モーニング・キス

act1.2


「俺と付き合わない?」
 同窓会で再会した、それほど親しくなかったはずの同級生に告白された。なに、この急展開は。しかも公衆の面前で、まるで「これから飲みに行かない?」とでも言うような感じで。
「ちょっと飲み直そう。俺、今日あんまり飲めてないし」
「へ?」
 あれ。それって、飲むことに対しての“付き合わない?”ってことなのか? 男女間での問題ではないのね。
「俺の部屋でいいよね?」
「え、あぁ」
 そりゃあたしの部屋でやるのは無理だけど。というかやっぱり急展開なことには変わりない。
 言うや否や、見吉くんはあたしの腕を引っ張って反対側の乗り場へ移動し、快速電車に乗り込んだ。ベルが鳴り、あたし達が乗るとすぐに扉が閉まる。
「家に着くまで考えといて。俺の彼女になること」
……はい?
 冗談、でしょ?

 見吉くんが今住んでいるらしいマンションは、あたしが住んでいるアパートとはやはり格段と違っていて、思わず溜め息が漏れた。こんな所に住めるなんて、よほど大手の会社に勤めているんだろう。仕事も結構できそうな雰囲気があるし、顔だけじゃなくて全てかっこよく見えてしまった。本当に彼があの見吉遼佑くんなんだなぁ。
 見吉くんの部屋は14階建ての8階だった。エレベータからすぐ近くで、ネームプレートにはアルファベットで彼の苗字だけが飾られている。
「ビールしかないけど」
「あぁ、うん……」
 玄関を上がって廊下の突き当たりのドアを開けると、そこがリビングになっていた。ざっと20畳はあろうかという広さ。家賃、どれだけ高いんだろう。想像するだけで怖いんだけど。
 見吉くんはリビングから繋がっているキッチンへ入り、缶ビール2本を手に持って戻ってきた。ああは言ったものの、正直言ってあたしはビールって苦手なんだよね。お酒自体があまり好きじゃないってのもあるし、まだあたしにはビールの美味さってのが分からない。まぁ付き合い程度には飲むけどさ。
 あたしがどこに座るべきなのか迷っていると、見吉くんがソファに腰を下ろしたのであたしもそのと隣に座ることにした。キッチン側にダイニングテーブルがあって、その反対に位置する窓側にソファと小さなテーブル、テレビなどが置かれている。ソファはL字型で、だから隣と言っても真横というわけではない。
「とりあえず、乾杯」
「乾杯」
 缶をぶつけて、一口ビールを喉に流す。やっぱり好きじゃないな、この苦さは。
 見吉くんは缶を置くとジャケットを脱いでネクタイも外した。
「ごめん、俺もう寝るから」
「えっ?」
 何それ。あたしが目を点にして彼を見上げると、立ち上がった見吉くんは心底眠そうに欠伸をして髪を掻きあげた。ほ、本気で寝るみたいだ……。
「明日も早いんだ。悪いけど起こしてくれる? 6時」
「え、それって、泊まれってこと?」
 困るよ。果てしなく困る。だって明日が土曜だとしても、着替えくらいはしたいし、第一あたしはどこで寝ろって言うの。
「ベッド広いから半分使ってくれていいし。シャワーでも風呂でも入ってくれて構わない。俺のでよければ服も何着たっていいから。じゃあ頼むな」
 そう言ってさっさと寝室なんだろう、隣の部屋へ行こうとする見吉くんにあたしは慌てて駆け寄った。まだ全然納得できていないうちに寝られちゃ余計に困るっ。
「あの、あのさ、あの話は? 彼女になるとかならないとか、あたし返事してないよね」
 つか絶対頷かないけどさ。なのにあたかも夫か彼氏のようにそんな指示されたって――。
 すると振り返った見吉くんは眠そうな表情のままで信じられないことを言ってのけた。
「もう彼女で良いじゃん。男の部屋に入るってことはそういうことだろ」
 なんか……、ムカツク。
 まじでこういう奴だっけ? ううん、もうそんなことはどうでもいい。
 絶対起こしてなんかやるもんかっ。むしろ即行で帰るし!
「じゃ、頼んだから。俺酒飲んだ次の日って絶対起きれないんだよな」
 呟くように言いながら寝室へ行ってしまった彼の背中に向かって思い切り舌を出した。気づかれなかったけど、しょうがない。
「あたしは帰るからね!」
 ドアに向かって怒鳴ってみたけれど、返事があるわけでもない。
 ……。
 途端に寂しくなる。一人で腹を立てて、バカみたい。
 それでもすぐに泊まるような素振りを見せるのも癪な気がして、とりあえずキッチンに入って冷蔵庫の中を確認することにした。いいよね、これくらい。朝起こすんだったら食べるものも用意した方がいいだろうし。あたしってつくづくいい人だわ。
 一人暮らし用のコンパクトサイズの冷蔵庫の中は意外に入っていて、材料にはそれほど困ることはないようだ。キッチンをざっと見回してみても自炊しているんだろうことが伺われる。男の人の一人暮らしってもっとだらけてるのかと思ってたけど、そうれもないみたいで驚いた。――まぁいいか、コンビニでツマむものでも買いに行こう。ビールだって一口しか飲んでいないし。
 なんだか、アイスクリームが食べたい気分になった。
 鍵をどうしたらいいのか分からなかったけどここはオートロックでもないみたいだし、部屋には見吉くんが居るということで、あたしはそのまま出ることにした。近くにコンビニがなかったらどうしようかとも思ったけど、その心配は要らなかった。マンションの目の前にあったのだ。なんて便利なところに住んでいるんだろう。駅からもそんなに遠いわけでもなかったし、ますます家賃が気になるところ……。あたしには関係ないけど。
 マンションに戻ると出るときと変わっていなくて静かなままで、そりゃ10分と掛からなかったんだから当たり前なんだろうけど、なんとなくほっとした。ドアの鍵をかけてリビングのソファに座りなおし、ビールとアイスと、80円のお菓子を広げる。さすがにテレビはヤバイかと思って、そのまま黙々と食べた。雑誌の一つもないってどういうことだろう。本当に仕事しかしてないのかしら。
 部屋を見回してみても広さばかりが目立つほど殺風景で、自分で家事をしているはずなのに生活感なんてほとんどない。見吉くんにとっての娯楽って何なのだろう。趣味の部屋はまた別にあるんだろうか。でも、寝室の他に部屋なんて――。って、どうしてあたしがここまで気にしなくちゃならないんだ。
 寝よう。寝よう。その前にシャワーを浴びよう。
 そっと寝室を覗いてみると、確かに大きなベッドの左側に横になっている見吉くんがいた。規則正しい寝息が聞こえる。疲れてたのかな。今日は女の子達の相手をずっとしてたし、気疲れしたのかもしれない。それに明日も早いって言ってたから、きっと今日も朝早くから仕事をしていたんだろう。どんな仕事かなんて知らないけど、あたしが思ってるよりも大変なのかもしれない。
 起こさないようにそっと寝室に入ると、クローゼットを開けてみた。綺麗に並べられたシャツやスーツが並べられていて、下に私服が入っているカゴが置いてある。あたしはそのカゴからジャージの上下を見つけ、それを借りることにする。さすがに男物だし、体格差もそれなりにあるから大きいけど、何もないよりはマシだろう。きつく縛ればずり落ちることもないだろうし。
 バスルームも広くて快適で、あたしは気持ちよく体を洗い流せた。タオルも洗面道具もきちんと並べられていたのを思うと、意外に几帳面なのかも。あたしとは正反対だ。
 それにしても変な人だ、彼は。紳士的な人かと思えばいきなり横暴なことを言ってくる。それでもあまり嫌な気分はなくて、そりゃ腹は立ったけど、こうして言う事を聞いてしまっているあたしがいるのも事実だ。どれが本当の見吉くんなんだろう。
 気づけば、あたしはお湯に浸りながらずっと彼のことを考えていた。
 バスルームから出てジャージに着替え、髪を乾かした。洗面所から新しい歯ブラシを勝手に開けたけど、どうってことはないだろう。さすがに彼が使っているものを使えるわけがないのだから。そうこうしているうちにあたしも何だか眠くなってきて、そのままフラフラと寝室へ入った。見吉くんは寝相が良いみたいで、さっき見たときとほとんど動いていない状態だった。その隣に潜らせてもらう。
 ああ、なんだか気持ちいい。布団もふわふわして、きっと几帳面な見吉くんだからマメに干したりしているんだろう。部屋は生活感なんて見えないのに、こういうところで感じられるのが可笑しかった。
「んっ……? 遙……」
 不意に、擦れた声で名前を呼ばれて驚いた。起こしたのかと思って慌てて振り向くが、見吉くんはの目は閉じられたままで、寝言かとほっと胸を撫で下ろす。
 だけど次に彼の腕が伸びてきて、あたしの体を引き寄せていた。
「え、ちょ、見吉くん!?」
 焦って体を離そうとするけど、寝ている無意識の人の力に加減なんてなくて、そのままぎゅっと抱きしめられる。トクトクと彼の鼓動が聞こえて、あたしの心臓は激しく鳴る。本当に寝てるのかと疑わしくなって顔を上げるが、やっぱり彼は寝ているのだ。目を閉じたまま寝息を立てている。
 それにしても、遙、って。今まで「緒方さん」としか呼ばなかったのに、不意打ちなんて、無意識なんて、反則じゃないか。
 っていうかこんな状態であたしが眠れるわけもない。あたしが起きれなかったら困るのは見吉くんなんだからねっ!