モーニング・キス

act1.1


 最近、つくづくあたしは理想の未来から遠ざかっているように思える。
 入った会社はまぁそこそこ整った環境だし、仕事も人間関係もそれなりに上手くこなしている。ただ、あたしが思い描いていた未来には愛し愛される相手がいたことが、そもそもの誤算だった。容姿も能力も個性も平々凡々なあたしを女として見てくれる相手などいないことくらい、高校を卒業する頃にはイヤというほど思い知ったはずなのに。
 あたしはまた性懲りもなく仄かな期待を抱いて、化粧室の鏡の前に立った。
「あれ、緒方さん、これからデートですか?」
 滅多に化粧直しをしないあたしを知っている同期の女の子の一人が声を掛けてきた。同期と言っても配属された部署が違うので、普段は飲み会の時にしか会わない。そんな彼女にもあたしのこの小さな変化は見て取れるらしい。あたしは少し困って苦笑した。
「いえ、ただの同窓会です、中学の」
「へぇ。なんか珍しいですね、この時期って」
 確かに。それは年末であったりお盆であったり、帰省のついでに来ることを狙っているからだろうが、同窓会というのはだいたい季節の節目で行われることが多い。だというのに今はそろそろ秋が始まろうかという忙しい夏の終わりである。
「担任の先生がちょうど還暦の誕生日を迎えるらしいから」
 そんなことが案内状に書いてあったことを思い出しながら、あたしは手早くリップを塗ると、道具をしまって出る準備をした。
「それじゃ、お疲れ様です」
「お疲れ様〜」
 腕時計に目をやると、そろそろ6時になろうとしている。定時は5時で、予定もそのはずだったのに遅れてしまったことで、あたしは少し焦った。きっと遅れるな。電車や歩く時間を簡単に計算してみたところで、あたしは今でも仲の良い中学時代の友人にメールを打つことにした。
 なんだか、バカみたい。化粧は礼儀としても服装にまで力を入れてるなんて、同級生に何を求めているんだろう、あたしは。

 同窓会の会場は地元の駅前に最近オープンしたらしい居酒屋レストランだった。全体的に和風な作りになっていて、そこの2階にある座敷の一角を取っているようだ。あたしが着いたのはちょうど7時を回った頃で、既にお酒も入ってみんな盛り上がっていた。すぐに誰か分かる人も要れば、こんな人いたっけ? と首を傾げてしまう人もいて、あたしは自然に笑みを浮かべた。
 ……と、懐かしんでいる場合じゃない。朋子を探さないと。
 神田朋子は先ほどメールを送った相手で、今でもたまに連絡を取り合ったりしている唯一の仲だ。それでも滅多に会うことはなくて、たぶん今日は1年ぶりの再会になるのだろうか。
「ハル〜! ここ、ここ!」
 あたしがキョロキョロと見回していると、端の方から声が聞こえた。そちらに目をやると少し顔を赤くした朋子が片手を振ってあたしを呼んでいるのを見つけた。
「緒方さん、久しぶり〜」
 朋子の横に行くと、同じ席で飲んでいた同級生に次々と声を掛けられる。
「うわ、久しぶりだねぇ。成人式以来?」
「だねぇ。もう5年も前だよ、早い〜」
 それからそれぞれ近況報告を簡単にしていると、不意に肩を叩かれた。振り向くとスーツを少し着崩した男の人があたしの後ろへ来ている。えっと……誰だっけ。
「緒方さん、もう注文した?」
 あ、幹事の田中くんかな。でもこんな感じだったっけ、田中くんって。そんなに親しかったわけじゃないし、がり勉タイプの委員長としか記憶になかったから、ネクタイを緩ませた目の前にいる彼とは全く結びつかないのだけれど。というかこんなにかっこよかったっけ、田中くん。
「えっと、じゃあカルアミルクで」
「分かった。他の人は? 追加要る?」
「ビール! 生中ね」
「オレもビール」
「わたし、カシスオレンジ」
「了解」
 田中くんらしき彼が下がると、朋子が急に肘を突いてきた。ニヤッと何かを企むような笑みを浮かべているのに気づき、あたしは眉を寄せる。
「ねぇねぇさっきの、ハル、絶対誰か気づいてなかったでしょ」
 図星なだけにあたしは何も言い返せず、とりあえず目の前にあった唐揚げを抓む。あ、意外に脂っこすぎなくて美味しい。
「あれね、見吉くんだよ」
 朋子の正面に座っている杉本さんが教えてくれた。くるんと緩やかパーマをかけて、目の大きさが特徴の彼女は、中学時代から変わらずフリルが似合いそうな女の子らしい容姿をしている。朋子ほど仲良くはなかったけど、同じクラスになった時は割りとよく話していた子だ。
 そうか、やっぱり田中くんじゃなかったんだ。だよね、印象が違いすぎたもの。
 でも「見吉くん」って、あの見吉遼佑くん?
「嘘でしょう?」
 思わず声に出してしまって、朋子も杉本さんも同じように肩を震わせて笑った。
「だよねー、そういう反応するよね。わたし達も最初聞いた時驚いたし」
「え、だって、かっこいいよ」
 結構失礼だと思うけど、当時と比べたら断然今の方がかっこよくなっている。記憶の中の見吉くんは眼鏡をかけて髪も少しボサボサっとした、どちらかと言えば根暗な感じの男の子だった。だからよく見たこともないし話したこともないけど、積極的に話しかけてくるタイプではなかったはずだ。声さえそんなに聞いたこともない気がする。当時からすると注文を聞いてきたというついさっきの事実さえ不思議だと思う。
 人って変われば変わるものなんだぁ。あたしなんて何一つ変わってないのに。強いて言えば体の成長くらい? 自分で言ってて寂しいものがある。
 何気なく目を周りに移すと、見吉くんはまるで昔の面影なんてなくて、女の子達の相手を普通にこなしている。むしろ当時モテてた同級生よりもモテてるんじゃないだろうか。
「そういえば先生に挨拶した?」
 朋子に言われて、あ、と我に返る。言われてみれば今日の同窓会の目的は先生の還暦のお祝いだった。何も用意してないけど、大丈夫かな。
「ちょっと行ってくる。朋子たちは?」
「始まる前に少しだけ話したから」
「そっか」
 ああ、やっぱり遅れてきたのはマズかったな。仕事だから仕方なかったんだけど。
 ところが話してみると、あまり目立つ生徒じゃなかったあたしのことを先生はちゃんと覚えていてくれて、あたしは少し感動した。思いのほか会話が弾み、朋子たちのところへ戻る頃には既に注文したカルアミルクが置いてあり、朋子に至ってはもう一度追加したところだったようだ。忘れてたけど、朋子って酒豪だったんだよね。
「ビール追加で〜」
「こっちカルピスチュウハイ」
「ジントニックも」
 次々と追加注文を流していくうちにそろそろラストオーダーという時間になったようだ。時計の時間でいうとまだ深夜というには早い。この雰囲気だと二次会もありそうだけれど、あたしはこの辺で帰るつもりでいた。
「ねー、ハルは彼氏とかどうなの?」
 程よく酔った朋子が「ねぇねぇ」と肘を突いてくる。空になって並べられているジョッキの数は半端なく、それでもまだ彼女の手には半分ほど残っている中ジョッキがあるのだ。
「居ないよ。あたしより朋子はどうなの。この前言ってた人とはどうなったの?」
「んー? あー、ムリムリ。彼女持ちだったんだよねー。ってかハル、やばいんじゃない? 付き合ったことないんでしょ、まだ」
 あたしは何とも言えず苦笑するしかなかった。この年でまだ誰とも付き合ったことがないなんて、どれだけ女としてヤバイか自分自身でよく分かっている。でも寄ってくる男の人もいないのにどうやって作れというのか、あたしにはまるで分からない。
 案の定、周りも驚いて目を丸くしている。悪かったわね。
「ええ、そうなの? いい人とかいないの?」
 杉本さんに心配そうに言われても、あたしも困るだけだ。
「どうもね。タイミングがね」
 いいな、と思う人とはことごとくタイミングがずれてきた。あたしはもう一度苦笑を浮かべて残っていたカルアミルクを一気に飲み干す。甘い。
「それじゃあそろそろ移動するんでぇ、一人2300円お願いしまぁす!」
 今度は本物の田中くんが声を張り上げた。おお、安いじゃないの、ここ。
 とりあえずお金を渡して、幹事が会計を済ましている間にあたしたちは店の外に出た。既に両脇を支えられている人もいる。この人数で道の傍に固まっていると、なかなか邪魔そうだ。あたしたちだけでも、と店から少し離れたところで待つことにした。
「あー久しぶりに飲んだなぁ」
 朋子が満足げに両腕を伸ばす。まぁアレだけ飲めば充分だろう。あたしは弱いのでカルアミルクを2,3杯だけだったけど。朋子はビールを始めにしてカクテルから日本酒まで手をつけていたし。
「また皆で飲みに行こうよ。そだ、アドレス交換しよう」
 杉本さんに言われて、そういえばまだ知らなかったなと気づく。赤外線でお互いに送受信を繰り返す。そうしているうちに他の子からも聞かれたりして、なんとなくそういう輪ができていた。もちろんその中に見吉くんもいた。
「緒方さん、いい?」
「いいよ。あたしが先に送ろうか?」
「ん」
 いったいこうしている人たちの中でどれくらいの人と連絡を取るんだろう。きっと連絡先だけ知っているってだけの人の方が多い気がする。そう思うとこの光景がなんだか可笑しく思えた。
「えっとー、先生はもうここで帰られますが、同窓会の二次会にカラオケを用意してるんでー、来られる人はこっちに集まってくださぁい! ってことで、お疲れさまでしたー!」
「お疲れー」
 そうして少し店の前に留まって挨拶を交わし、二次会へ行く人とここで帰る人に分かれた。朋子ももう帰ると言う。
「ちょっと朋子、歩けるの?」
「だぁいじょうぶ! あっ、見吉くんも帰る組?」
 朋子が急に振り返ったので、あたしも同じように視線を移す。見ると確かに彼もあたしたちと同じ方向に歩いている。二次会となるカラオケルームは逆方向だ。
「明日も仕事だから」
 そう答える見吉くんは、やはり中学時代の彼とは結びつかない。同一人物なのに、変な感じ。
「えー、じゃあ休日出勤? 大変だねぇ」
 驚く杉本さんに、彼は軽く「まぁね」と答えた。それほど苦には思っていないようだ。もしかしてバリバリの仕事人間なのかもしれない。
「あ、わたしこっちだから」
 不意に杉本さんが足を止める。あれ。中学は校区が決まっているから自然と皆の実家は近いことになる。駅を越えるまでは一緒だと思っていたけど。
「そっかぁ、お疲れ。また飲もうねぇ」
 朋子がそう言って手を振ったので、あたしは聞くタイミングを逃してしまった。同じように手を振って見送る。
 そういえばあたしも残してた仕事があったのを思い出した。今日は遅れたけれど、それでも完全に仕事を終わらせたわけではなかった。終わらせるまでやっていると行けなくなりそうだと判断して、途中で切り上げたのだった。
「朋子、あたしも向こうに戻るから」
「え、そうなの?」
 どことなく残念そうな顔を浮かべる朋子に「ごめんね」と付け加える。もしかして後で飲み直すつもりだったのかもしれない。
「じゃあ二人とも駅でお別れだね。お疲れ」
 朋子があたしと見吉くんに言った。見吉くんも電車なのか。
「お疲れ。またメールするね」
 朋子に手を振る。朋子も「おう」と振り替えした。
 結果的に見吉くんと並んで駅へ向かうことになった。二人きりは、思ったよりも緊張するものだ。
「見吉くんはどこまで?」
 降りる駅を聞いてみると、あたしが降りる駅と一つしか変わらなかった。驚きすぎて心臓がバクバクする。尤もあたしの家の最寄り駅は普通電車しか止まらないけれど、見吉くんが言った駅は新快速が止まるほどの大きな駅だ。だからたぶん乗る電車は違うだろうけれど。
 切符を買って改札を通り、ホームへ降りると見吉くんがあたしの横に並んだ。
「え? 快速なら向こうの乗り場だけど?」
 てっきり快速電車に乗るものだとばかり思っていたから、思わずそう言ってしまった。誰だってわざわざ各駅に止まる普通電車に乗らなくても、と思うものだろうけど。
「うん。でも緒方さんはこっちだし」
 平然とそんなことを言うような人だったっけ。見吉くんのことはよく分からないことだらけだ。そりゃまあ、一緒に帰れるなら嬉しいけど、なんとなく落ち着かない。
「合わせることないのに」
 一応言ってみるものの、見吉くんが動くことはなかった。
「タイミングは合わせるものだと思うけど」
「え?」
 ちょうど電車が来る合図のベルが鳴った。一瞬高鳴った鼓動はそれに消されて、あたしはもう一度「え?」と呟いてみる。
「俺と付き合わない?」
――ええっ!?