モーニング・キス

act2.3


 ジュンッテダレ。
 体が密着しているこの状況に意識が行き過ぎて、その言葉の意味を理解するのにだいぶ時間が掛かったような気がする。
「じゅん……、純は、幼馴染みというか友達というか」
「それだけ?」
「う、うん」
「へぇ」
 なに、なに、何なのよ!?
「っていうか急にどうしたの? 純のこと言ったっけ?」
 ファミレスで純を話題にした記憶はなかった。でも何かの弾みで言っていたかもしれない。それならそれで、どうして今この場になって言うのか分からない。というか遼佑くんが何を考えているのかなんて、分かった例がないんですけど。
「……別に」
 そう呟いたかと思うと、そっと腕は解かれて彼の体が離れていったのが分かった。
 何だったのだ、今のは。
 あたしはドクドクと落ち着かない心臓を宥めるように、自分自身を抱きかかえるように丸まって目を閉じた。とりあえず持ち帰った仕事は全て終えたのだし、あとは早く起きて朝ごはんの支度と、遼佑くんを起こしさえすれば――。


 土曜日の朝は洋食風だったので、今日は和食風に仕上げてみた。白ご飯と、味噌汁と、卵焼きと、焼き魚と、お漬物。お茶は麦茶で、先ほどコンビニから買ってきた。なぜなら調味料も料理機具も食材も結構揃っているのに、飲み物と言ったら缶ビールと水しか入っていなかったのだ。これにはさすがのあたしも「何でやねん」と関西弁でツッコミそうになった。
 一人暮らしなのに新聞を取っているのは社会人としての嗜みなのだろうが、この前テーブルの隅に用意していたけれど触れずに出て行ったことを考えると、今日もわざわざ用意しなくてもいいのだろう。だから新聞はダイニングテーブルではなくてソファの前に置かれているテーブルの方に置いておく。一通り見回して、準備はできた、と寝室の方へ目を向ける。
「遼佑くん、起きる時間だよ」
 ノックもせずにドアを開け、声を掛けながらベッドへ近づいていく。もぞもぞと布団の中で動く遼佑くんはそれでも起き上がる気配を見せない。これって毎朝子どもを起こすお母さんみたいだ、などと少し可笑しく思った。
「遼佑くーん?」
 体を揺するとようやく彼の重たい瞼が静かに持ち上がる。半分開かれた目はしばらく宙を漂い、あたしの視線を捕らえると何度か瞬きした。
「ああ、おはよう」
 寝起きの遼佑くんの声は少し擦れて色っぽい。
「おはよう。朝ごはん作ったから早めに食べてね。お味噌汁は冷めたら美味しくないの」
 体を起こす彼にあたしがそう言うと、ん? と不思議そうな顔で遼佑くんがあたしを見上げる。
「遙も一緒じゃないのか?」
 それが至極当然のように聞く彼にあたしは少し苦笑する。
「あたしは先に戻るから。それに一人の方がゆっくりできるでしょ」
 会社へ行く準備をしてきていないことを伝えると、遼佑くんは渋々といった感じで頷いてくれた。
 あたしが戻る支度を終えた頃に着替え終わった遼佑くんが寝室から出てきた。きっちりとネクタイを締めながら現れた彼は、やはりカッコイイなと思ってしまう。さぞ女性社員の心を掴んでいることだろう。そういえば眼鏡は高校に上がる前にしなくなったと言っていたっけ。
「高校時代からきっとモテたんだろうね」
 思わず声に出してしまい焦るあたしに、彼は気にするふうもなく一瞥しただけだった。
「それよりこれからは少しずつここに荷物とか置いていくようにしろよ。そしたら遙もこんなふうにバタつかなくて済むだろ」
「そうね、考えておくわ。じゃあ、またね」
 律儀に玄関まで着いてきた遼佑くんに返事をする。振り向きざまに軽く唇を押し当てられた。驚きすぎて思考も体も硬直する。
「じゃ、明日もよろしく」
「あ……、はい」
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
 なに今の。
 ドアの閉まる音を背中で聞きながら、そっと指で自分の唇をなぞる。彼の感触がまだ残っている気がした。
 なんだ今のは。
 驚きつつ、しかし呆けている場合ではない、とぎくしゃくした足取りであたしは自分のアパートまで急いで戻った。
 スーツに着替え、バッグに荷物を詰め替えていく。あたしの朝ごはんはコンビニのおにぎりでいいか。早めに着いて食べておこう。そんな逆算をしながら体を休ませることなく動かし、必要以上に慌しく家を出て駅へ向かった。
 朝の満員電車ほど嫌なものはない。この空間に関してだけはいつまで経っても慣れることなどないだろうと確信している。だからなるべく普通電車で通える範囲でのアパートを探したのだった。遼佑くんの部屋から通うとなると余計に混雑する快速電車を乗ることになるのだろうか。……それはないな。うん。
 そんなことを考えていると、ふと携帯電話が震えているのに気づいた。資料の入った鞄の奥から取り出せば純からのメールが来ていた。
『昨日は本当に助かった。電話したら仕事中だったみたいだけど、ちゃんと終われたか? オレのせいで長引かせたんならまじでゴメン。ケーキセットは次の日曜日に絶対奢るから! ってことで彼氏によろしく』
 不意に夜の遼佑くんの声が蘇った。
――純って誰?
 あたしの頭の中で全てが繋がった気がして、同時に怒りが沸いてきた。
 許せない、見吉遼佑!

 朝から苛立っていたあたしは、これではだめだと、早々に給湯室で休憩を取っていた。コーヒー一杯でも飲んで落ち着かなくては仕事にならない。
 するとそこへ同僚の加島さんがやってきた。どうやら誰かからお茶汲みを頼まれたらしい。あたしが居るのを見つけると、文句を言いながらもテキパキと準備を進めていく。その動作は慣れたものだった。
「あ、どうでした、同窓会」
 彼女はふと思い出したように聞いてきた。途端に遼佑くんのことが頭に浮かび、落ち着き始めた苛立ちがふつふつと復活しそうになる。仕方なく苦笑いを浮かべた。
「相変わらずでしたよ、皆。でも変わる人は変わるものですねぇ」
「あぁ、分かります。そこが同窓会の醍醐味みたいな感じですかね」
 加島さんとは休日も一緒に遊ぶというほど仲が良いわけではなかったけれど、話しやすい雰囲気で男女関係なく好感を持たれる人だ。だからかもしれない。あたしは唐突に彼女に相談してみようかという気になった。こんなこと、遼佑くんのことを知ってる朋子には絶対に言えないし。
「そういえばその時に話題になったんですけど」
 と、白々しく前置きをして、あたしは平静を保つためにカップに一口付ける。
「加島さんは彼氏のケータイを見たりします?」
 突然の質問に驚いたのだろう。彼女は一瞬目を大きく開いてあたしの方をじっと見つめ、その真意を確かめようとしているふうにも思えた。そんなに驚かれるほどのことを聞いたつもりはなかったのだけれど。
「……普通は女の人が彼氏のケータイを見る見ないで揉めるでしょ? 友達は逆に彼氏に電話を取られたらしいんですよ。知らない間に電話に出られたっていうか。そういうのってどうなんだろうっていう話になって」
 あまりにもじっと見られ続けたので、あたしは焦るあまり余計な言い訳を口にしてしまった。
「あたしはそういうの無理なんですけど、結構見るっていう人が多くて。他の人はどうなのかなって思ったんですけど……」
 バカかあたしは。こんなこと言ったって自分のことだってバレルに決まっているのに。それでも動かした口はなかなか止まってくれなかった。もう一度カップを口に付けてコーヒーを流し込む。ちょうど良い苦さが少しだけ歯止めを利かせてくれそうな気がした。それはただの願いだったかもしれないけれど。
「私は気になるのを我慢する方ですね。どうしても我慢できない時は直接聞きます。誰からだとか。どうしたの?って」
「でも勝手に電話に出るのは反則ですよね」
「そうですね。一応プライバシーってものがありますよね。気になるのは相手に何かしらの不審感があるからでしょうけど、知らない間に見られたりするのって単純に怖いですよね」
 彼女はそう言って、お茶を入れたコップを持って給湯室を後にした。あたしもそろそろ戻らないといけない。
 それにしても、と加島さんの言葉を思い出す。――不審感、か。
 でも反則は反則だ。あたしはカップを水洗いしながら今夜遼佑くんに言うべきことを考えていた。

 少しだけ残業をして、アパートに帰ったのは夜の8時過ぎだった。それからスーツから楽な服装に着替え、お泊りセットなるものを用意して遼佑くんのマンションへ向かう。夜ご飯はどうしようかとも思ったが、今日はちゃんと作ろうと思う。朝ごはんのように手抜きは出来ないだろうなと不安に思いながらも、とりあえず自分が出来るレパートリーを思い出していた。
 合鍵を取り出してドアを開けると、既に彼の靴があった。あたしは「お邪魔します」と声を掛けながらリビングへ向かう。返事はなかった。
「遼佑くん、帰ってるの?」
 言いながらリビングのドアを開けると、電気は確かについているのに誰の姿もない。シャワーだろうかとバスルームのドアを手にかけたが、鍵は開いていたし電気もついていなかったので、お風呂に入っているわけでもなさそうだ。トイレも電気は消えていた。もちろんキッチンにも居らず、どこだろうと寝室へ向かおうとして、気づいた。大きな体を横にしてソファで寝ている男が一人いた。気持ち良さそうに眠る彼は既にスーツではなく、今日は帰りが早かったのだろう。
 あたしは起こすことはやめて、夜ご飯を先に作ることにした。今日はチャーハンとワカメスープ。でも彼が見ていないのならインスタントでも良かったかもしれない。盛り付ければむしろそっちの方が美味しく見えるのに。
 などと打算的なことを考えつつ料理を終え、それでも遼佑くんは起きる様子を見せないので、シャワーも先に浴びることにする。まるで自分の家にでもいるような感覚だけれど、彼は眠っているのだから仕方ない。起こすのはシャワーから出た後でも遅くはないはずだ。
 いろいろと文句を考えてきたのに、これでは空振りもいいところ、見事拍子抜けである。知らず溜め息が出る。でもこの方が良かった気もする。こうして時間が空いた方があたし自身が冷静になれるし、心地良い夢の世界からじわじわと問い詰めるのも悪くない。そんな気がしてきたからだ。
「あ、おかえり」
 バスルームからリビングへ戻ると、テーブルに着いていた彼が振り返った。顔まだ寝ぼけたふうで、起きたばかりなのだと容易に想像できた。
「ただいま……。あ、シャワー借りました」
「ん。俺ももう浴びたから」
「そうなんだ」
 どんだけ早く帰ってきてたんだろう。あたしが来たときは既に髪は乾ききっていた。
 あたしも向かいの席に着くと、彼は待ってたとばかりに箸を持ち上げた。いただきます、と小さく呟くのが聞こえた。
「朝も思ったけどさ、遙って割りに家庭的なのな」
 スープをずずっと飲みながら遼佑くんがそんなことを言ってのける。
「え、そう?」
 あたしは素直に驚く。今まで料理はできる人って思われるようなことはあっても、割と、なんていう言葉を付けられることはなかったからだ。
「うん。大人しくていかにもって人が意外に家事皆無っての、結構いるだろ。俺、遙は絶対そういうタイプだと思ってた」
「いやいや、あたしは皆無ですよ」
 これだってできるならインスタントで済まそうとしていたくらいなんだし。まぁそんなことを遼佑くんが知るはずもないのだろうけれど。
「そんなことないって。これ、美味いし」
 そう言って彼は再びずずっと音を立ててワカメスープを飲み干す。音を立てて飲むものでもないんだけどな、と思いつつ口にしない。
「あのさ、遼佑くん」
「うん?」
「昨日勝手にあたしの電話に出たでしょ」
 言った途端、遼佑くんは咽たように咳き込んだ。吹き出さなかっただけましだろうか。
「な、なに、いきなり」
 余程苦しかったのか涙目になっている彼の顔を上目遣いで睨みながら、あたしは負けじと言葉を選ぶ。
「純のことをいきなり聞いてきたから変だとは思ったのよ。そういうの、人としてどうなのかなって」
 視線を外さないあたしに明らかにうろたえる彼は、困ったように後頭部に手を当てた。
「……ごめん」
 あまりに集中してるみたいだったから、つい。
 たぶんそう言おうとしたんだと思う。だけど途中まで動かしていた口を閉じて、遼佑くんは箸を置いた。両手をテーブルについて深々と頭を下げる。
「ごめんっ」
 今度はあたしが咽そうになった。
「何もそこまでしなくてもいいから!」
 慌てるあたしに、遼佑くんは静かに頭を上げた。けれど視線は下に落ちたままだ。
「けど、遙の言うとおりだよな。モラルとしてあれはナイと思う。ごめん」
「分かってくれればいいし。今度からは絶対しないでね」
 あ、扱いにくい、この人……。
 なんだかこれだけのことにどっと疲れた。
 後片付けは彼がやると申し出てくれたので、あたしはお言葉に甘えてさっさと寝室へ入った。彼のベッドは二人でも充分なほど大きくて、そこに今は一人で横になっているのだ。あたしはあまりの気持ちよさにすぐに眠りにつけた。彼が朝、体を揺すらないと起きないというのがよく分かる気がする。
 だから後から入ってきた遼佑くんに抱きしめられた事にも気づかず、あたしは心地良い眠りの中に浸っていた。
 この温もりに抱かれながら。
 朝までずっと。