モーニング・キス

act4.1


 いつもより早めに仕事が終わり、今日は遼佑くんのところにも行かなくていいのだと少しほっとしたような、けれどどこか寂しいような、そんなふうに感じるのはなぜなのかとか、つらつら考えながら会社を出ると、不意にバッグの中から振動が伝わる。携帯電話を開けてみれば朋子からメールが届いていた。

「ハル、こっちこっち!」
 いつかの同窓会の時と同じように、待ち合わせた店に入れば真っ先に彼女の呼ぶ声が聞こえた。数度、店の中を見回して、大きく手を振る友人の姿を見つける。既に朋子は注文しているようで、テーブルには料理とドリンクが置かれていた。
「良かったぁ、ハルが来てくれて」
「でもあまり遅くまでは居られないからね。終電までには帰るよ」
「うんうん。分かってるって」
 本当に分かっているのだろうか。こうして会うことなんてほとんどなかったけれど、同窓会の時も朋子はかなりの酒豪ぶりを発揮していたから、結構不安だ。
 しかしそうグチグチと考えていても仕方がないので、あたしも席に座り、彼女と同じようなものを幾つか頼んだ。この店は一見和食屋さんかとも思ったけれど、普通の居酒屋らしい。周りを見渡せばなるほど中年のおじさんが多い。もちろんあたしたち以外にも若い女の子は居るけれど。
「それで、何か用があったんじゃないの?」
 朋子が先に注文していた熱々のイカ焼きを突きながら言った。メールにはただ一緒に食べようというか書いていなかったけれど、わざわざ会おうとするなんてよっぽどの用があるのだろうと思う。考えてみれば二人で食事なんて、学生の頃から数えてみても、片手で足りるくらいしかなかった。
「んー、まぁ、用っていうほど大したもんじゃないけどさ」
 朋子はサラダを食べ、から揚げを食べながら、もそもそと答える。その口調はどこかぎこちない。朋子にしては歯切れが悪いというか。
「ハルはさ、あんまり興味ないのかもしれないけど」
「うん?」
「やっぱり職場恋愛は止めといた方がいいと思うわけよ」
「はあ?」
 いきなり何の話だ。あたしは思わず朋子の顔をまじまじと見つめた。彼女はいたって真面目な表情でマカロニサラダを睨んでいた。
「だって付き合ってるときは良いわよ。仕事も私生活も楽しいでしょうよ。でも別れたときの気まずさったらないと思わない? それが周りの人にも知られてごらんなさいよ。余計に居心地悪いじゃない」
 前に言っていた彼と何かあったのだろうか。いや、そもそもあたしが最後に聞いた相手には彼女がいたはずだから、その後? え、でもまだ数週間しか経ってないんですけど。さっぱり朋子の話が見えない。
「ねえ……、何の話?」
 不機嫌な雰囲気の朋子に恐る恐る聞いてみれば、はあ、と盛大な溜め息を吐かれた。
「出会いがないのよ」
 一瞬その場が静まり返ったかと思った。けれど周りの賑やかな喋り声が止まったわけではなくて、ただ朋子を包むその空間だけがひどく冷えただけのことだ。
「ハルの周りに誰か良い人いない? 独身でそこそこカッコよくて、もちろん性格が伴わなきゃだめだけど」
 あ……、なんだ、結局はソレか。
 はぁ、と今度はあたしが盛大に溜め息を吐く。珍しいことがあるもんだと思ったけれど、結局はいつもメールで愚痴っていることと何も変わらない。けれどほっと安心した。
「いつも言ってるけど、あたしそういうの苦手だから」
「そうなんだけどさ……」
 あからさまに肩を落とす朋子を見て、あたしは最後のイカ焼きを一口頬張る。
「そんなに焦る事でもないんじゃないの? その内自然に現れてくると思うよ、好きになる相手なんて」
 まぁ、あたしに言われても説得力なんてないけれど。自分で言ってて可笑しくなる。
「ハルはのんびりしすぎ。あたしたちもう25よ? 四捨五入して30よ?」
「まだ25でしょ。朋子は理想が高いんじゃないの?」
「あたしの将来の夢は5歳の時から幸せなお嫁さんなの。晩婚なんて流行らないわ」
 そんなものなのだろうか。あたしにはよく分からない。好きな相手と“結婚”という形になれば、それが何歳だって構わないと思うけど。幸せなんて明確な定義がないものに、わざわざハードルを上げるようなことをしなくてもいいと思うのに。けどそれが朋子にとっての幸せなら、あたしが何を言ったところで結局は無意味なものなんだろう。
「じゃあお見合いとか?」
「やめて。それだけは嫌って思ってきたのに」
「そんなの、分からないじゃない。出会いはどうあれ結局はお互いの気持ちでしょ」
「出会いが大事なの!」
 だめだ、これは。本当に何を言っても無駄だ。あたしは仕方なくイカ焼きをもう一度注文することにした。ここのイカ焼きに嵌ってしまった。いやいや、やっぱり今度はイカリングでも頼もうかな。白身魚の天ぷらも捨てがたい。
「ねえ、ここのイカ焼きおいしいよね」
「普通じゃない? それよりここのオススメはキムチラーメンよ。激辛なんだから」
「ラーメンはさすがに食べられないわ……」
「じゃあ餃子。ニンニクが効いてておしいわよ」
 ここは中華屋か。
 まあ何にしてもこれで最後にしよう。締めはやっぱりお茶漬けよね。
「すいませ――」
「あれ、遙!?」
 注文を頼もうと振り返ると、唐突に至近距離から名前を呼ばれた。驚いてその声がした方を見てみれば、馴染みの顔が一人、同じように驚いた顔でこっちを向いて立っていた。両手には水の入ったコップを持っている。ここは水とお茶がセルフサービスとしてあるから、そのためだろう。まさか社会人がこんなところでアルバイトするはずもないし。
「何で遙がここに?」
 確かにここから最寄の駅は滅多に使わない路線だけれど、そのセリフはそっくり返そう。
「純こそ、何してるの」
 そこに立っていたのは従姉弟というよりは幼馴染みに近い関係の男だった。
「俺は友達と飲みに。遙は」
 そしてあたしの向かい、純からしてみれば正面に座る朋子に目を向け、いつものお得意の爽やかな笑顔で会釈した。
「お友達さんですか? 初めまして。遙の従姉弟です」
「あ、はい。神田朋子です」
 突然現れた純に朋子はしどろもどろしつつ、顔を赤く染めているのはお酒のためだけじゃないだろう。純の笑顔は天然タラシなんだったと思い出す。
「良かったら一緒に飲みません? 男ばっかで花がないなって話してたところなんです」
「なんで朋子に言うのよ」
 初対面の人にそんなこと言っても困らせるだけってわかってるのに。けれど純は平然とした顔で、つまるところ何も考えていない様子でにっこりと微笑んだ。
「だって遙、人見知りするから絶対断るし」
「だからってねえ」
 あたしが腰に手を当てて反論しようとすると、それを避けるように視線を朋子へ戻し、純は再び朋子に話しかける。
「何だったら俺らがこっちに来ましょうか?」
「ちょっと、純っ」
「良いんですか? そっちの方が助かるんですけど」
 おいおい、朋子まで! なんで承諾するのよ。
「良かった。じゃあすぐ行くんで、これ置いてて良いですか?」
「ええ、もちろん」
 そう言うなり、純は持っていたコップをあたしたちのテーブルに置くとすぐに自分達のテーブルへと戻っていった。視線だけで追いかけると、確かに純とその友達2人が離れた席に居た。
「ねぇねぇ、ハルってば!」
「ん?」
 諦めて席に座りなおすと、キラキラと瞳を輝かせながら朋子が身を乗り出してきていた。嫌な予感がする。
「誰よあの人! ハルにあんなカッコイイ知り合いがいるなんて聞いてないけど?」
「誰って、ただの従姉弟だけど」
 それに純がかっこいい? 騙されてるだけだっていうことに、早く気づいてくれるといいんだけど。今のままじゃ難しいかもしれない。
「ねっ、ハル、紹介して!」
 やっぱり。薄々は気づいていたけどね、こういう展開になることは。
 だけどやっぱり大事な友達だから、ここは一つ心を鬼にしなえればならないの。
「あのね、朋子、」
 言いかけた途端、不意に、あたしの携帯電話の着信音が鳴り響く。会社を出たときにマナーモードを解除していたんだった。慌てて取り出せば――。
 うげ。なんでこんな時に遼佑くん!?
「出ないの? 電話でしょ?」
 携帯電話を手に持ったまま固まっていたあたしを不思議そうに見る朋子。あたしは朋子とケータイを交互に見比べ、申し訳ないが電話を切った。
「いいの。あとで掛け直すから。それよりも朋子、純は止めた方が」
「俺が何だって?」
 上から穏やかな声が落ちてきた。
 はは、と乾いた笑い声を出すしかなかった。
「早いじゃないの……」
 振り向くと純と同じ年の男の子達が「どうも」と会釈してくれる。多分いい人たちだとは思うのだけど、気分が落ち込むのはしょうがない。
「どうぞどうぞ、座ってください」
 あたしとは逆に、朋子は楽しそうに荷物をどかして席に着くように促す。
「ほら、ハルは電話。早く掛け直してきなさいよ」
 まるで邪魔者扱い……。ひどくないですか、朋子さん。
「何、誰から?」
「純には関係ないでしょ」
 言ってる傍からまた着信音が鳴り響く。見ればやっぱり遼佑くんからで。
 どうして? 今日は何も約束なんかしてなかったのに。何かあったのだろうか。
 気になるけど、朋子を一人にするのも気が引ける。まぁ、朋子自身は楽しんでいるから心配する必要はないのかもしれないけれど。
「急用なんじゃないの? 早く出れば?」
 純にも言われ、それでも渋るあたしに、「もしかして」と純はニヤリと笑った。
「もしかしてこの間の彼氏? 喧嘩でもしてんだろ?」
「な、違っ」
「彼氏?」
 あたしが否定しきる前に、朋子が反応を示した。――やばい。
 あたしは逃げるように携帯電話を握り締めて店から出た。
「ちょ、ハル!?」
 なぜ逃げたのかなんて分からないけど。
 遼佑くんのことは朋子には知られたくなかった。
 知られたくなかったのに。