彼女の場合

06

 遠くからアラームの鳴る音が聞こえた。反射的に手を伸ばして、しかしそれは目的の感触を捉える前に、捕まえられた。予想もしなかった出来事に、びっくりして目が覚める。
「おはよ、エミちゃん」
 優しく囁く声に顔を上げれば、椎名さんがあたしを見下ろしている。いつ見ても彼の笑顔は爽やかだ。
「むー……びっくりしたぁ。おはよー、椎名さん」
 驚きすぎて思い出した。そういえば誘われてシちゃったんだ、椎名さんと。思い出すと胸がドキドキと激しく波打って、柄にもなく恥ずかしくなった。
 ベッドの中での椎名さんは、やっぱり優しった。気障過ぎるセリフを恥ずかしげもなく言いまくり、あたしは低い声音に感じまくった。こんなにキモチ良かったのは久しぶりかもしれない。倉掛さんも優しいけど、あれはもう儀式みたいなもので、気持ちいいとか良くないとか、そういうものじゃないからだ。
 おはよう、と椎名さんはもう一度言って、あたしの額にチュッと音を立ててキスを落とした。
「朝はパンで良い? コーヒーも入れたんだけど」
「はぁい」
 寝室を出る椎名さんに続いて、あたしも下着とシャツを身に着けるとベッドから出る。3DKの造りになっているこのマンションは、寝室を出てすぐにダイニングだ。向かいに一部屋と、廊下に出た横にもう一部屋あるが、昨夜は案内される間もなくベッドに入っていたので、あたしは改めて確認するようにじっくり部屋を見回した。キッチンはカウンター式になっていて、ちょうど椎名さんがカップを二つ持ってきてくれているところだった。
 椎名さんはあたしの姿に気づくと、一瞬驚いた素振りを見せたが、すぐに微笑を浮かべて座るように促した。
「コーヒーは砂糖とミルクを入れる?」
「お願いしまぁす」
「了解」
 あたしが椅子に座ると、椎名さんは砂糖とミルクを一杯ずつ入れたコーヒーを目の前に出してくれる。トーストとサラダが既に用意をされているのを見れば、朝食が出来上がってから起こしに来てくれたのだと分かった。あたしはあまり朝食をしっかり食べる方ではないのだけれど、食欲をそそる香ばしい匂いに、急に空腹感を覚えた。
「今日はスーツなんですねぇ?」
 いただきます、と手を合わせてありがたく朝食をいただく。
 ふと気になって目の前でトーストを齧る椎名さんに尋ねれば、彼は軽く笑って頷いた。
 昨日は現場だと言ってカジュアルな服装だったけれど、今日はビシッと決めたザ・サラリーマンだった。ネクタイもしっかり結ばれていて、スーツに合わせたデザインとか、胸元に光るピンにそれとなくセンスを感じさせるあたりは、椎名さんらしいと思った。
「エミちゃん、学校行く前に家まで送ろうか」
「いいんですかぁ?」
 嬉しい申し出に思わず顔を綻ばせる。流石にここから学校までは遠いので、送ってもらえるなら是非とも便乗させていただきたい。
「勿論。家ってどの辺り? 大学から近い?」
 椎名さんには話の流れで既にどこの大学かを言ってあるので、その近くだと言えばだいたい分かってくれる。あたしは一人暮らしなので朝帰りな上に男に送ってもらう場面があっても困らない。しかし椎名さんはどうなんだろうか。仕事に遅れないんだろうか。
「時間は大丈夫なんですかぁ?」
 今は7時過ぎ。あたしの家までどのくらいの距離かは分からないけれど、車で1時間としても往復するわけだから9時を過ぎてしまう。会社の始業時間って早いんじゃないだろうか、とはるか昔の父親を思い出す。あの人はいつも朝が早く、夜は遅かった。そういえば倉掛さんも職を変える前は朝が早かった。
「ありがとう。大丈夫だよ。もう少しで出なくちゃならないけど」
 そう言って残り一口でサラダを食べ終えた椎名さんは、コーヒーをゆっくりと飲み干す。あたしも急いでトーストを頬張った。急がなくていいよ、と苦笑しながら椎名さんは言ってくれたけれど、女の子は朝にすることがたくさんあるのだ。
 起こされてすぐ朝食だったから、顔も洗っていない。食器を片付けてから洗面所を借りようと立ち上がれば、後ろから一緒に椎名さんもキッチンに入ってきた。彼の家だから別にどうしようが良いのだけど。
「椎名さん?」
 じっと視線を感じて落ち着かない。
 肩越しに振り返れば、ニヤニヤと笑う椎名さんと目が合う。
「いや、良い眺めだと思ってね。エミちゃん小柄だから、すごくクるよ、その格好」
「ふふっ。椎名さんのエッチィ」
 あたしは椎名さんサイズのワイシャツを一枚、ワンピースのように羽織っているだけの姿だ。それが彼のツボに嵌ったらしく、興奮したように言って後ろから抱きしめられた。小さな衝動で危うく掴んでいたお皿が滑り落ちそうになる。
「朝から誘うエミちゃんが悪いんだよ」
 後ろからあたしの首筋に顔を埋めた椎名さんが、喋るたびに息が掛かってくすぐったい。
 その内に耳の裏を舐められて、耳たぶを甘く噛まれる。くすぐったさに肩を震わせば、あたしの体を抱きしめる腕が更に強くなる。
「ぁ……っめ、だってばぁ……っ」
 無理矢理蛇口を捻って水を止める。濡れたままの手で彼の手を掴み、ようやく顔を離してくれた。それでも米神や頬にキスを降らされたけれど。
「もーぉ、時間ないのにぃ、ダメじゃないですかぁ」
 ぷくっと頬を膨らませてみせる。そんなに機嫌を悪くしたわけでもないけど、ここで許してしまうのも違う気がした。
 椎名さんは笑って「ごめんね」と軽く流してくれた。それでも胸元のボタンを外そうとしている指は何だろうか。ダメ、とその指を上から掴んで止めた。椎名さんはずっとクスクス声を漏らして楽しそうにしている。
「今夜、仕事終わったら連絡するから。ご飯でも食べよう」
 緩くなった腕の中から出て、シンクを背にする。つまりは椎名さんと向き合う態勢を取って、改めて彼を見上げる。
 ご飯にしようってことは、エッチはなしってことでいいのかな。そんなことを考えて、とりあえず了承の意を告げた。あたしもまた椎名さんに会いたかった。今向き合っているのに、離れることを想像してまた会いたくなるなんて、不思議な感覚だ。嫌じゃない。
「待ってますぅ」
 椎名さんの首に腕を巻き付けて、あたしからキスを仕掛ける。身長差がかなりあるから、椎名さんがあたしの腰を抱いて支えてくれた。触れ合うだけの単純なキスだ。それでも柔らかな感覚が気持ちよくて、ずっとこのままでいたいと思った。



 椎名さんの車で一旦荷物を取りにあたしのアパートまで行き、そのまま大学まで送ってくれた。車から出るときに交わしたキスと、それと一緒に言われた「行ってらっしゃい」が気恥ずかしくて、でも嬉しくて、あたしからも「行ってきます」のキスを送る。こんな会話をしたのは何年ぶりだろうか。車を降りた後も暫く緩んだ顔が戻せずにいた。
「見ちゃったぁ! あれって椎名さんでしょ」
 講堂に入る前の中庭に差し掛かるところで、テンション高めの奈々が近づいてきた。公衆の面前でキスをしたことは承知の上だったから別にそれは良いのだけれど、彼女が朝からこんなにも元気なことが珍しくて驚いてしまう。
「そうだけどぉ。奈々は何か良いことでもあったのぉ?」
 低血圧気味な彼女は毎朝不機嫌に近いテンションの低さだ。そう聞かずにいられなかった。すると、待ってましたとばかりに奈々はあたしの腕を引いて、食堂まで連れて行った。朝イチの食堂は人が少なく、且つパートの人もまだ準備中で疎らなため、人気を気にしないで話をするには打って付けの場所でもある。あまりそのことに気づいている学生は少ないようで、だからこその隠れたポイントなのだった。
「なーにー? 遂に祐とヤっちゃったとかぁ?」
 昨日の今日でこれだけ浮かれているのだ、思い当たることはこの一つしかない。しかし奈々はウンとも言わず、ニヤニヤと笑っている。はっきり言って気味が悪い。
「いやね、エミったら。朝からそんな下品な話しないでよ」
「話って祐のことじゃないのぉ?」
「祐くんのことって言えばそうなんだけどさ」
「?」
 全く要領を得ない奈々の回答にあたしの頭はクエスチョンマークの嵐だ。理路整然とした思考の奈々らしからぬ受け答えである。気味が悪いのを通り越して心配にもなってくる。本当にどうしたというのか。というより、確か一限目の講義があるはずなのだけれど、出るつもりは無いようだ。
「エミ授業があるんだけどぉ、行っても良いかなぁ」
 すると奈々は少し怒ったように表情を変えて、立ち上がろうとするあたしの腕を掴み、再び座らせた。
「待って待って。話はこれからでしょ。一限目って何?」
「地域比較論だよぉ」
「じゃあ1回くらいサボったって問題ないわよ。それよりアタシの話! エミだって祐くんの恋人って興味ない?」
 やけに気に掛かる話し方をする奈々に、一瞬動きを奪われた。祐の恋人って何だ? あたしはすっかり奈々の思惑通り、授業のことなんて頭の隅に追いやった。彼女はそんなあたしに満足そうに笑顔を作ると、気になるでしょ、と更に被せてきた。
「……会ったのぉ?」
 嫌な予感がする。あたしが知る限り祐が気に入っている人はすごく限られているし、気が乗らなければ据え膳も平気で残す祐だから、その中で第三者にまでも恋人と思わせる素振りを見せる程の熱の入れ様ならば、それは一人しか該当しなかった。しかし、それは一般的に見れば、人に言えるようなものではない禁忌な関係ではなかったろうか。
「会ったっていうか、遠くから見ただけだけどね。断言できないけど、それらしい雰囲気だったの。腰に手なんて回してさ。ていうかその人を見かけた祐くん、すごく嬉しそうに駆けて行ったもの」
 ああ……、やっぱり、嫌な予感しかしないのだけれど。目まぐるしくあたしの頭には祐と侑くんの姿が駆け巡った。
 奈々の話を要約すると、昨夜の出来事はこうだ。
 あたし達と別れた奈々と祐は電車に乗った。二人は降りる駅は違ったが、奈々が強引に祐の後を着いてくことにした。嫌がる祐に、部屋には行かないから、という取り付けまでしての強硬手段だったらしい。本当は、奈々としてはアパートに着く前に、祐にその気になってもらおうと腕を組んで胸を寄せたり、必要以上に接触を図ったのだがその効果は現れることなく、約束どおりアパートが見える一歩手前の角で祐を見送ることになった。仕方がなく祐の後姿を見ていると、アパートの前に佇む人影があり、それに気づいた祐は瞬時にそちらへ駆け寄り、あまつさえ腰に手を回して親密な雰囲気を醸し出す。そして嬉しそうな祐の横顔が見え、それを最後に二人は仲睦まじくアパートの中へと入っていった。
 時刻は既に夜遅く、街灯も少ない住宅街だったこともあり、人影の詳細を確認することはできなかったが、祐と並んでもそれほど身長差がなく、細身の人物、ということしか分からなかったらしい。が、あたしにはそれだけで充分相手が侑くんだと確信できた。
 頭を抱えたくなったが我慢する。ここで知ったようなアクションを取れば間違いなく奈々の餌食だ。
「ふ、ふぅん。綺麗な人だったぁ?」
「顔までは分からなかったけど、服装から見てお洒落に興味ない感じだったわ。ジーンズにパーカーだったし。あの程度のオンナだったら諦めない」
 オンナ。それを聞いて安堵した。
 侑くんだってバレてない。男だって気づいていないようで、それだけで肩の荷が下りた。それを知ったら奈々はいったいどうするだろう。想像しただけで修羅場が広がり、生きた心地がしない。
「それでね、せっかく祐くんの住んでる所も分かったし、これからちょっと本気になってみようかと思うのよね」
 意を決したように告げる奈々は真剣だった。
 安堵した瞬間裏切られた気分になる。やっぱり嫌な感じしかなかった。
「本気ってぇ……まさかぁ……」
 恐る恐る聞いてみれば、こっくりとはっきりと奈々は頷く。
「彼氏と別れることにしました!」
「えっ、えぇぇ〜っ!?」
 そんな馬鹿な!
 あたしの心からの叫びは静かな食堂中に響き渡った。
 無理と分かっていて友人の恋を応援できるほど、あたしはドSな性格を持ち合わせていないので、慌てて思い直すように奈々と向き合うことに決めた。
「あんな良い人なのに勿体無いよぉ。まだ別れたわけじゃないよねぇ?」
 この前一時のテンションに任せて人生を棒に振った男の話を漫画で読んだ。奈々にはそんなふうになってほしくなくて必死に説得を試みるが、既に奈々の気持ちは決まっているようで全然聞く耳を持ってくれない。
「でもキープなんて失礼なことできないし、祐くん相手に二兎追う真似はできないとも思うのよね」
「奈々って何気に男前だよねぇ」
「そう? アリガト」
 ふふっと笑う表情は美人な奈々に似合って格好良いのだけれど、言っていることに賛成はできない。友達としてここは何としてでも止めなければ、あたしには奈々が傷つく未来が見えている。
「祐の本命がその人だとしてぇ、だったら奈々には難しいと思うなぁ。奈々も前にそんなこと言ってたじゃん」
「あら、あの人が祐くんの本命だなんて誰が言ったの? “それらしい人”と言ったのよ。現に祐くんは今までも恋人の存在を明言していないから、あの人が本命である可能性は低いし。何もしないで諦めるなんてあたしの性分じゃないもの」
「奈々ぁ……」
 あたしでは奈々の説得は無理だ。あたしはすぐに、代わりに言ってくれそうな人を脳内で選択する。残念なことにあたしの人脈では誰も奈々の口には勝てそうにない。
――祐本人以外は。
 ここは男前な奈々に敬して潔く、祐に言ってもらう他ないようだ。