彼女の場合

05

「へえ、それじゃあ皆同じ大学なんだ?」
 パスタをフォークに巻きつけながら椎名さんが言った。「そうなんですよ」と答えたのは奈々だ。先ほどからずっと奈々が中心になって話をしている。奈々の隣にいる祐は時折相槌を打ちつつ、たまに向かいのあたしに向かって侑くんのことを聞いてきたりして、あまり積極的に会話に参加する素振りを見せない。あたしは祐に答えつつ椎名さんの横で二人の会話をふんふんと聞いていた。
「学部は違うんですけどね、サークルが一緒なんです」
「何のサークル?」
 それには答えにくそうに奈々は苦笑し、肩を竦めて見せた。
「昔はマジメに活動してたみたいですけど、今じゃただのコンパ部ですよ」
 そんな奈々の表情を見て椎名さんはおかしそうに笑った。
「エミちゃん達を見る限り可愛い子やカッコイイ子が揃ってるみたいだし、出会いを求めたくなるのも分かる気がするな」
 世辞か本気か判断しにくい口調で言ってのける椎名さんに、さすがの奈々も「そんなことはないですけど」と曖昧に言葉を濁した。そもそも会ってからずっと椎名さんは自然な調子で、他の人が言うと気障っぽく聞こえるセリフを平然と言ってくるから、どこまでを本気で受け止めればいいのか分かりにくいのだ。
 それはともかく、椎名さんを交えての食事会は始終和やかな雰囲気だった。
 会計は、なんと椎名さんが全額出そうとしてくれて、しかしこれには祐も慌てて、ようやくの末あたしと奈々だけが奢られるカタチに収まった。
「ご馳走様でした!」
 店を出て、暫く歩くと大通りに出る。そのまま信号を渡れば駅へ向かう歩道橋へ繋がるというところで、祐と前を歩いていた奈々が振り返り、ペコリとお辞儀をした。釣られて祐も体をこちらに向ける。急に振り向いた奈々に椎名さんは驚きつつもオトナの対応で「いいえ」と応える。
「それじゃあ、アタシ達はこっちなので」奈々は祐の腕を掴み、反対の手で歩道橋下を指して言った。「エミは駅でしょ?」
「それならエミちゃんは俺が送るよ。西郡さん達も気をつけて帰ってね」
 すっかり別れの流れになってしまい、祐はどうするんだろう、と思って視線を祐に向ける。祐も同じように思っていたのか、すぐに目が合った。祐は奈々に掴まれた腕を無理矢理引き剥がすこともなく、されたまま「それじゃあ」と口を開く。
「後でメールするから」
 それは明らかにあたしに向けた言葉で、隣の奈々は少しだけムッと表情を歪ませるが、あたしは構わず「うん」と小さく頷いた。何も奈々が心配するようなことはないと分かっているからだ。

 駅に向かう歩道橋の上で、世間話をするように椎名さんが言った。
「あの二人は付き合ってるの?」
 奈々の態度を見ればそう思われるのは仕方がないと思っていたから、驚きもせずにあたしは首を横に振った。
「奈々はちゃんと別に彼氏がいますよぉ」
「でもエミちゃんと付き合ってるわけでもないよね、彼」
「そうですねぇ。ただの友達ですぅ」
 でもエッチはしてるけど……とまではさすがに正直になれるわけもなく、心の中で呟く。その後でふと、普通、友達同士で体を重ねることってあるんだろうか、と考えてみた。祐とはセックスフレンドというわけでもなく、その場の流れでヤっちゃっただけで、侑くんとは違う。そもそも侑くんとの関係だって、しようと思って出来上がったわけでもない。出会いは合コンなんてありふれたきっかけだったけれど、その時はマジメに付き合おうと思っていたのだ。ただ侑くんは優しすぎて、コイビトにはなれなかっただけで。
 要するにあたしは流されやすいんだろう。キモチイイコトが好きなだけじゃないのかもしれない。軽い女……なんて思われたくはないけれど、奈々の言うとおり、あたしも自分のことをそういう面ではあまり信用していない。
「エミちゃん、まだ時間ある?」
 改札口前まで来て、椎名さんは聞いてきた。時間を見ればまだ10時にもなっていなくて、夜が更けたと言うには少し早い。
「大丈夫ですぅ。どうしてですかぁ?」
 あたしが聞き返せば、椎名さんはにっこりと笑みを作り、あたしの腰に腕を回してきた。
「良ければこの後一杯どうかな、と思ったんだけど。来る?」
 お酒の誘いだ、と分かり、どうしようかと逡巡する。お酒に弱いあたしは、カクテルだってまともに飲めない。あのバーだって、マスターの人の良さと雰囲気が気に入って通っているようなものだし、実際マスターは、バーなのにお酒を勧めてくることがほとんどない。そんなあたしと飲んだって椎名さんは楽しくないだろうし、かと言って一人で飲ませるのも悪い気がする。それよりもせっかくの誘いを断る方が悪いだろうか。
「勿論奢るよ」
 迷っているあたしに業を煮やしたのか、椎名さんは腰に回した腕に力を込め、更に体を密着させる。別にお金の心配をしていたわけでもないけれど……奢られるなら行ってみてもいいかもしれない、と現金なことも考える。それに椎名さんは良い人そうだし、酔っ払って暴力を揮われることもないだろう。極端かもしれないけど、つまりは、突飛なことが無ければいいのだ。
「じゃあ、ご馳走になってもいいですかぁ?」
 小首を傾げて上目遣いで椎名さんの表情を窺う。彼は優しげな微笑を浮かべて「勿論」と囁く。
「誘ったのは俺だしね。期待してもいいかな」
 何を、と野暮なことは聞かず、あたしは軽く椎名さんの腕に寄りかかる。僅かにコロンの甘い匂いがした。



 誘われた店はあたし達のよく知る所ではなくて、ホテルにあるそれこそ高級そうなバーだった。ロマンチックに横目で夜景を眺められるカウンターに座り、軽く乾杯をした。椅子は固定されているけれど、明らかにパスタを食べていた時よりも椎名さんとの距離は近くになっていた。それは親密度というよりも物理的な意味で、だ。
「マスターには口説くなと言われていたけどね。こうして今日偶然会えたのも運命的だと思わない?」
 片手にグラスを傾けながら、椎名さんの左手があたしの右手を包み込む。少し冷たい体温が手の甲に触れ、柄にもなく肩を震わせてしまった。
 あたしが何も言えずにいると、ゆったりとした動きで椎名さんの手が動く。滑るようにして小指から親指までを撫でていき、いつの間にか指を絡ませた状態で手を握られていた。テーブルの上で恥ずかしげもなく恋人繋ぎをしてしまえるのは、彼だから成せる業に違いない。バーテンダーはプロとして空気を読んでくれているのか、僅かに目の端に映るくらいの場所でグラスを拭いている。
「初めて会った時から可愛いなと思ってたんだ」
 使い古された口説き文句に新鮮味は一欠片もなかったけれど、嘘だ、とは思わなかった。それは椎名さんが初めからこんな調子だったからだ。初対面での彼から言われた第一声をあたしは今でも覚えている。
「エミにはぁ、椎名さんが言うほどの魅力なんて無いですよぉ?」
「どうしてそう思うの?」
 あたしが言えば、椎名さんは逆に聞き返してくる。不思議そうにキョトンとするわけでもなく、言うなれば何かを諭す聖職者のような、穏やかで優しげな目だ。時々倉掛さんもしてくるこの目を、あたしはあまり好きではなかった。苦手と言ってしまった方が良いかも知れない。
 思わず視線を逸らし、手元のあまり口を付けていないカクテルを見つめる。透き通るスカイブルーの液体が少しだけ揺れる。
「だってエミは頭良くないしぃ。バカっぽいってよく言われるしぃ」
 言いながら、だからバカなのかもしれないと思う。成績のことは個人差があって然るべきだとわかっている。バカっぽいというのも口調で判断されてのものだろう。自分でもよく理解していることだ。直そうと思って直せるものでもないし、直そうと努力を続けられるほど根気があるわけでもコンプレックスがあるわけでもない。ただ、言われると少しだけ傷つく、という程度のことだ。そんなことが理由になると自分で思っていないのに、あえて言ってしまうのは誰かから言葉にして否定してほしいからだろうか。
 案の定、椎名さんは「そんなこと」と一蹴りで否定した。
「エミちゃんの舌っ足らずな話し方は、俺は可愛いと思うし、聡明すぎるよりは少し抜けた子の方が愛しいよ」
 他には? と続けて尋ねられ、あたしはちらりと椎名さんを見る。手は変わらず繋がれたままだ。指を曲げて握られる、というよりも、本当に触れ合うだけの、繋がっている状態だった。そのことに少しの気恥ずかしさを覚える。
「自分のことを名前で呼ぶのもぉ、子供みたいとかぁ、ブリッコって言われるしぃ。これって魅力的とは言わないでしょう?」
 言ってみたけれど、椎名さんはやっぱりそんなことは意にも介していないようで、そうかな? と小首を傾げさえした。
「自分のことをどう言おうと他人が評価することじゃないよ。社会人になったら直さないといけないけどね」
「癖になってるんだもん、直せるかなぁ?」
「無自覚な癖はどうにもならないけど、癖だと分かっているなら直せるよ。大丈夫!」
 あまつさえ励ましてくれる椎名さんは、本当に良い人だと思う。周りの静かな雰囲気も手伝ってか、あたしは自分がこの空気に流されていることに気が付いていた。
「エミちゃんは充分魅力的な女の子なんだから、もっと自信を持った方が良い」
 椎名さんは繋がっていた手に力を入れてあたしの手ごと握り締めた。力強く言われたら頷くしかなくて、首を小さく上下に動かす。
 あたしが頷いたのを見届けると、椎名さんはそのまま立ち上がり、手を握ったまま会計を済ませた。あたしは椎名さんに引かれるままバーを出て、エレベータへと乗った。他に乗客はいなくて二人きりだ。
「エミちゃんの魅力、俺がもっと教えてあげようか」
 握られていた手がようやく離される。
 あ、と思ったのも束の間に、椎名さんの腕はあたしの肩を抱きしめた。精悍な椎名さんの顔が目の前にあって、鼻の先が触れ合った。椎名さんが喋るたびに吐息が直接くすぐる。
「それとも、俺に教えてくれる?」
 どっちも一緒じゃないだろうか――と問いかける前に、唇が塞がれる。
「ん……」
 触れ合った唇は薄く、しかし椎名さんらしく優しい体温で、あたしの唇を包み込んだ。
 椎名さんが屈んでくれているとはいえ、あまり高い方ではないあたしとの身長差は結構あったようで、思わず縋りつくように椎名さんの肩を掴む。
「んぁ……ぁむ……」
 何度か啄ばむキスを繰り返している内に、いつの間にか開きそうになった扉を、椎名さんが片手で再びボタンを押して閉めた。それを気配だけで感じながら、それでもあたしからはキスを止められない。いつ誰が来るとも分からない状況が鼓動を速くさせ、己の興奮状態と錯覚する。こんなスリルなキスは、祐と友人宅で交わしたキス以来かもしれない。それはもう随分と前の出来事で、正確には思い出せなかった。
 次第に触れ合うだけじゃ物足りなくなったのはあたしだけではないようで、椎名さんの舌があたしの唇をなぞり、厭らしく舐めてくる。少しでも気を許せば彼の舌は容赦なく滑り込んで来るだろう。
「だ、めぇ……」
 イヤイヤと首を横に振れば、そこでキスが終わる。
「どうして?」
 キスには応えていたのに、という表情で椎名さんがあたしの顔を覗きこんでくる。分かっているくせに、と言いたいのを我慢して、潤んだ目のまま椎名さんを見上げた。相変わらずあたしは彼の肩を掴んだまま、抱きしめられた状態で、逃げられるわけがないのだ。
「ここじゃぁ、ダメ、なのぉ」
 自分でも過剰だと思うくらいの甘い声が出た。それでも椎名さんは引かずに、ふふっと笑う。
「良いよ。どうしてほしいか言ってごらん? 君の思うままにしてあげる」
 不意に腰を一気に抱き上げられ、思わず彼の首に腕を巻きつけてしまった。もう自分で立っているのか支えられているのかも分からないほどの密着度に、思い切り動揺してしまった。きっと椎名さんにもあたしの鼓動は伝わっている。
「エミ」
 優しく耳元で呼ばれる。あたしは“笑美子”よりもエミと呼ばれる方が好きだった。だから自分でもエミと呼んでいるのだけれど、椎名さんの艶のある低い声で囁かれたその名前は、まるで自分の名前ではないような、不思議な響きがあった。
 促されるようにあたしは椎名さんの耳元へ自分の顔を寄せた。
「椎名さん……」
 あたしが今、一番したいコト、してほしいコトを伝えるために――。