モーニング・キス

act2.2


「やけに重い荷物だな」
 リビングまで運んでくれた遼佑くんは、それをソファの上に降ろすとそんな感想を述べた。言外に何を持ってきてるんだと聞きたいのだろうか。
「あたしもちょっと仕事溜まっててさ、間に合いそうもないから持って来たんだけど」
 というか間に合わなくなったもともとの元凶はアナタなんですけどね。なんてことは口が裂けても言わないけれど。
 すると彼は驚いた表情であたしの方へ振り向いた。もしかしたら呆れられたのかもしれない。
「なに、遙、ここで仕事するの?」
 嘘だろ、と言わんばかりの口ぶりに、あたしは少し睨みつけてやる。
「しょうがないでしょ。昨日と今日で色々あって、時間なかったんだから。大丈夫よ、朝はちゃんと起こすし」
 まぁ今日の昼に純の助っ人を受け入れてしまったのは失敗だったかもしれないけれど、純の頼みは本当に珍しいからそれを言い訳にはしたくない。それでも、そのことがなければもっと少ない量を持ってくるだけで済んだのに、と思わずにはいられないのは、あたしの心の狭さゆえだ。
 やるべきことはちゃんとやるんだから、と言ったあたしに遼佑くんは思い切り溜め息を吐いた。どうしてそんな態度を取られないといけないのかあたしには分からない。目覚まし時計の役は引き受けているんだから文句なんて言われる筋合いはないはずだ。
 そんなあたしの気持ちを知ってか知らずか、遼佑くんは「あのさ」と落ち着かせるように静かに口を開いた。
「俺は別にそこまでしてほしいわけじゃないよ。遙の負担になるんだったら朝は自分で起きるし、飯も一人で食う」
「……なに、それ」
 できるのならあたしは要らないじゃない。ていうか今までできてたんだからあたしはもともと不要で、あれば便利だな程度の存在でしかないってことだ。なんだか、それって、すごく惨めじゃない? あたしがここに居る必要なんて全然ないのに。
「だからなんていうかさ、そうじゃなくて」
 遼佑くんは言葉を探すように額に手を当てて、考え込むように前髪をかき上げた。
「無理はしてほしくないんだ。俺が強く言ったから来てくれたんだと思うけど、それで遙に何かあったら元も子もないだろ?」
 それはどうとでも取れるような言い方だったけれど、あたしは良い方に考えるようにした。そうでもしなければこの苛立ちを抑える術をあたしは知らない。捻くれたって何も良いことはないだろうし。だから彼は。
「心配してくれてるんだ……よね?」
「当たり前だろ」
 彼は前髪をかき上げていた手を下ろし、少し目を細めて睨みつけるようにあたしを見る。それでもその瞳は優しく思えて、あたしは自然と笑みを浮かべていた。当たり前に心配してくれたのが、とても嬉しかった。
「ありがと。でも大丈夫。迷惑はかけないから」
「だからそうじゃなくてっ」
「いいの、いいの。これはあたしの仕事なんだし。ていうかこんなことしてる場合じゃないのよ。早く終わらせなくちゃ」
 あたしがそう言って荷物から資料とパソコンを取り出すと、横で今までで一番の溜め息をこれ見よがしに吐かれた。
「その前に飯だ、飯。外で食うぞ」
 突然そんなことを言われて「はっ?」と呆けいている間に、あたしは遼佑くんに玄関の外まで連れられていた。ガチャリと鍵の掛かる金属音を聞いてようやくその事に気づいても、既に遅し。
「仕事もいいけど腹ごしらえは基本だろ」
「え、あ、うん……」
 もしかしてあたしがお腹を空かせている事に気づいてた?

 車に乗って着いたところは至って普通のファミリーレストランだった。外食だっていうから身構えしていたので、少し拍子抜け。でもあたしとしてはこっちの方が気兼ねしなくて、ほっとしたというのが正直な感想だった。
 日曜の夕方ということもあってそれなりに混雑していたものの、それほど待たずに案内されたのは窓際の席だった。今日は何だかんだとラッキーなのか知れない。
「もっと洒落たフレンチレストランとかだったらどうしようかと思った」
 向かい合って座り、メニューを広げながらあたしがそう冗談めかしながら言うと、遼佑くんはムスッとした表情で「悪かったな」と頬杖をついた。
「俺はそういう店に縁はないんだ」
 それはそれで意外だったり。あたしは驚いて思わずまじまじと彼を観察してしまう。縁がなさそうには見えないけどなあ。昔の地味さが残っているならともかく、今は別人のように華やかな顔立ちを堂々と見せているのに、女の子たちが放っておくはずがなさそうなものなのに。
「そういえば眼鏡はもう掛けないの?」
「まあな」
 この前も思ったけど、きっと中学の頃は眼鏡があったからこのカオに誰も気づかなかったのだ。もちろん雰囲気も違う気がするけど、当時の彼が持っていた雰囲気というのはあたしの中のイメージでしかないので当てにならない。それよりも、やっぱり外見というのは人の見方をこうも変えてしまうものなのかしら。
「どうして? あれってダテだったとか?」
「違う。ただ要らなくなっただけ」
 ということは視力が良くなったということ? でも視力って上がるものなんだっけ?
 あたしがキョトンとしていると、余程間抜けな表情をしていたのか、仕方なくといった感じに遼佑くんは説明してくれた。
「確かに乱視の近視で眼鏡はずっとしてたけど、俺の場合は成長するに合わせてズレてる焦点が元に戻っていくんだ。だから視力が特別悪いわけじゃないし、高校に上がる前にはもうほとんどしてなかったよ」
「ふぅん」
 そこでちょうど会話が途切れたので、さっさとメニューを決めて店員さんを呼ぶことにした。遼佑くんはステーキ定食、あたしはカルボナーラを頼んだ。
「俺も質問あるんだけど」
「うん、何?」
「遙って何の仕事してるの?」
「何って普通のOLだよ。製薬会社で事務作業の毎日。発注商品の管理とか、過去のデータの整理とか」
「へぇ」
 自分から振って来た話題にも拘らずそれほど興味もない様子で彼は相槌を打った。なんだ、その態度は。
「遼佑くんこそ何してるのよ?」
 負けじとあたしも問い返すと、やはりどうでもよさげに答えた。
「俺も普通のサラリーマンだよ」
「分かった、営業課でしょ。外回りとかで大変なんだ」
 なんとなく机に向かっている彼を想像できなくてそんなことを言うと、遼佑くんは少し驚いた表情をして、だけどすぐにニヤリと嫌な笑みを見せえた。
「営業は花形だもんな」
「なんだ、違うの」
「似たようなものだけどね。まぁいろいろ」
 答えになっていないことはこの際置いておこう。そうして、やってきた夕ご飯にあたしたちは揃って手をつけることにした。

 遼佑くんの部屋へ戻ると、あたしはパソコンを起動させ、彼はバスルームへと向かった。今のうちに持ってきた資料を全て打ち込まなければ今夜は徹夜しなければならなくなりそうだ。よし、と気合を入れてあたしは集中する。集中するにはこの部屋は最適だったかもしれない。必要なものしかないこの空間は、ついファッション雑誌や読みかけの小説といった類の余計な誘惑がない。一段落ついた頃にはとっくに深夜と呼ばれる時間帯になっており、既にシャワーを浴びた遼佑くんは寝室で夢の世界へ旅立っていっていた。
 あたしもシャワーを浴びて、以前の時と同様にクローゼットから出してきたジャージに着替え、少し迷ったがやはり寝室に入ることにした。やっぱり客人をソファへ寝かせるのはどうかと思うのよ。だから叩き起こしてでも遼佑くんにソファでの睡眠を譲ろうというわけだ。
「……遙?」
 ドアを開けた瞬間名前を呼ばれ、あたしは思わず硬直した。だってまさかまだ起きているとは誰も思わないではないかっ。
「ごめん、起こした?」
 入りかけた足を引っ込め、そっと伺うように尋ねれば、「そうじゃない」と眠そうな声が返ってきた。
「何してるの? 入れよ」
「あ、はい」
 眠い時の人間とはどうしてこうも不機嫌になるのだろう。あたしは不自然に敬語で返事をしてしまい、そんな自分に顔を顰める。それでも恐る恐るといった感じでベッドへ近寄って行く動きはどうしようもない。例え悪意がなくとも不機嫌な声を出す彼は本当に怖いのだ。これではとてもソファで寝てほしいなんて言えない。
「遙」
 ギシッとあたしの体重でベッドが少し沈む。それは自然なことのはずなのに、同時に名前を呼ばれただけで心臓が凍るようにどぎまぎしてしまうのは、きっと致し方ないことだ。
「な、なんでしょう?」
 眠いなら早く眠ってくれ、と切実に願う。
 そろそろと布団の中へ潜ると、彼に背を向けていたはずなのに体を勢いよく抱き寄せられてしまった。彼の腕があたしの体の前で交差し、足も絡まれたために身動きが出来ない。
「遙、純って誰?」
 耳元に掛かる息に、あたしの心臓は壊れるくらい高速に高鳴る。