モーニング・キス

act2.1


 インスタントコーヒーの香りは落ち着く。マグカップに注いだ温かなそれを嗅覚で楽しみ、あたしにとって味覚はそれほど重要な癒し効果にはならない。けれど体の中から温まるその感覚にほっと息をした。
 同窓会があったのは一昨日の金曜日の夜で、自分の家に帰ってきたのは土曜の朝で、今日は日曜日だ。一日が目まぐるしく過ぎた感じが未だに抜けないのは、自分の身に降ってきた状況の変化が激しすぎたからだろう。半強制的な成り行きとはいえ、生まれて25年目にして初めて人のカノジョという立場になってしまったのだ。言い換えればあたしにカレシができたということでもある。
 ……とは言っても、たったそれだけのことなのだけれど。
 同窓会のために途中で切り上げて持ち帰った仕事はまだ残っている。土曜日は彼氏・彼女という関係の成立についてショックが大きかったためか中々集中できずに、予定では今日はのんびりするはずだったにも関わらず朝からパソコンに向かう羽目になっていた。で、何度目かの休憩がてらにコーヒーを入れたわけなのだ。というか、今日も集中なんて出来ていないのであまり進んでおらず休憩している場合でもないが。
 ふと携帯電話を手にとって時間を見る。もう少しで午後に変わる頃合だ。夕方にはまた彼の所へ行くことになっていた。大して親しくもなかったはずの彼、見吉遼佑という男は当時の面影を忘れてしまうほど変貌していた。性格とか内面のことは分からないけれど、とにかく外見の変わりようは誰もが驚くもので、あたしは言われるまであの見吉くんだとは気づかなかったほどだ。それに加えて偉そうな口ぶりにも驚いた。いきなり「彼女になれ」だの「朝になったら起こしてくれ」だの言う人なんて、彼くらいなものだろう。まぁ、それに付き合ってしまう自分自身にも驚いたし、正直呆れてたりするんだけど。でもメンクイな傾向があるあたしとしては嫌な気分じゃなかった。それだけが救いかもしれない。
 なんて物思いに耽っていると、不意に着信音が部屋に鳴り響いた。サブディスプレイに表示されている名前に目をやれば、それは珍しい人からで、思わずマグカップをテーブルに置いて両手で携帯電話を握り締めた。

「いやー、悪いねぇ、付き合わせちゃって」
 全く悪びれた様子も見せず、純はそんなことを平気で口にする。両手に紙袋を抱えた彼に続くあたしも同じような状態だ。むしろ女のあたしの方がこくな状況じゃないだろうか、これって。
「いいけどさ、後で奢りだからね」
 次の店が最後だと聞いていたので、ケーキセットの奢りを条件にあたしはにっこりと微笑んで見せた。
 目の前を歩く一見爽やかそうな顔つきの彼が、ついさっき応援の電話を寄越した張本人、辻純である。あたしとは一応いとこ同士という血縁関係にあるのだけれど、それよりも幼馴染みと言った方がしっくりくる気がする。小さい頃からの付き合いでそれこそ毎日のように一緒に遊んでいたが、お互いに学校生活が中心になってくると自然と会う機会も減っていった。だからと言って親戚という間柄上疎遠になどなるはずもなく、今もこうして気兼ねなく連絡し合える仲だ。純の方が二つ年下なのに、今では弟というよりも親友という感じさえする。
 純は専門学校を卒業後、講師のコネでアパレル関係の仕事に就いた。と言っても店頭で衣類を販売するだけではなくて、主に雑誌やテレビ、映画などで使う衣装を用意したり、こうして調達したりすることもある。今回もそれで、自分の店の物をいくつかセレクトすることもあるが、大抵はこうして色々な店を回って買い取ったりする。その方が組み合わせのバリエーションに格段の違いがあるのは素人のあたしからしても分かることで、短時間で大量の衣装を用意するには人手が必要だということも分かりきったことだった。だから今回が初めてだとか特別だとかいう事はない。それでも純も一応気を使ってくれているのか、よっぽどでない限り応援の連絡は寄越さないし、寄越すとしても会社が休みの土日のどちらかだ。
「じゃあオレ、一度スタジオに戻るから、また電話する」
「ケーキセットはいつでもいいからね」
「はいはい。今日は助かった。ありがとうな」
「いえいえ」
 最後の店を出た後、純はあたしから紙袋を全て受け取ると、タクシーを捕まえて足早に去っていった。それを見届けるとあたしも帰ろうと体の向きを変えた。時間を確認するとそろそろ夕刻時。ケーキセットはまた今度だな、と足を速める。そろそろ準備をしなくては間に合わない気がする。彼はなんとなく、時間には煩そうだし。残った仕事はしょうがないけれど、遼佑くんの家でやらせてもらおう。こんな時、デスクではなくノートタイプを選んでいて良かったと心底思う。
 ……あれ、あたしってパシリ体質?

 泊まりということも考慮して準備した荷物は、思いのほか多くなってしまった。その重量の大半が仕事用の資料とノートパソコンのせいなのだから仕方がないのだけれど。これを持って彼のところまで行くのは自分の体を酷使するだけな気がする。
「服と下着と化粧品は必需品だし。タオルや洗顔は貸してもらうとして。……これ以上何を減らせばいいの?」
 とりあえず会社へは一度こっちに戻ってから行くことにしたからスーツを入れていないだけマシだろう。それでも小旅行にでも行く勢いのこの荷物は重い。理想としては「チョット行ってくる」くらいな感じにしたいのに。うーん。
 考えあぐねた結果、パジャマだけを抜いてそのまま行くことにした。寝るときはまたジャージを貸してもらおう。一度借りてるし、それくらいは許容範囲だろう。さすがに着替えの服を取り除くことは躊躇われた。そこまでしてしまうと女として疑問を抱かれそうだ。
 よし、と気合を入れて立ち上がる。今から行けば夕飯に間に合いそうだ。そこまで求められているわけではないけれど、せっかくなので一緒に食べようと思った。
 一度行ったことがある場所の風景はなんとなく覚えている。だから少し迷いつつもなんとかたどり着くことが出来た。やはり改めて見ても遼佑くんの住むマンションはやはり“マンション”というだけあって大きい。働き始めて初めてわかることだ、この感動は。まだ入社して数年しか経っていないのに、どこからそんなお金が出てくるのだろう。何となく親の脛だとは思えないのが怖い。あたしは押し寄せる緊張感を宥め、エントランスへ入った。確か彼の部屋は8階だったはずだ。エレベータに乗り込んで一昨日の夜を思い出す。そうそう、彼の部屋はエレベータの近くにあった。
 玄関の前まで来たあたしはゆっくりと呼吸を整えてチャイムを鳴らした。少しの沈黙がとても長く感じる。自分が思っている以上に緊張しているのだろうか。どうして? ――そんなのは愚問というやつだ。
「はい?」
 インターホン越しに彼のくぐもった声が聞こえた。一瞬どきりとする。心の準備もしてきたはずなのに。
「あ、緒方、です」
 声は上ずっていなかったろうか。そんなあたしの小さな不安をよそに、彼は「ああ」と呟いた。
「開いてるから、入って」
 そうして切れる音がした。おずおずとドアノブに手を掛けると、簡単にドアが開く。……無用心じゃないか? いくら留守じゃないとしても。
「お邪魔しまーす……」
 小さく声を出すと、ちょうどリビングから遼佑君が姿を現した。この前とは違って薄い長袖にジーンズというラフな格好に、今日は休みなんだと分かった。いや、日曜なんだし休みなのは普通なんだけれど、どうしても土曜のことがあって彼に1年中働きっぱなしのイメージを持ってしまっていた。というかそれにしても、見た目かっこよくなった彼はスーツ姿だけでなく今のような格好でも様になるんだ、とまた違う感動をする。そういえば身長は昔から高かったっけ。
「どうぞ? ていうか今度から勝手に入っていいから」
 持つよ、とあたしから荷物を取ると、代わりに小さな何かを握らされた。
 え。これっていわゆる、合鍵、ですか。
 あたしが呆然とそれを眺めていると、不思議そうな彼の声が聞こえた。あたしは慌てて靴を脱いで彼の後に続いてリビングへと向かった。
 合鍵を渡されたってことは、今度から勝手に入れってことは――あたしは彼の目覚まし時計にされたってこと!? ……なんかそれって複雑だ。あたしは遼佑くんの恋人じゃなかったの? 彼氏・彼女と恋人はイコールで結ばれてないの?
 そういえば付き合えだの彼女になれだのと言われはしたけど、好きだとか愛してるの一言は何もない。ああ、結局はそういうことなんだろう。なんだか舞い上がってた自分がバカみたいだ。じゃあどうして家政婦に、目覚まし時計にキスなんかするんだよ、バカ野郎。