モーニング・キス

act3.1


 ふと目に留まったレシピ本。ぱらぱらっと捲ってみると、なるほど簡単にできそうなものが幾つか紹介されていた。ふむふむ、湯で野菜は電子レンジで作るのね、と覚えやすそうな手順を頭の中に入れていく。すっかりこの手の雑誌に手が伸びてしまうのも、すべて遼佑くんの影響であることに間違いはなかった。今日は彼のために夕飯と朝食を作るようになって早くも一週間が経とうとしている土曜日だ。
「お待たせっ。何読んでんだ?」
「あ、純」
 後ろからあたしの見ていた雑誌を覗き込むこの一見爽やかな青年はあたしの従姉弟であり幼馴染みであり、今日の待ち合わせ相手だ。先日彼の仕事を手伝ったお礼として、いよいよケーキセットを奢ってもらえるのである。
「遙が料理の本か。……似合わねー」
 幼馴染みを名乗るだけのことはあってあたしのことをよく理解している。可笑しそうに珍しそうに眺める純の視線にあたしの方が恥ずかしくなり、さっさともとの場所に戻すと純を引っ張るように本屋を後にした。そんなあたしの反応が面白いのか、純はずっと笑いを堪えたように肩を震わせていた。
「なぁなぁ、もしかして彼氏の影響?」
「いいでしょ、そんなことどうでも」
 思わず突き放した言い方になってしまったけれど、純は気にせず、むしろ楽しそうにクスクスと笑いを零す。
「照れてんだ? 可愛いなぁ、遙は」
「照れてないしっ」
「いやいや、からかってるんじゃなくて嬉しいんだよ」
 振り返ると純はニコニコと微笑んでいる。嬉しいというのは本当なのかもしれないと思えるようないつもの爽やかな笑みだ。
「なんで純が喜んでるのよ?」
 昔から純の笑みには騙されないと構えてきたあたしは、つい顔を顰めて探る目つきになってしまう。幼い頃から純の笑みは屈託なくて無垢で純粋そうに見えるんだけれど、実はその裏で彼は何かしら企んでいる節があった。実の親でさえ騙されてしまうその笑みが完璧なほど、純はその裏を隠している。そのことに初めて気づいたのはあたしがまだ小学校に上がる前で、純が4歳の時だったと思う。
 純はその時の微笑みに似た笑顔を向けて言った。
「だって遙の初めての恋人なわけだし。それがこの前の電話の人だろ? 少し話しただけだけど、俺はいいと思うな、あの人」
「どうして言い切れるの?」
「雰囲気かな。遙のこと好きなんだなって、なんとなく伝わってきたよ」
 そうだろうか。当のあたしにはそんな言葉をかけてこないのに。それともあたしが空気を読めていないだけ? ううん、でも言葉は大事だと思うのよ。それが愛の言葉なら尚更だ。
「やっぱり彼氏から告白してきたの?」
 ……告白、か。純の言葉にふと疑問が過ぎる。
「まあ、そうなるかな」
――果たして彼は、どうしてあたしを選んだのだろうか。
 というかそもそも、あたしのどこが良かったのだろうか。仮に遼佑くんがあたしのことを好きだとして、それはいつから?
 それにあたし自身は……。

 夕日が沈む頃にあたしはアパートへ戻った。ケーキセットを奢ってもらった後は軽く純の買い物に付き合って、そのまま駅で別れた。純の買い物って結局は彼の仕事に繋がるから、やっぱりケーキセットだけでは安すぎたかもしれない。そんなことを考えていると携帯電話が震えていることに気づいた。メールの着信を知らせるランプが点滅している。遼佑くんからだった。
『6時に駅まで迎えに行く』
 はて、と考える。今日は土曜日だし遼佑くんと会う約束はしていなかった。それに遼佑くんの家へ行くのに迎えに来るというのはおかしい。どこかへ行くのだろうか。そう考えた方が納得はするけれど。
『どこに行くの?』
 返信画面に文字を打って、けれど思い直してクリアボタンを長押しした。『どこか行くの?』と打って、これもやはり消す。「どうして」と聞くのもやめて、「何かあるの」と聞くのもやめる。結局返信はせずに携帯電話を鞄の中へ入れ戻した。
 時計を見て、帰ってきたばかりだけれどあたしはすぐにアパートを出て駅へ向かった。メールは返さなかったけれど何があるのか気になることは確かで、自然と歩く足がいつの間にか駆け足になっていた。
 あたしのアパートから最寄の小さな駅まではゆっくりと歩いてもせいぜい10分ほどの距離にある。だから6時にはだいぶ早く着いた。あたしはもう一度時間を確かめて、駅の傍に立っているデパートへ入る。4階建てのそこそこ大きな建物の3階に本屋があり、1本電車を乗り過ごした時はよくここで時間を潰したりする。普通電車しか止まらないこの駅には1時間に4本しかないのだ。
 あ、と気づけばまた、目に留まったのは、カラフルな花やリボンで可愛らしく飾られたテーブルクロスの上に綺麗に盛り付けられたサラダが表紙になった、主婦向けの料理雑誌だった。「子ども&夫のお弁当のおかず30品目」という丸文字がでかでかと踊っている。普段なら真っ先に文庫コーナーへ行くあたしの足は、自然と平積みにされているその雑誌の前まで来ていた。やっぱりこれも、遼佑くんの影響なのかしら。
 パラパラと捲っていたはずが、いつの間にか熱中していたようだ。ケータイのバイブに気づき、届いたメールを開くと遼佑くんからだった。既に着いているという内容の短い文を目にしたとたん、あたしは慌てて雑誌を戻すとデパートから出た。これじゃあ、何のために早く出てきたのか分からないじゃない。
「遅かったな。返事もなかったし、何か用事があったのか?」
 車で来ていた遼佑くんは、あたしの謝罪の言葉もそこそこに受け取ると、助手席のドアを開けて乗るように促した。
「あの、ちょっと本屋で立ち読みしてたら、夢中になっちゃってて」
 あたしが座るのを確認してから遼佑くんはドアを閉め、前を周って助手席へ戻ってきた。シートベルトをしめ、エンジンを掛ける。あたしは運転免許を持っていないのでよく分からないけれど、ギアを入れたりハンドルを握ったりするその慣れた手つきは、カッコイイと思った。
「それよりもどこ行くの?」
「ああ、今日急に会社の奴らと飯を食うことになったんだ」
 一瞬何を言われたのか、理解ができなかった。え。会社の人たちって。え?
「どうしてあたしも?」
 運転をする遼佑くんの横顔を見つめながら当然の質問を投げかける。すると彼はそれが不愉快だと言いたげに表情を歪ませた。もしかしたらあたしに対してじゃなかったのかもしれないけれど。
「一緒がいいと思ったんだ」
「どういうこと?」
「お前――遙を、会わせたいと思う奴が今日来るんだ。……詳しくは帰ってから話すよ」
「う、ん?」
 どうも様子がおかしい。あたしは首を傾げながらも同意するしかなかった。納得しきれずに思わず尻上がりの疑問調な発音になってしまったのは、仕方がないだろう。
 しばらく車を走らせて到着したところは、繁華街を抜けて少し落ち着いた雰囲気の店が並ぶ通りだった。ここからだと多分、遼佑くんが使う最寄の駅の方が近いだろう。それに彼も何度か来たことがある風で、店が並ぶ通りから少し出て、慣れた様子でバス停の近くに車を止めた。
「ちょっとここで待ってて。車止めてくるから」
「駐車場まで行かないの?」
「ああ、ここで一人待ち合わせてるから、遙が居てくれたら分かりやすい」
 何気なく言う遼佑くんに、あたしは驚いた。え。今、何と?
「だってあたし、初対面だよね、その人と」
「でも遙、運転できないだろ」
 いやそうだけど。っていうかなんで待ち合わせてるのにあたしも誘うのかな。
「大丈夫。たぶん向こうが分かってくれるし。早く降りて」
 そうしてさっさと降ろされたあたしは、無情に去っていく車を見送るしかなかった。辺りを見回しても、人通りは多いけれど待ち合わせている様子の人はいない。キラキラと店の照明が通りの角から見えるくらいで、ここには街灯が心細くあるだけだ。その明かりも不安を煽っているようにしか思えない。
 あぁもう! どうして置いて行っちゃったのよ、遼佑くん!