請るキスだけだ。それも互いの唾液を交換しあうような深いものではなく、皮膚が触れ合うだけのスキンシップに過ぎない。当然唇同士だから“挨拶”というわけではないだろうが、“礼儀”としての行為と取られても仕方ない雰囲気を彼は醸し出してる。それが意図的なものなのかは定かでないが、例え偶発的なものだとしても、それを感じさせるのはマナー違反だ。紳士的な態度を崩さない椎名さんらしからぬ行動に、あたしが勘繰ってしまうことは致し方ないというものだろう。
 もし椎名さんからの暗黙の合図だとしたら、どうだろうか。
 あたしはそこまでで思考を止めた。考えたところで推測にしか過ぎず、結局のところあたしは彼の出した結論に委ねるしかないのだ。あたしとしては少し明るい未来を期待したいけれど……最初に見せてくれた情熱的な椎名さんがもう一度表れてくれない限り、それは叶いそうもない。寂しいけれどそれが現実なのだろうし、あたしは夢見がちなロマンチストでもない。元々臭いものには蓋をする性質だ。見たくない未来は初めから見ない。あたしはそうしてずっとそうやって目を逸らし、逃げながら生きてきた。
 少し時間は早いが、店を出るために席を立った。いつまでもここに居たら要らないことまで考えてしまいそうで耐えられなかった。マスターに声を掛けて勘定する。外に出るとタイミングよく携帯が震えた。安堵にも似た溜め息を吐き、待ち人である送信者に返事をした。


 ホテルに入るなり、悪いが疲れているんだ、と興醒めするようなことを言ってのけた男は、確かに疲れた顔をしていた。
「だからね、エミ。今日は君だけだ」
 シャワーを一緒に浴びても、ベッドへ誘っても、男はあたしの体を煽るだけで、彼自身へは手も伸ばさなかった。それなりに反応していたにも関わらず、あたしの望みだけを叶えようとする彼の気遣いに、あたしは諦めて伸ばしかけていた腕を下ろした。
 セックスは好きだけれど、性欲処理だけをするような行為は好きじゃない。与えてくれた分だけあたしも与えたいと思う。倉掛さんがそう教えてくれただけじゃなく、それはあたしなりの誠意だと思っている。痛いことは嫌いだから性癖の相違による別れは幾度かあったけれど、基本的には誰に対しても同じだ。例え今あたしを組み敷いているこの男の素性がどれ程怪しくても、今していくれている行為に偽りはないから、あたしはそれなりの誠意を示したい。それでも今は、その誠意を示すには何もしないことだと理解する。
 男と知り合ったのはつい先日だ。椎名さんとの食事の帰りにナンパされた。40歳だという男は、年相応の落ち着いた雰囲気を纏っていた。妻子はおらず、離婚暦のある独身で、恋人はいない。眼鏡をかけてワックスで固めた髪形をすれば、インテリ気取りのように見える。実際に聞いた職業は堅物そうなイメージを持たれやすいものだった。椎名さんとは真逆のタイプだ。
 ただこの男とは、互いにはっきりと体だけの関係だと割り切っていた。それは男が初めての時に宣言しており、こういう関係は分かりやすくてあたし好みで、考える間もなく頷いていた。もう侑くんとは別れないといけないと思っていところで、タイミング的にも調度良かった。同い年である侑くんとは違う意味で気兼ねなくできたことも一因だろう。
 今のあたしは、どうしようもなく甘えたかった。相手は誰でも良くて、体の火照りと寂しさを忘れることだけを考えていた。
 男は本当に疲れていたようで、あたしが満足すると、すぐに身なりを整え始める。
「代金は置いておく。多めに置いておくから、泊まるならそれでもいいし、帰るならタクシー代にでも使えば良い」
 あたしは裸のまま男を見上げた。不満そうな顔をしているあたしを一瞥した男は、子供を宥めるように頭を撫でた。ごつごつとした手は大きく、温かい。指の骨が太い男の手は、あたしの一番好きな部位だ。
 あたしは男の名前を呼び、体を起こして男の首に腕を回した。音を立ててキスをする。
「ありがとぉ」
 にっこりと笑えば、男は僅かに微笑み、お返しとばかりに瞼の上にキスを落としてくれた。あたしも言い訳の聞かない子供の真似はやめて、大人の女性を演じる。この男にはそんな女が相応しい。……たぶん、これが彼との最後のキスだ。
 甘える相手を間違えたかな、と反省したのは、男が部屋を出た後だ。何分、知り合ってから間もなかったから、全てを曝け出すことは躊躇われた。それでも割り切った関係だという認識だったから、理由が無くても慰めてくれるだろう、との安易な考えの下、彼を選んだ。しかし相手も人間だ。彼には彼の都合があって、毎度タイミングが合うわけでもない。どうして失念していたのだろう。男の返事が、急な誘いにも拘らずあっさりとしたものだったから深く考えなかった。元々男の性格上、そういう返事でしか返せなかったのかもしれない。そこまで気づく時間をまだ持てていなかったということだろうか。
 理由はどうあれ、明らかな人選ミスだった。かと言って、他に思い浮かぶ人物もいない。侑くんは今祐が離さないだろうし、祐もまた同様に侑くんを放ってあたしを構うことはない。倉掛さんは家庭を持っているから論外だ。彼と会う時は彼から誘いがあった時だけだと決めている。後はサークルや学校の友人らだけれど、普段の距離が近いだけに、変に関係を持ってしまうのは躊躇する。あたしだってそれなりに節度は守っているつもりだ。
 ああ、こういう時、あたしには誰もいないのか……。携帯を閉じて項垂れる。
 泣きたいわけでもないのに、泣きそうになる。涙は出なかったが、目頭は熱かった。不意に自分が孤独なのだと思い知らされた。
 普段はこんなこと全然感じないのに、どうしてだろう。やはり、椎名さんのせいだろうか。彼があまりにも自然にあたしの中に入ってきたから、他の人にも同じことを求めてしまった結果だろうか。
 あたしは、彼が好きなのだろうか? どこかでさっきの男と椎名さんとを比べていたのだろうか。少なからず、それはあっただろう。無意識に違いを見つけていた。どちらも紳士的で、女性の扱いに長けていた。けれど椎名さんの方がずっと手馴れていて器用だった。不器用なあの男が悪いわけではない。口下手なところが嫌だったわけでもない。それが男の魅力的なところだったし、むしろ肉体的には椎名さんよりはずっと好みのタイプだった。それでもやはり、椎名さんと比べてしまうのは――。だめだ。これ以上はいけない。
 頭を振ってベッドから降りた。あたしも帰るべく服を着て、化粧を直す。男から貰ったお金は有り難くタクシー代にさせてもらう。ふと十数年前に新聞を賑わせた“援助交際”という言葉が脳裏を過ぎった。当時幼かったあたしでもニュースキャスターの読み上げる内容を理解できるくらいの知力はあった。もっぱら援助されるのは中高生くらいの女の子だったけれど、今のあたしでも適用されるのだろうか。
 ……ばかだなぁ。思わず声に出して笑ってしまう。あたしはもう二十歳を過ぎたオトナだ。いくらお金を貰ったところで“援助”なんて言葉は使われない。この時ほど自分を馬鹿だと思ったことはない。
 それに金銭だけの関係なんてまっぴらだ。あたしはそんなに安い女ではない。大学内の人間には、あたしは誰とでも寝る淫乱女だと思われているようだけれど、あたしにだって相手を選ぶ権利はあるし、それなりにポリシーも持っている。一部で売女なんて陰口を言われていることも知っているが、だからといって傷ついたりすることもない。不快ではあるが、言いたい奴には言わせておけば良い。世界にはどんなに頑張ったって相手にされない女もいるようだから、あたしは運に恵まれている。
 マスカラで睫毛のボリュームを上げる。幾度か瞬きをして、最後にグロスを唇に塗れば完了だ。化粧ポーチをしまって荷物を纏めた。
 ホテルを出ても、まだ夜は更けたままだ。ネオン街は相変わらず賑やかで騒々しい。大通りを歩けばキャッチのお兄さんから声を掛けられ、それを無視しながら駅前まで出た。既に終電は出ていて、始発を待つ酔ったサラリーマンが外のベンチで寝ていたり、チャラチャラした若者が屯していたり、なかなかこの街の治安も宜しくないようだ。各いうあたしもその若者の内の一人に違いない。
 始発の時間を確認して、自販機横にある小さな段差に腰を下ろした。知らず溜め息が出る。あたしは今、何をしてるんだろう、と虚しくなった。
 抱えていた欲求不満は解消された。でも、心の方は消化不良だ。誰かに甘えたくて仕方ない。
 こんな時に浮かんでくるのは、今は椎名さんだけだ。
「どうしよぉ……」
 何が“どうしよう”なのか分からないまま呟いていた。でもこの寂しさは、誰にも伝わらないことだけは分かる。慰めてくれるなら誰でも良いと思うけれど、いざ“誰”かが現れたら、きっとあたしは躊躇うだろう。だって今は、椎名さん以外の適任者が思い浮かばない。その当の彼は、きっと迎えに来てはくれないけれど。
「おい」
 突然肩を揺さぶられ、はっと顔を上げる。いきなり入ってきた光が眩しくて思わず目を細めた。僅かな時間俯いていたと思っていたけれど、いつの間にか眠っていたらしい。既に周りは朝の景色で、近くのベンチで眠っていたサラリーマンの姿はなかった。
「あ、れぇ……?」
 そして目の前には、最近になって見慣れた先生の姿があった。寝ぼけているらしいあたしの口からは間抜けの声が零れた。
「あれぇ、じゃない。何やってんだ、こんな所で?」
 不機嫌そうな声は耳によく通り、あたしを見下ろす顔は言うまでもなく怪訝な表情を浮かべていた。ボサボサの髪は寝起きそのままという感じにいつもどおりで、ただ白衣を着ていないことだけが違った。
「多嶋先生こそなんでここにぃ?」
 コテっと小首を傾げれば、多嶋先生は幼い子供に言い聞かせるように、屈んであたしと目線を合わせながら、ゆっくりとした口調で言った。
「ここは俺の通勤路だ」
 君は確か最近講義に出てくる子だろう、と多嶋先生は尋ねてきたけれど、あたしはそれよりも頭がぼんやりとしてうまく答えられなかった。急に自分が先ほどまで眠っていたことを自覚したかのように、今は眠くて仕方がない。ごめんね、と先に謝っておく。
「おっ、おい!?」
 あたしが突然首に腕を巻きつけるように抱きついたから、多嶋先生が慌てた声を出す。睨んでいたとおり多嶋先生の体は鍛えられていて、難なく倒れこんだあたしの体を抱きかかえた。あたしは男らしいその体躯に触れてようやく安心する。
 傍で慌てふためく多嶋先生の声を聞きつつ、それが可笑しくて小さく笑う。そして次第にあたしの意識は遠のいていったのだった。