モーニング・キス

act3.2


「もしかして、緒方さん、ですか?」
 遼佑くんに置いて行かれ――もとい待ち合わせの身代わりにさせられて数分後、あたしは見ず知らずの綺麗な女性に声を掛けられた。カワイイ、ではなく美人、と言った方がピッタリな秘書系のお姉さんだった。
「はい、そうですが……」
 あたしがおずおずと答えると、その人は安心したように胸を撫で下ろし、それからにっこりと笑顔で小首を傾げる仕草をした。女ながら、その色気にどきりとする。よくよく見ればシックなパンツスーツで、地味ながらも着こなすスタイルの良さと彼女の雰囲気から、デキル女という感じがした。
「良かった。見吉君から聞いてます。今日は彼と一緒に私も付いていますから」
「はい?」
 意味が分からず思わず聞き返してしまった。まるで、あたしが誰かと戦いに行くみたいな言い方な気がするのだけれど。
 すると彼女は慌てて口元を押さえた。
「ごめんなさい、私ったら名乗りもしないで」
 いやあの、それもそうなんだけれど。
「私、見吉君と同僚の新田智也子といいます」
 そう言って新田さんは丁寧にお辞儀をしてくれた。あたしも慌てて同じように深々と頭を下げる。やっぱり卒がないくらいカッコイイ、この人。綺麗な人だと思うけれど、それ以上にカッコイイ人だ。
「えっと、あたしは」
「緒方遙さん、でしょ?」
「あ……、はい」
 そう言えば知られているんだった。あたしは恥ずかしさを誤魔化すように苦笑する。
「見吉君から彼女を連れてくるって聞いた時は驚いきましたけど。結構最近ですよね、付き合うのって?」
 お。お?
「そうですけど」
 どうして知っているんだ、とあたしの顔が言っていたらしく、クスクスと肩を震わせて、新田さんは内緒話でもするかのように人差し指を唇に近づけて言った。
「だって見吉君、仕事は出来るけど生活面ではかなりルーズっぽかったのに、最近規則正しくなっちゃって。飲み会もほとんど来なくなったから、皆で噂してたんですよ」
 ああ、それはきっとあたしが朝起こすようになったからってこと、だよね。あれ、でも、ルーズな生活を送っているようには見えなかったけどな、あの部屋を見る限りでは。それとも睡眠のことだけを言っているのかしら?
 あたしが納得していないことに気づいたのか、新田さんは「それにね」と笑うのを止めて続けた。
「急に態度が変わったんですよね。もともとその気は無かったみたいだけど、最近はもっと強く拒むようになったと言うか、あからさまになったと言うか。まぁ、あの子にはそれでも諦めてもらえないから、こうして緒方さんが来る嵌めになったんでしょうけど」
 あたしが何も言えず驚いていると、新田さんはもう一度にっこりと微笑んだ。
「でも私も協力しますので、安心してください」
 それはまるで勇気付けるようなしっかしとした口調で、あたしはその勢いにつられて、いつの間にか頷いていた。
 よく分からないけれど、とにかく新田さんはあたしの味方でいてくれるらしい。それだけは分かった。
 そんなことを話していると遼佑くんが戻ってきて、あたしたちは移動することにした。と言ってもあたしはどこに行くのか分からないので、二人に着いていくだけだけれど。そして二人が入ったのは二階建てのベーカリーレストラン。一階がパンの販売をしているフロアで、二階がレストランになっている。レストランのパンもテイクアウトできるのだと新田さんが教えてくれた。
 店の中は全体的に青い色をベースに彩られてオシャレな感じだ。テーブルとテーブルとの間隔も割りと広く、ゆったりとした印象を受ける。同じレストランでもファミレスとは随分違った雰囲気で、少し気後れしてしまう。
 遼佑くんがカウンターの店員に声を掛けると、すぐに席に案内された。そこは既に何人かが集まっていて、あたしたちを見つけると親しげに手を上げて迎えてくれた。
「やっと来たなぁ」
「うわー、見吉さんの彼女!?」
「あ、こっち座ってください」
「新田さん、こっちでーす」
 言われるままに座ると、遼佑くんの隣の席になった。けれど逆隣も、目の前の人も、当然ながら知らない人ばかりで固まってしまった。何。何。この状況は何なの。斜め前の新田さんが遠いよ。
 あたし達が席に着いたのを見計らったように料理とドリンクが運ばれてきた。まずは前菜のようだ。
「でも見吉さん、本当だったんですね、彼女がいるのって」
 あたしの目の前に座る男性があたしと遼佑くんを交互に見ながら楽しそうに言った。周りの女の子もウンウンとそれに頷く。遼佑くん自身は返事もせず、ただ水を飲んだだけだった。けれどそんな態度には慣れているのか、特に気にした様子も見せず今度はあたしの方へ視線を移した。目が合うとにっこりと笑ってくれる彼は営業で活躍してそうな、人慣れた雰囲気を持っていそうだ。
「見吉さんってプライベートのことはほとんど口にしないんですよ。でも最近やたらとマジメっていうか」
「見吉さんはいつも真面目ですよぉ」
 彼の隣に座る女の子が突っ込むと、目の前の彼は「そうじゃなくてさ」と困ったように笑った。
「残業とかほとんどしなくなったし、集合にも遅れなくなったってことです。ほら、この前だって土曜なのに誰よりも早かったじゃないですか。今までだったら直で現場だったのに」
 あれ。もしかして、この前の土曜って――。
「もういいだろ、それは」
 あたしが思い出していたところで遼佑くんが中断に入った。少し睨むその目つきは、怒っているというよりは気まずいと言っているように見えた。恥ずかしがることでもないと思うけどな。だってこの前の土曜は、同窓会のあった次の日ってことで。
「あたしのおかげってことだ」
 つい、口にしてしまっていた。周りの驚いた視線を受けながら、あたしはどうしようもなく小さくなるしかなかった。

 軽く化粧や髪型を直し、お手洗いから出ると遼佑くんがドアの傍に立っていた。
「ちょっと、いいか?」
 そう言ってあたしが返事をする間もなく、彼は歩き出した。あたしに拒否する選択肢はないようだ。
 外に出ると少し風が冷たい。思わず自分の腕を摩った。
「あのさ、俺の前に座ってるの、居たろ」
「あ、え……っと」
 確か最初、あたしを見て「見吉さんの彼女!?」と驚いていた人だよね。「見吉さんは真面目ですよ」とか「見吉さんは」と、やたらと遼佑くんに気があるふうの女の人。年はあたしたちより少し下になるのだろうか。何にしても可愛らしい人だった気がするけれど。
「その人がどうかしたの?」
 あたしが聞くと、遼佑くんは途端に嫌そうな表情に変わった。その変化は僅かで、見様によってはこの急な寒さで不機嫌になったとも取れるけれど、たぶん今のはそんなコトではないのだ。
「新田にも頼んだんだけど、見事に席を離されたし」
 ああ、そういえば新田さんの席を案内したのも彼女だったっけ?
「だから少し、見せ付けないとなと思うんだけど」
 はい?
 これは何の相談でしょうか。
「とりあえず帰るぞ」
「はあ!?」
 思わずあたしは声を上げた。いや待ってよ。意味が分からないんですけども。
「デザートまで食ったんだから文句はないだろう」
「そういう問題じゃなくて。なんで見せ付けるために帰るのよ。それだったら目の前で惚気た方が」
「バカか。俺がそういうの出来るわけないだろうが」
 遼佑くんは呆れたようにあたしを見た。当のあたしは至ってマジメに言ったのだ。そういう言い方はないんじゃないか。
「でもだからって、なんで帰るって発想になるの」
「だから、帰ってこういう事するってことを見せ付けるんだろ」
 めんどくさそうに言ったかと思うと、遼佑くんの腕があたしの方に伸びてきた。
 あ。と思ったときには既に頭をしっかりと押さえつけられていて。
 唇には彼の感触がキツク押し当てられていた。
 一度だけ、触れ合うだけのキスはされたことがあった。けれど、これはそんなものとは全然違うもので。
 何度も吸い付けられ、舐められ、その度にあたしは遼佑くんのシャツを握り締めた。きつく腰を抱かれているおかげで何とか立っているという状態が、不思議なくらいふわふわと現実感のない事のように思える。角度を変え、何度も重ねられる口づけは激しくて、気が遠くなるほど長く感じた。
「あっ……」
 不意に後ろから声が聞こえ、ようやくこれが夢ではないのだと自覚し、途端に恥ずかしさが湧き上がる。そういえばここは店の外だった!
「あ、ごめ、遅いから……」
 頭を抱き抑えられたままのあたしは振り向くことが出来なかったけれど、声でそれが新田さんだと気づいた。押さえつけられた彼の胸からは、ドクドクと少し早くなった鼓動が聞こえる。
「いや、ちょうど良かった。俺らこのまま帰るから」
「あ、う、うん。分かった……」
 よほど動揺させたようで、新田さんの声は僅かに震えていた。けれどあたしは振り返ることもできず、かといって話しかけるのも恥ずかしく、結局何も言えなかった。何を言おうとしたかも分からないのに。
 新田さんは店の中へ戻ったらしく、ドアの閉まる音が微かに聞こえた。そこでようやく遼佑くんはあたしを抱く腕の力を緩めてくれて、あたしはそっと離れた。
「……新田さんに見せ付けてどうするの」
 言って、でも目を合わすことも出来なくて、彼の腕を掴んだまま俯く。
「いいんだ」
 そして今度は優しく、あたしの体をそっと包み込んだ。

 駐車場へ戻り、車に乗りこむ。けれど遼佑くんはエンジンを掛けたまま、一向に走らせようとはしなかった。
 暗い空間に、耳に響くのは低いエンジン音だけで。限りなく静かなこの状態に、あたしはどうしようもなくなる。遼佑くんの方を見れば難しい顔で前を向いたままこの車のように動きそうにも無かった。知らず溜め息が零れる。
 仕方なくラジオでも掛けようかと手を伸ばすと、彼の手が覆い被さってそれを止めた。そしてそのままぎゅっと握り締められる。彼の手は外に吹く風のように冷たかった。
「本当は――」
 ようやく聞けた遼佑くんの声は、鋭く静かで低くて、それは今まで知らなかったもので。ドキリとした。
「本当は、新田を意識してた」
 痛い。  胸が締め付けられる。
「付き合ってたから。俺ら」
 また、痛い。
「だからわざと待ち合わせたりして。……ごめん」
「どうして、別れたの?」
 繋がれた手に力が込められる。それはまだ彼に未練があるということだろうか。あたしはどうしても握り返すことができなかった。
「仕事が面白くなってきた時だったんだ、お互いに。俺は大きな仕事も任され始めるようになって、向こうは向こうでプロジェクトチームに入ったりして。だけど俺はそれでも関係は変わらないと――」
 するり、と手が離れる。
 少し寂しさを覚えた。別にそんなこと思う必要はないのに。
「遙」
「ん?」
 顔を上げると再び口付けされる。しっとりと、優しい、3度目のキス。
 胸の痛みが甘い痛みに変わった。甘くて、苦しい――こんな痛みを、あたしは知らない。



 習慣になりつつある遼佑くんの目覚まし役は、そう簡単に止められない。言っとくけど月曜の朝は誰だって辛いのだ。それでも頑張るのは、人のためという大義名分があるからだろうか。
「遼佑くん、起きて!」
 お母さんが息子にやるように、掛け布団を思い切り捲りあげる。ぶるっと大きな体を震わせた遼佑くんは嫌そうにあたしを睨み上げるが、あたしは気にも留めず部屋を出る。
 テーブルには既に朝食を用意してある。新聞をリビングのテーブルへ乗せると、コーヒーを入れにキッチンへ入った。
「新田と顔合わせづらい……」
 着替えた遼佑くんが珍しくそんなことを呟く。普段、朝の彼は割りと無口な方なのに。
 なんだか学校へ行きたくないと拗ねる子どものようで、思わず笑ってしまった。
「自業自得でしょ。人前で、あんな……」
 思い出して、あたしも閉口してしまう。やっぱりアレは恥ずかしすぎる。遼佑くんの気持ちは痛いほどよく分かるけど。
 あたしが黙ると、フッと彼が笑う気配がした。カップを両手に持って席まで着くと、遼佑くんはあたしを見て微笑んでいる。
「顔赤いぞ」
「うっ、しょ、しょうがないじゃん」
「可愛いな」
「な、バ、カじゃないの」
 元はと言えば遼佑くんのせいじゃないのよ!
 だけど何がおかしいのか、彼はクスクスと声を噛み殺しながらも、なかなか笑うのを止めなかった。
「和むなぁ。遙と居ると」
「……」
 返す言葉も無いわ。