彼女の場合

07

 元々2コマ目の講義は無かったから、早速その時間の祐を捕まえることにした。祐は講義があるだろうけれど、事は一刻を争うと意気込み、教室の中へ潜り込むつもりだ。問題は、祐の時間割を全て把握しているわけではないから、どの教室へ行けばいいか、ということだった。
 しかしながら、その問題はすぐに解決できた。何せ祐は目立つ容姿なので、同じ学年の女の子に聞けば、だいたいの情報は入ってくる。いつも誰かに見られているようで気の毒ではあるが、彼がそれを気にするような性格でないことは既に知っているからあたしも何も思わない。話によれば、次の講義は例の多嶋准教授の講義らしい。『おーとまとんとげんご』という難しそうな講義名だった。
 本館から離れた東館の更に端にある小教室で行なっていると聞いたので、フライング気味にいそいそと出向いていく。どうせ今から一限目の講義に行ったところで時間的に出席には入らないし、奈々と別れると行くところも特にないからだ。
 ひっそりとした静かな廊下の突き当たりに、目的の教室はあった。まだ電気は点けられておらず、部屋は薄暗いままだ。ドアを開けると締め切られたカーテンのせいで尚明りが遮断されていたことに気づいた。大教室の自動カーテンは別にしても、小教室でカーテンまで律儀に閉めてあるのは稀だった。面倒だと思いつつもあたしはカーテンを開けるために足早に教室へと入る。電灯と日光で大分と明るくなった教室を改めて見回した。何の変哲も無い、黒板があって椅子があって机があるだけの、普通の教室だ。
 終了のチャイムが鳴るまであと少し時間がある。あたしは適当に廊下側の壁際の席に座り、待つことにした。座ると同時に携帯を取り出す。メールは来ていない。この間入れたアプリを引き出して、時間潰しに当てる。今流行のゲームらしく、元カレであり現友人でもある男に勧められたものだった。
「あーれー、エミちゃん?」
 いつまでやってただろうか。不意に声を掛けられ、振り向けば顔見知りの男が顔を覗かせていた。
「ここって次、多嶋のだよね?」
「そうだよぉ」
「学部違うっしょ。なんで居んの?」
「祐に話があってぇ。祐って次、ここでいいんだよねぇ?」
 あたしがそう言えば、彼は納得したように頷いた。
「ああ、祐か。なるほどね。じゃあさ、どうせなら一緒に受けちゃわない? どうせ多嶋だし、大丈夫だと思うよ」
 話に聞く限りでは、確かに多嶋准教授は口煩く言うタイプではないようなので、あたしはその提案に乗ることにした。
 暫くして祐が教室に入ってきた。あたしを見つけるなり驚いた顔を浮かべ、難しい顔をして近づいてきた。
「なんでエミがここに居るの」
 不機嫌な言い方に嫌な感じがしたが、敢えて気づかないふりをした。隣で先ほどまで一緒に喋っていた男が「そんな言い方ないだろ」と軽く言ってくれたが、少し余計なお世話だ。
「ちょっと話があってぇ」
「メールじゃだめなの」
 今週は末まで忙しいんだ、と先に言われてしまえば、あたしが強く出れないことを知っている。だが、今日のあたしは引き下がるわけにはいかないのだ。だめなの、と強く頷いて、けれど端から相手にされないというのも困るから、僅かに下手に出る。
「今がだめならこの後でもいいんだけどぉ」
 あたしがここまで粘ることも珍しいからか、器用に片方の眉だけを僅かに上げて、訝しげな表情を作る。
「じゃあコレ終わったら聞いてやる」
 溜め息と共にようやく祐が折れてくれた。一安心したところへちょうど講義開始のチャイムが鳴った。祐はいつもの指定席があるらしく、窓際の席に着く。そしてあたしが教室を出る間もなく、すぐに多嶋准教授が教室へ入ってきたので、あたしはそのまま席に着いたままやり過ごすことを余儀なくされた。フリだけでもノートと筆記具を取り出し、隣に座った男子学生にテキストを覗かせてもらう。
 教卓に立った多嶋准教授は、一瞬教室を見渡し、あたしと目を合わせると僅かに目を細めたものの、特に何も言わず手元のテキストを開いて先週の続きらしい内容を繰り返し始めた。噂どおり、確かに煩くはなさそうなタイプで、少しだけホッとする。
 実を言えば、あたしはこの時、初めて多嶋准教授をまともに見たのだった。そもそも彼が専門としている学部とあたしが専攻している学部が違うから、当然彼の講義を取る機会などなく、一般教養として取れる他学部の講義は彼の担当するところではなかった。けれど学生同士はサークルや友人を通して学部の隔たりがそれほどあるわけでもないから、変わった教授の話は自然と学生の中に広まったりする。多嶋准教授もその中の一人だった。
 多嶋准教授が変人とされる一つに、その容姿がある。聞けば彼はまだ30代も前半らしく、教授陣の中ではダントツに若い。担当講義を持つ“先生”の中には彼と同年代の人も数人いるけれども、いずれも肩書きとしては講師であり、准教授の地位まで行っているのは彼だけだ。にもかかわらず、その野暮ったい身なりのせいか、一目で彼らが同年代と判る人は、余程の目利きでない限りいないだろう。それくらい老けて見えるのだ。30代といえばまだまだ男盛りの世代だろうに、その素顔をまともに見れた学生はまだいない。
 惜しいな、と彼の話を聞き流しながら、あたしは思う。間近で見て初めて知ったのだが、彼はそれほど見れないカオではなさそうだからだ。分厚いレンズの眼鏡と、その眼鏡さえ覆ってしまいそうな程に伸びた髪で隠れてしまっているが、鼻筋は通っているし、唇も男らしい薄さだ。無精髭を剃って髪を短くするだけで、きっとその素顔は見違えるだろうに、それだけで損をしているように思えて仕方がない。
 そんなふうに気づいてみれば、体も実はそこそこイイんじゃないかと思えてきた。チョークで薄汚れた白衣で体のシルエットがぼやかされて一見しただけでは判らなかったが、捲くられた袖から見える腕には筋肉が付いているし、お腹回りに現れがちな贅肉は見当たらない。手を腰に当てる仕草を観察してみればそれはすぐに判った。
 そうやって多嶋准教授を物珍しげに観察しつつ、テキトーにノートを取っている間に講義は終わった。講義名に違わず内容はさっぱりだったけれど、彼の声はよく通って聞きやすく、基本的にはテキストに沿っているから部外者のあたしでもどこをやっているのか見失わずに付いていけた。それだけでも勉強した気になったので、1時間30分はあっという間に終わったのだった。

 あたし達以外誰も居なくなった教室で、祐とあたしは向かい合わせに座った。窓際の席にあたしが移動してこの状況へ持って行ったと言って良い。
「なんかぁ、変わった人だねぇ、多嶋センセー」
 いきなり本題もどうかと思って、とりあえずさっきの講義の感想なんかを言ってみる。とはいっても内容はチンプンカンプンな専門用語のオンパレードだったから、どうしてもそれを話す人物のことになってしまう。祐は頬杖をつきながら、それで、と視線で促す。多嶋先生が変わった人だというのは既に周知の事実なので、今更な感想だったかもしれない。
 あたしとしては結構な衝撃だったんだけれど、祐と共感を得るには遅すぎた発見だったようだ。出欠確認を取らないというのも本当だった、という発見は流石に自分の胸の内に止めておいた。それこそ今更過ぎる。
「それで、話って?」
「あー、うん……。奈々のことなんだけどぉ」
 どういうふうに切り出していいか考えてなかったことに気づき、口篭りながらも奈々の名前を出した。それだけで聡い祐は、あたしの言いたいことの大方を悟ってくれたようで、深く息を吐いた。
「昨日の夜のことだろ」
 解っているなら話は早い、とあたしは身を乗り出した。
「奈々本気になったみたいだよぉ! 侑くんのことが知られるのも時間の問題だよぉ」
 あたしの言葉を聞いた祐は、深々と息を吐き、肩を竦める。それが何を意味するのか、この時は分からなかった。
「それで、エミには何て言ってたんだ?」
「とりあえず侑くんのことはカノジョだと思ってるみたい。今の彼氏と別れるってぇ……」
「エミは反対したんだろう?」
「もちろんだよぉ! 奈々の今の彼氏、すっごくいい人なんだよぉ! なのに全然聞く耳持たなくてぇ」
「まぁ、そうだろうな」
 それから祐はしばらく思案する表情でじっと空を見つめ、あたしはどうしようかとオロオロするだけだった。この数分の沈黙でさえもどかしく、けれど成す術のないあたしはただ祐のカオを見つめることくらいしかできない。祐の端正な顔が僅かに歪み、もともと表情の見えない目は睨みつけるように細められ、益々表情を無くしたようだった。
 息を呑んで佇んでいると、何度か瞬きを繰り返し、祐が視線をあたしの方へ向けた。どうやら何か考えが纏まったようだ。
「とりあえずエミはそのまま反対し続けてくれ。あとは俺が何とかする」
「何とかってぇ……エミは何もしなくていいのぉ?」
 あたしにできることなんてないかもしれないと思いつつ、そう言われるのは嫌で聞き返してみる。けれど祐は簡単に答えを翻すような男ではないのだ。首を振って頷かれる。
「エミにしてもらうことはない。これは俺の問題だから、俺が決着つけるしかないんだ」
 はっきり断言されてしまうと、あたしが言うことはなくなる。それを分かって祐は言葉を選んだのかもしれない。あたしは案の定、それを受け入れるしかなかった。正しく祐と奈々の問題なのだろう。それでも第三者としてではなく、友人として、何かできることがあれば力になりたかった。気に食わないことも沢山あるけど、それでも奈々は大事な友人だ。失恋すると分かっている彼女の恋を簡単に応援できるわけがない。
 悔しくて俯いていると、祐の手があたしの頭を撫でる。……こういう優しいところが、祐にコロッと心を奪われる瞬間だ。それも、自分が興味のない人間には絶対に見せない優しさだから、侑くんも絆されたんじゃないだろうか。祐の無言の慰めに甘えながらそんなことを思った。祐はあたしが顔を上げるまで、ずっと傍に居てくれていた。


 暗くなった駅前で、柱に凭れ掛かっていると、近づいてくる人影に気づいた。顔を上げれば、待っていた人とは違う男が目の前にいる。
「あ、やっぱりエミちゃんだった。オレのこと覚えてる?」
 目じりの下がった男はニコニコとしながら自分の顔に指を向けて話しかけてくる。面長のその男は長めの髪を一つに纏め、覗く耳にはいくつもの穴が開いていた。指や手首や首にもジャラジャラと、男にしては装飾品を多く身に付け、ズボンを腰ギリギリまでに下げた格好は実年齢よりも若く見せようとでもしているようだ。元のカオからして似合っておらず、本人はキメているようではあるが、はっきり言ってだらしないだけの身なりだった。これなら多嶋先生の方が余程マシに思えてくるから不思議だ。そんなふうに自然と観察してしまっている内に、返事をしないあたしに相手の男は痺れを切らしたようだった。
「なに、もしかして覚えてないの? ヒデーじゃん。あんなに激しくしてやったのにさぁ」
 やたらと顔を近づけながらもニコニコと表情は崩さない。それがいやに恐ろしく感じ、あたしはフルフルと首を振って否定する。忘れるはずがない。あれほど最低な一夜は、後にも先にもこの男だけだった。思い出しただけで表情を顰めてしまう。いっそのこと声を掛けられたゲイグラビアのカメラマンにでも掘られてしまえば良かったのに、と口に出しそうになって、慌てて飲み干す。
「覚えてるよぉ。びっくりしただけだもん」
 すると男は満足そうに、だよなぁ、と顔を離して頷いている。しかし背中が塞がれているのは変わらず、男が片脇に手をついてしまったものだから、逃げ道はほぼ閉ざされてしまった。
「あれから全然連絡くれないから寂しかったんだぜ? なっ、また遊んでくれよ」
「ヤだよぉ」
 反射的に首を横に振り、あ、と気づいた時には男の顔は不機嫌さだけしか残っていなかった。完全に失敗した。
「ヤだって何だよ。あんだけ善がって、誘ったのはお前だろ」
 まるで全部があたしから仕掛けたような口振りに、失敗したと後悔したのは一瞬で、すぐに違うスイッチが入ってしまった。そうすると自覚しつつも止められなくなるのがあたしの悪い癖だった。ムッと男を睨みつけ、真正面から視線を合わせる。さほど長身でもない男との身長差は、ヒールの高さも手伝ってそう変わらない。
「エミ誘ってないもん。アレも全然気持ち良くなかったしぃ。勢いだけだったじゃん」
「ああ? なんだと!?」
 今にも胸倉を掴んできそうな雰囲気だったが、結局男はそれをしなかった。寂れた地域とはいえ、人通りのある公衆の面前で女に手を出すのはまずいとでも判断したんだろう。代わりに腕を掴み、場所を変えるべく無理矢理歩き出した。当然あたしは必死に抵抗する。
「やめてってばぁ! どこ行くのぉ?」
「決まってんだろ。二人っきりで話し合えるところだよ。じっくりとな」
「やぁ! 離してぇ!」
 男は振り返りもせず、あたしの抵抗も物ともせず歩き続ける。周りの人は迷惑そうにあたし達を横目で見るだけだ。恋人の痴話喧嘩程度に見られているんだろうか。あたしは泣きそうになりながらも掴まれた腕を振りほどこうともがくが、所詮は女の腕力で男の腕力に勝てるわけもない。引きずられながら、数メートル動いたところで、抵抗できる力も弱くなってきていた。
「ちょっと、お兄さん」
 突然声を掛けられ、男とあたしは一緒に振り返る。一瞬気の緩んだところでさっさと男の腕からあたしを離した彼は、本来あたしが待っていた椎名さんその人だった。穏やかそうな口調とは裏腹に、男の腕を握った手は筋がくっきりと浮かぶほど力が篭っており、男は痛みに顔を歪ませた。
「この子に用があるなら無理矢理はダメだよ」
「んだぁ、テメーは? 関係ねーやつは引っ込んでろよ」
 あたしとそう変わらない身長の男は必然的に視線が椎名さんを見上げるようになる。それだけでも男の劣勢は明らかだった。動物が威嚇する時に自分を大きく見せる理論は人間の本能的な部分で共通するのだろう。男は怯みそうになった自分の足に叱咤し、なんとか踏みとどまっている状態だ。それは傍から見たあたしでも分かるくらいだったから、椎名さんにはそれ以上に男との差が見えているのかもしれない。
「関係なくはないよ。彼女と約束をしていたのは僕の方が先だからね。それとも、僕との約束を破らせるほどの急用が君たちの間にあるの? とてもそんなふうには見えなかったけど」
 畳み掛けるように男に詰め寄る椎名さんはいたって冷静で、それが逆に迫力を持たせているようでもあった。男はチッと大袈裟に舌打ちをし、あたしをキツク睨みつけると、そのままその場を去っていく。あまりに呆気ない終幕だった。
「大丈夫だった?」
 心配そうな表情を浮かべてあたしを窺う椎名さんに、あたしはコクンと首肯する。怖かったけれど、恐れていたことは起きなかった。それだけで充分だ。
「ありがとうございましたぁ。もうどうしようかと思ってぇ」
 安堵して浮かべた微笑に、椎名さんも安心したように微笑み返してくれた。それから背中に手を回され、駐車場へと促される。これから椎名さんの家へ戻るのだ。その前に、本当は食事にでも行こうかと話していたのだが、流石に今は何も食べれそうに無かった。
 助手席に乗って、軽く椎名さんと口付けを交わす。それだけで少し、落ち着きを取り戻せたような気がした。