彼女の場合

08

 目的地に着いた車を止めて、軽く唇を合わす。椎名さんはキスが好きらしく、事あるごとにキスをしてくる。あたしも好きだから嫌がったことはない。遊ぶように音を立て、唇を離した。目が合って、可笑しくもないのにお互い小さく笑い、それからようやく車を降りる。
「今日は仕事が詰まってて迎えに来られそうにないんだ」
 申し訳なさそうに告げる椎名さんは、待ち合わせの時にあたしが絡まれた後から、都合がつく限り送迎を申し出てくれていた。それが少し過保護な倉掛さんを思い出すようで可笑しく、だから無下にはできずに甘えていた。全て彼の好意からなるものなので、その椎名さんがダメだと言うならあたしに文句を言う術はない。構わないでください、と一言添えるだけだ。
「その代わり、今度の日曜は美味しいものを食べに連れて行くよ。美味しい和食のレストランを見つけたからさ」
 そう言って椎名さんは人を安心させる無垢な笑顔を浮かべる。ということは、次の日曜までは会えないということだ。時間が空くのは少し寂しいけれど、正直に言って困らせるほど子供ではない。是非に、と頷く。
「楽しみにしてますねぇ」
 手を振って別れる。背を向けて暫く歩くと、背後で車の発進する音が聞こえた。

 教室へ着く前に、奈々に呼び止められた。どうせ同じ講義を受けるからと、並んで歩く。
「また椎名さんの所から?」
 どうやら校門の場面から見られていたらしい。また、と呆れたように言うくらいには、繰り返してきた光景だ。奈々もいい加減慣れたようで、初めて見たとき程のテンションにはならなくなった。
「付き合ってるの?」
「んー、どうなんだろぉ。分かんない」
 奈々の素朴な疑問に、あたしは小首を傾げながら答える。別に惚けているわけではなくて、本当に何と言っていいのか分からないのだ。恋人と言えるほど親密ではないような気もするし、友人と言うには濃密な時間を過ごしていると思う。かと言って侑くんとの関係と同じように、セフレとも言い難い。侑くんと会えばヤることはやるけど、言い換えればヤる時にしか会わない。椎名さんと会う時は、食事だけで終わることも多々あるのだ。だからあたしは、“そう”なってから1ヶ月以上経つというのに、この関係の名前を知らないでいる。
「分かんないって……。エミらしいって言えばエミらしいか」
 苦笑を浮かべる奈々は、そういえば社会人の彼氏と別れると豪語していた割りに、そういう素振りを見せていない。あの後祐から何かを言われたのかもしれないが、あたしには何も言ってくれていないから、何となくこちらからも聞きにくい。今度祐に聞いてみよう、と心に決めて、教室へ入った。

 煩く言わない多嶋准教授の講義に参加することにすっかり味を占めてしまったあたしは、早速今日も堂々と着席して開始時刻を待つ。
「エミちゃん、また来たの?」
 嬉しそうに笑顔を見せる男子学生の横で、同じく教室へ入ってきた祐は特に掛ける言葉もなく、一瞥しただけで自分の席へと着く。あたしはいつも、目の前で笑う彼にテキストを見せてもらいながら講義を聴いていたのだけれど、今日は気分が変わったから祐の隣へと移動した。
「今日は祐に見せて欲しいなぁ」
 自分なりの甘えるような猫撫で声で、可愛く言ってみる。祐にこんな小手先の業は通用しないことは知っている。それでも言ってしまうのは人に頼み事をする時の癖みたいなものだ。
「くそー、エミちゃんも結局は祐なのかよー!」
「そうだよぉ。祐のがカッコイイもん」
 悔しそうに叫ぶ彼に振り返り、あたしは見せ付けるように祐の腕に自分の腕を回して密着する。勿論本命だなんて誰も思っていない。それでも自慢の胸を押し付けているというのに微動だにしない祐の反応には、少し残念に思う。そんなに魅力のない体だろうか。
「侑くんは巨乳が好きなのになぁ」
 自分の胸を寄せながら思わず呟いてしまう。別に誘っているわけじゃない。女として反応されないのはプライドの問題だ。
「最近も侑と会ってるのか」
 やっと反応を見せたと思えば、祐が口にしたのは侑くんのことだ。あーあ、嫌になるな、と溜め息を吐く。侑くんのことはあたしも好きだけど、やっぱり目の前に居る自分に反応してもらいたい、と思う複雑な乙女心を、祐は全然理解してくれない。しようとも思っていないのだろう。
「それを祐が言うぅ?」
 体を離し、嫌味たらしく上目に睨んでみせれば、僅かに口角を上げて祐が笑う。
「だよな。俺と居るのにエミと会う時間があるわけないか」
 そうなのだ。数週間前にバイトの期間が終わった祐は、再び侑くんを拘束し始めた。侑くん自身に縛られている自覚があるかは分からないけれど、先程のセリフで祐ははっきりと認めている。他人に興味がないようで、祐は、相手を見つければしっかりと束縛するタイプなのだ。それを知ったのは侑くんと会わせた時だから、きっと祐本人にも気づいていなかった性質に違いない。
「じゃあさぁ、奈々とはどうなってるのぉ?」
 自然な流れで聞けただろうか。微かに口調が強くなってしまったかもしれない。祐は浮かべていた微笑を消して、眉を中央に寄せた。奈々に対してあまり良い感情を持っていないことだけは良く分かる。
「ああ。エミに言われてすぐ断った。ちょっと細工はしたけど。だからアイツ、彼氏と別れてねーだろ」
「細工ぅ?」
 やっぱり別れてなかったんだ、と思うよりも引っかかった言葉を鸚鵡返しにすれば、何でもないと祐は首を振る。
「彼氏に出張って貰ったんだ。別に難しいことしたわけじゃない」
「知り合いだったのぉ?」
「いいや。でも探すまでもなく見つかるだろ。隠してたわけじゃあるまいし」
 言われて見れば確かに、奈々の彼氏なんてすぐに分かる。出会いからして合コンだったのだ。証言者は何人だって在る。それに祐から言われるよりも彼氏に引き止められた方が奈々は納得するだろうことも、容易に想像できた。
 修羅場を想像していただけに、呆気なく閉じた幕に拍子抜けする。いや、二人のことを考えれば、これ程ないハッピーエンドだろう。ただ、傍観者としては面白みに欠ける結末なのは否めない。昼ドラどころか恋愛ドラマにさえならない。
 ちょっとがっかりしたあたしを見て、祐は肩を竦めて頭を小突いた。
「それよりなんでまた来てんだ? 気に入ったのか」
 この講義に出るようになってまだ片手で数えるだけだ。あたしがいることにまだ誰も慣れていないのだろう。単位にならないのに出席する学生は皆無だ。無理もないかもしれない。
 だけれど、あたしは祐の問いに答えなかった。話している内にいつの間にかチャイムは鳴っていたようで、音を立ててドアが開き、ちょうど多嶋准教授が入ってきたからだ。彼もまた前髪と眼鏡に隠れた目をこちらに向けてあたしを見つける。一瞬表情が歪んだのは気のせいだろうか。ともかく不思議に思われていることは自覚しているつもりだ。あたしは何でもない風を装って顔を前へ向けている。きっとタイミングがずれて多嶋准教授が教室に入ってこなくても、きっと祐の問いには答えられなかった。
 正直なところ、あたしにだって分からないのだ。専攻外の講義は面白いものではなく、興味をそそられるような題材でもない。けれど気になるのは、偏に多嶋准教授の人柄にある。最初にその容貌を見た時に目を引かれた。他の学生の話題に上ってくるのも頷ける程、彼の存在が奇抜に思えた。どんな人なのか、観察してみたくなるくらいには、興味をそそられたのだった。

 多嶋准教授の声はよく通る。低すぎない声音は、状況によっては鼓膜を揮わせるだけで武器になりそうなほど、心地良い。
 椎名さんの声も低音で耳にクるイイ声だけれど、甘ったるさが全面に出ることがあって、そういう時は少しだけクドク感じる。
「今夜の僕たちに乾杯」
 白ワインを注いだグラスを軽く合わせ、音を響かせる。一口飲むと、程よい甘味と酸味が炭酸と共に喉を通る。椎名さんが注文した時に何か説明をされたけれど、よく分からなくて聞き流した。きっと高価な銘柄なのだろう。
 椎名さんが連れてきてくれた和食レストランは、そこそこ値の張りそうな高級感漂う店だった。和食と言っても純粋な日本料理と言うよりも、創作料理の店のようだった。だから料理に合うならば日本酒、洋酒の境はないらしく、焼酎もあればワインもあるし、カクテルもメニューに並んでいた。
「このお刺身美味しい〜!」
 普通はわさび醤油にするのだけれど、ここはオリジナルソースを付けて食べるんだ、と椎名さんに勧められるままに口にした。それがなんとも言えず美味しくて、思いっきり顔が緩む。基本のベースは醤油だけれど、ゆずの酸味と、少しの辛味が舌を気持ちよく刺激する。辛子でも山葵でもないこの辛さはなんだろうか。などと、普段料理のしないあたしでも興味を持たされるこのソースは、確かに勧められて正解だった。あたしの表情を見て椎名さんも満足気に頷き、自分も口に運ぶ。やはりその顔は美味しそうに緩む。
「エミちゃんの口に合って良かった。このソースの香辛料はいくつもブレンドしているんだって」
「そうなんですかぁ。すっごく美味しいですぅ」
 彼の披露する薀蓄に相槌を打ちながら、もう一口箸を付ける。再び味わうように噛み締めた。確かに言われてみれば、鼻に抜けるような辛さとピリッと刺激される辛さは、違うものから出されるものなのかもしれない。
「今仕事って忙しい時期だったりするんですかぁ?」
「んー、そうだね。納期が迫ってるから、残業の毎日だよ」
 納期が何よりも最優先させられるその業界のことは、祐を通して少なからず知っているつもりだ。実感はできなくても大変だということはよく分かる。本当だったら今日のこの時間だって、作り出すのは難しいことなのだと思う。
「でもエミちゃんとの時間があるから頑張れる」
 椎名さんは言って、残りのワインを飲み干した。
「お酒強いですよねぇ」
「そうかな? でもこのワインは飲みやすいね。エミちゃんももう一杯頼む?」
「あ、いいですかぁ」
 いそいそとグラスを空にして、同じワインを頼んでもらった。赤は苦手だけれど、白だと飲める方だった。でもこれはその中でも飲みやすくて、あたしもつい調子に乗ってしまった。けれど度を過ぎなければアルコールは気持ちよくさせてくれた。
「飲み過ぎないようにね」
 軽く注意されるけれど、既に頭はクラクラとしている。楽しくて仕方がなかった。
 椎名さんとの食事は好きだ。食事そのものを楽しめるし、椎名さんとの話も面白い。この後が何もなくても楽しませてくれる人なんてなかなか居なかった。傍にいて安心できる人って、こういう人を言うのだろうか。あたしにはまだ分からない。
 倉掛さんの優しさは何年もの月日を重ねた裏づけされたものだ。家がゴタゴタしている時、あたしは成長の過程でも多感な時期で、そういう時に支えてくれた倉掛さんだから傍にいて安心できるのは当然だろう。けれど椎名さんは違う。出会ってから今まで過ごした時間は比較するまでもなく短い。侑くんと体を重ねている時とも違う、この感情は何と言うのだろう。この感情は椎名さんに対してだけなのだろうか。
 食事が終わって、スマートに会計を済ませる椎名さんの背中は、あたしには無いオトナらしさが出ていて素敵だった。振り返ってにっこりと笑う椎名さんは、そしてあたしの手を取って店を出る。あたしは腕を絡ませて応えるように甘える。
 椎名さんはあたしの髪に口付けると、そのまま駐車場へ向かった。甘い雰囲気が漂うけれど、今日はここまでだということは分かっている。きっと仕事の合間を縫ってくれているのだ。少しだけ疲労の色が見える顔をこっそりと窺いながら、あたしは気づかないフリをした。
 車は真っ直ぐあたしのアパートへ到着する。コンビニへさえ寄り道しない。シートベルトを外して、少しだけ身を乗り出し、あたしからキスをせがんだ。椎名さんは少し驚いた素振りを見せたけれど、合わせるだけのキスをしてくれる。
 でも、それだけだ。指さえ絡まることはなく、相変わらずの優しい声で「おやすみ」と囁いた。
「おやすみなさい」
 あたしも笑顔を作って、車を降りる。ひらひらと手を振っている内に車は発進し、角を曲がれば排気ガスさえ見えなくなる。
 キスはしてくれる。強請っても強請らなくてもそれは同じだ。けれど、もう随分と“健全なお付き合い”しかしていない。あたしから誘うこともできるだろうけれど、椎名さんが求めてこないのは仕事が忙しいからだと解っているから無理に言えないでいる。少しのジレンマが最近唐突に襲ってきたりする。
 どうしよう。そろそろ限界かもしれない。
 そう自覚すると、もう耐えられそうにもなかった。あたしはアパートには戻らず、携帯を取り出していた。