モーニング・キス

act1.3


 トーストと、ベーコンを敷いた卵焼き、ポテトサラダにプチトマトを添える。冷蔵庫からバターとジャムを取り出して、コーヒーを入れたカップも一緒に並べれば、うん、完璧。テレビと向かい合うように掛けられた壁時計を見ると、そろそろ約束の6時になろうとしていた。
 昨夜あたしは一度ベッドに潜り、なぜか見吉くんに抱き枕状態にされてしまった。おかげであまり寝られなかったけれど、彼のあたしを抱く腕の力はすぐに弱まり、ここぞとばかりに抜け出したあたしは、結局リビングのソファで眠ったのだ。客人に、しかも女性にソファで寝させるってどうよ、と思わないでもなかったけど、見吉くん自身にそんなつもりはなかったと分かっているので文句の言い様もない。仕方ないので、かなり早起きして朝食まで作ったというわけだ。まあ、料理なんて得意じゃないから、見栄えだけを頑張ってみた。
「見吉くーん、時間だよー」
 寝室のドアをノックして、返事がないことを確認してから部屋に入る。見吉くんはまだ夢の中の住人のようだ。本当に起きないんだな。相当疲れが溜まっているのかもしれない。あたしはベッドに近づき、彼の体を揺することにした。
「見吉くん、朝だよ、6時だよ。起きなきゃいけないんでしょー」
 ゆさゆさ。何度か肩を揺らすと僅かに彼の眉が動いた。
「ん、緒方さん……?」
 ゆっくりと目を開けた見吉くんは一瞬不思議そうな顔をして、すぐに「ああ」と納得したように微笑んだ。完全に忘れてたな、昨日の事。あたしは少しムッとしながらも、起き上がる見吉くんから体を離す。っていうか、緒方さん、に呼び名戻ってるし。じゃあ昨夜のあれは何だったんだ?
「朝ごはんあるけど、食べる?」
「あ、マジで? 嬉しい。着替えたら行くよ」
 少し驚いて、微笑む見吉くんは、やっぱりカッコイイと思った。っていうか顔のつくりが違う気がする。中学の時はきっと眼鏡をかけてたからその顔立ちに誰も気づかなかったんだろう。眼鏡ってそれだけで与える印象を変えるからね。
 見吉くんがベッドから降りるのを横目に、あたしは部屋を出ることにした。あ、そうそう。
「勝手にジャージ借りたけど、洗って返した方がいいよね?」
 ドアノブに手を掛けながら振り向きざまに聞いてみた。見吉くんはきょとんとした表情を浮かべたが、すぐに「いや」と首を小さく振った。
「どうせだし、洗濯機に放り込んでくれるだけで良いよ」
「あ、そうだね。ありがと」
 その方があたしとしても助かる。軽くお礼を言って寝室を出た。
 うーん。見吉くんが優しい。彼女になれとか6時に起こせとか、そういうことを平然と言ってきた人とは思えないくらい、起きた時とか、あの微笑みは優しかった。よく分からない人だ。――でも、嫌いじゃないかも、なんて思うあたしはどうかしているのかもしれない。きっとあの微笑みにやられたんじゃないだろうか。
 一度シャワーを浴びに行った見吉くんは、昨日とは違ってきっちりとスーツを着こなした姿でもう一度リビングに現れた。先に席に着いていたあたしの真向かいに座ると、テーブルに並べられた形だけの朝食に感心した表情を浮かべた。一応テーブルの端に朝刊の新聞も置いてみたけれど、見吉くんはそこには目もくれなかった。
「うわ、すげぇ。これ緒方さんが作ったの? 全部?」
 そこまで感心された声を出されると、返って恥ずかしくなる。あたしは笑いでそれを誤魔化しながら食べるように促した。
「簡単なもので悪いんだけど」
「そんなことないよ。俺、朝は面倒くさくて食べないんだ、普段。だからすごく嬉しい。いただきます」
 あたしも普通はコンビニでパンやおにぎりを買うだけで済ましてしまうんだけど。なんだか少し悪い気がしてきた。これも見栄っ張りというんだろう。とにかくあたしも小さく「いただきます」と呟いて、食べることにする。あたしの好みの味にしてしまったけれど、口に合っているだろうか。
「卵、固焼きになってるけど、大丈夫? 半熟とか作れなくて」
 ばくばくと食べる見吉くんを見てたらそんなことは関係ないと思えても、つい聞いてしまう。案の定彼は何てこのないような顔で笑みを浮かべた。
「美味いよ、これ。このサラダも」
「良かった」
 それを聞いてあたしも自然と笑みが零れた。良かった、安心した。せっかく作ったのに嫌いだからって食べてもらえないのは悲しいもんね。あたしは基本的に嫌いな物ってないから、家族の中でもあたしだけが最後まで食べていた。父も兄弟も好き嫌いが結構激しかったから、母からはよく褒めてもらっていたっけ。
「見吉くんって嫌いなものとかあるの?」
 ふと思って何気なく聞いてみた。この食べっぷりからすると無さそうだけど。もうトーストも卵焼きも食べ終えている。
「特にないけど、強いて言えば酢豚のパイナップルとか、サラダに入ってるリンゴとか」
「あー、なんか分かるかも。何でコレに入ってるんだぁってなる感じ?」
「そうそう。意味分かんねぇし」
 そう言って本当に顔を歪ませる見吉くんは、意外に子どもっぽいかも。そういうところが可愛く見えるのは気のせいじゃないはずだ。
「でもどうして? あ、今度もまた作ってくれるんだ?」
「いや、そういう意味で聞いたわけじゃ……」
 答えながら、でもこういう質問の裏としては考えられないこともないと思えた。でもあたしは別に見吉くんの彼女でも何でもないんだから、今度、なんて有り得ないだろう。ってか、そうそう休日出勤のたびにこんなことをしないといけないなんて、考えただけでも疲れる。
「いいじゃん、作ってよ。昨日みたいに泊まってさ。家も近いんだろ?」
「そりゃ近いけど」
 家が近いとか、そういう問題でもないと思うんだけど。というか、昨日の見吉くんに復活してない? これが見吉くんの素なのかな。たぶんあの優しい笑みも本物なんだろうけど、言動と合ってないように思えて仕方がない。
「じゃあ問題ないな。あ、俺もうそろそろ出るけど、どうする? 一緒に出る?」
 気づけばすでに見吉くんの皿は全てが空になっている。コーヒーまですっかり飲み干していた。いつの間に……。あたしも慌てて残りを詰め込むと、食器をまとめて席を立った。
「ああ、いいって。帰ってから片付けるから」
 あたしが食器をキッチンへ運ぼうとするのを、見吉くんがあたしの手に彼の手を重ねて止めた。意外に大きな手に握られて、朝からあたしはドキドキする。不意打ちで触らないでほしいなぁ。あたし、こういうことに免疫皆無なんだから。
「そうだ、日曜に早速泊まってくれない? 月曜から頼むよ」
 玄関であたしが靴を履いていると、そんなセリフが頭から聞こえた。思わず「えっ」と顔を上げるとドアを開ける見吉くんの横顔が見えた。
「はぁ? ちょっと待ってよ。なんであたしが」
 急いであたしも玄関を出ると、鍵を閉める彼の背中に向かって反論してみる。冗談でしょ。どうしてあたしがわざわざそんなことをしないといけないの。
「だって緒方さん、俺の彼女だろ? 泊まるくらい普通のことだよ」
 へ? いつあたしは見吉くんの彼女になったの?
 え、まさか、朝食作って起こしたから?
 分からなくて驚いていると不思議そうな顔をした見吉くんがこっちに振り向いて首を傾げ、ああ、と納得した声を上げた。
「ごめん、“緒方さん”じゃ他人行儀だな。遙って呼ぶよ。俺のことも遼佑でいいからさ」
 いやいや、そういうことじゃないでしょう。何に対して謝ってんだ、この人は。
「そうじゃなくて、ご飯作って起こすだけなら彼女じゃなくても、家政婦さん雇えばいいじゃない。あたしは見吉くんの彼女でも家政婦でもないのに」
 そうだ、いいこと言ったぞ、あたし。
 けれど見吉くんは表情を一つ変えないで、「なんだ、そんなことか」とでも言いたげに分かったふうな顔をした。
 そして。
 小さく音を立てて見吉くんはあたしにキスをした。重ね合わせるだけの簡単な口づけだ。
「遙は俺の彼女だよ。家政婦にこんなことしない」
 それから蕩けるくらい甘い笑みを浮かべてあたしの髪をくしゃっと撫でた。
「なんだったらこれ以上のこともするけどね、遙が良いなら」
「なっ!?」
 朝から何を言ってるんですか、この人はっ。ていうかこれから出勤する人の口から出る会話じゃなないような気がするんだけど。むしろさっきのキスだって玄関先でやるようなことでもないと思うけどねっ。
「とにかく日曜、ちゃんと来てくれよな」
 そう言って再び、今度は額に軽く唇を押し付けてきたかと思うと、先にエレベーターの方へ歩き出した。しばらく呆然としていたあたしは、慌てて彼のあとを追いかける。勝手に置いて行かれたら困るのだ。まだあたしは駅までの道を覚えていないんだから。
「ちょっと待ってよ、遼佑くん!」
 思わず出てきた言葉に、エレベータの中で待っていてくれていた彼は満面の笑みを向けた。