モーニング・キス

act8.4


 二人になると、遼佑くんは気まずそうに視線を外し、くしゃりと前髪をかき上げた。あたしは建物の影から隠れようとしていたのをやめ、思い切って彼の前まで足を進ませた。「久しぶり」と言ったとおり、この距離で遼佑くんを見上げることが本当に懐かしく感じられる。
「どうしてここに?」
 遼佑くんの声を聞けて、涙が出そうになった。そんな自分に驚いて、咄嗟に出た声は裏返ってしまった。
「こっ、この先の居酒屋で……飲みに誘われて」
「ふうん」
 それきり、会話が続かない。
 遼佑くんは視線を合わせないままだし、だからあたしもどうしようもなくて、俯いてしまう。
 何か話しかけた方が良いのだろう。きっとこのまま沈黙を続けるつもりはないのだ、遼佑くんも。時々視線を上げるとチラチラと気にするようにこちらを伺う彼の視線と合う。そしてどちらからともなく視線を逸らす。それの繰り返しが二度三度続いた。
 話題、話題、と頭の中でぐるぐると呟き、けれど聞きたいことは一つしか思い浮かばなかった。
「……仕事、上手くいってないの?」
「えっ」
 唐突過ぎたかもしれない。あたしは慌てて「いや、あの、」と言い訳じみたことを考える。
「さっきそんなことを言ってたから。ちょっと気になっただけ」
 言って、失敗だったとさらに焦った。遼佑くんの顔が見れずに目を右往左往と泳がせた。
「でもそんなこと、あたしに言われても困るだけだよね。ごめんね、変なこと言って」
 だけど。
「いや、実際その通りだし」
 そう言った遼佑くんの声は思いのほか柔らかくて、あたしはピタリと泳がせていた目を止めた。ゆっくりと彼の方へ向けると、だけど表情はあまり見えなかった。
「ミスとかはしてないんだけど、取れてたコミュニケーションができてないんだ、最近。俺の仕事は仲間との連携が重要なのに、ずっと個人の作業になってる。たぶん遙が聞いたのは、そういうことだよ」
「どうして? 今まではできてたんでしょう?」
 すると遼佑くんは自嘲気味な笑みを浮かべた。聞いてはいけないことを口走ってしまったような罪悪感に襲われる。
「どうしてかな。俺にも分からない。ただ遙から返されたものを見つけたときから、頭が上手く回らない」
 どきり、と鼓動がいっそう強く高鳴った。
「違う、遙のせいじゃない。俺が仕事とプライベートを混同してるからだ。こんなこと初めてで俺自身戸惑っているんだ。遙のことを言い訳にしてごめんな」
 でも結局はあたしが原因なのだと分かった。
 なのに責めてくれないのは、こんなにもつらい。
 いつものようにあたしが許すような流れを作ってくれたらずっと楽なのに。
 ――それがあたしが望んでいることなのだろう。今更になってそれを望むなんて馬鹿げているのに。
「何て顔をしてんだよ。泣きそうなのはこっちだっつうの」
 遼佑くんの腕が少し持ち上がり、あたしの肩が震えた。
 すぐ静かに下ろされていく彼の腕を見て、あたしはどこか寂しくなった。その手で頬に触れてほしかったのかもしれない。
 そうして優しく撫でて、慰めてほしかったのかもしれない。
 本当に勝手な望みだけれど。
「俺、きっともう、遙がいないとだめだと思ってるんだよ」
「え?」
「料理もさ、家で食べても前より全然不味いし。朝起きたらいつも遙の姿を探してる。けど、いつまたあの時と同じことをしないとも約束できないからさ、戻ってきてほしいとも言えない。遙から戻ってきてくれないと、俺はどうしようもできないんだよ」
「……」
 そんなことを言われたって。
 あたしの性格は、遼佑くんが一番分かっているはずなのに。
「緒方さん?」
「!」
 不意に呼ばれて心臓が飛び出そうなほど驚いた。静かな雰囲気にその声は場違いなほど長閑だ。
 声がした方へ向くと、タバコを買いに行った蓮田さんが戻ってきていた。
「何してるんですか?」
「あ……」
 蓮田さんはあたしと遼佑くんを交互に見て、少し目つきを鋭くする。
「皆待ってますよ、行きましょう」
 言うなり彼はあたしの手を取ってそのまま歩き出す。もしかしてあたしが絡まれていると誤解されているのだろうか。
 あたしは慌ててその腕を振りほどこうと――した時には既に振り払われていた。
「なっ!?」
「邪魔しないでくれるかな」
 驚く蓮田さんに遼佑くんはいたって冷静な口調で話す。いつの間にかあたしの前に立つ遼佑くんに、あたしも驚いて声が出せなかった。
「なっ何なんだ、あんた! 彼女は嫌がって」
「嫌がる?」
 低音で言葉を繰り返し、遼佑くんは視線は蓮田さんに向けたまま顔をこちらに半分向けた。
「遙、俺との話は嫌なのか?」
 聞かれてやっと、あたしは驚きから少し立ち直った。首を小さく左右に振って、それから蓮田さんに「すみません」と謝った。
「彼はあたしの知り合いなんです。今日はやっぱり参加できません。ごめんなさい……」
 とにかく絡まれているわけではないのだということを伝えるのに必死で、早口でそう言った。それで満足な説明ができたとは思わないけれど、少なからず言いたいことは蓮田さんにも分かってもらえたらしい。険しかった蓮田さんの表情が若干緩んだ。
「あ、そう……。それなら、いいんだ。加島さんは?」
「言ってあります」
「じゃあ仕方ないですね」
 蓮田さんは完全に表情を緩めてそう言うと、遼佑くんにも謝罪し、居酒屋の方へ歩き出した。
「それじゃあまた、月曜に」
「はい」


「俺たちはもう、ただの知り合い?」
 蓮田さんの姿が見えなくなったところで、あたしに背を向けたまま遼佑くんが言った。
 あたしが言った言葉なのに、遼佑くんの声で聞くとそれはとても冷たく聞こえた。
「……だってあたしは、何もかも初めてで……。あの時は本当に怖かったんだよ……」
 思い出して今も震える。あの時のあたしを見ていなかった遼佑くんの瞳が、とても怖かったのだ。
「じゃあどうしたら良い? それとも遙の中では俺とはもう終わった仲なのか?」
「ち、違う! 終わってなんか――っ」
 終わってるわけがないじゃない。だってあたしはいつも遼佑くんとの過去を思い出して、遼佑くんのことを思い出しているのに。料理だって遼佑くんがいたから頑張れて、今は全然できていないし。掃除も今は小まめになんかできていないし。でもきっと遼佑くんの部屋だったら隅々までできるのだろうとか考えるし。そこにはずっと遼佑くんがいて。
 ずっとあたしの中に居続けている彼と終わりだなんて、思いたくなかった。
 泣きそうなあたしに、遼佑くんが振り返る。ほっとしたような笑みを浮かべて、あたしの頬を優しく撫でた。待っていた温かさがそこにあった。
「じゃあ、もう一度俺の部屋に戻ってきてくれる?」
 涙で歪む視界が、遼佑くんの笑みでいっぱいになる。あたしたちの距離が近づいているのだと気づいたのは、唇が触れ合った直後だった。
「朝はこうして起こしてくれる?」
 ふわりと微笑む遼佑くんに、あたしもそっと腕を抱きしめた。
 それはとても安心する心地よさで、きっとずっと、あたしはこの温もりも待っていたのだ。
「――うん」
 頬に伝う雫は温かく。
「ありがとう」
 その言葉はぽとりとあたしの涙の上に落ちてきた。

 あたしが頑張れるのは遼佑くんがいるからだ。
 優しくなれるのは遼佑くんのためだからだ。
 流されているのだと彼は言うけれど、それは彼の言葉だからだ。
 遼佑くんの傍が心地良いから、あたしはきっと彼が好きなのだ。
 だから彼が苦手な朝は優しくあたしが起こそうと思う。

 いつも、とびきりのキスで。

+++ FIN. +++