モーニング・キス

act8.3


「緒方さん、この後皆で飲みに行こうって言ってるんですけど、どうですか?」
 終業時間がそろそろ近づいてきて、だんだんと帰り支度を始める周りの中で一人、黙々とキーボードを叩いていると、加島さんが声を掛けてきてくれた。仕事帰りの食事、ということだけで遼佑くんと新田さんの姿が思い浮かぶあたしは、どうかしているのだろうか。
「それとも週末はデートですか」
「いえ、それは……。一緒に連れて行ってもらっていいですか」
「そうですか? 良かったあ。今日は女性少ないみたいなんですよね」
 ほっとしたように笑みを零す加島さんに、あたしも微笑み返した。
 加島さんが自分のディスクへ戻っていくのを見届けてから、また作業を再開し、キリの良い所まで仕上げることにした。入力を全て終え、確認まで済ませる頃には既にほとんどの席が空いている状態だった。
「緒方さん、終わりました?」
 あたしが背もたれに背を預ける仕草をすると、後ろからそう声を掛けられた。振り返ると蓮田さんだった。この部署で働く同期の数少ない男性社員の彼とは、あまり話す機会もなかったから少し驚く。部署が同じでも任せられている仕事が違うので当然といえばそれまでなのかもしれないけれど。
「はい。蓮田さんも一緒なんですね」
「ええ、俺は割と顔出す方なんですけど。緒方さんはあまりこういうのに参加しませんよね」
「そうですかね」
 あたしからしてみれば誘われることがそもそも少ないのだと思う。あまり積極的に終業後も付き合おうとする態度を見せないからだろう。それでも新年会や歓迎会、忘年会には極力参加しているのだけれど、規模がそもそも違うから認識されていないのかもしれない。
「久々に金曜の飲み会ですからねー。皆結構飲むと思うんですけど。緒方さんってイケる口ですか?」
 あたしが片付けている後ろで蓮田さんが楽しそうに話しかけてくる。一緒に出ようと待ってくれているのだろうと感じ、動かす手を早めた。
「あたしはあまり。食事メインですよ、飲み会はいつも」
「あー、確かにそんな感じです。割り勘だと損するタイプじゃないですか?」
「ええ、まあ」
 最後にパソコンの電源を落として、あたしはようやく蓮田さんの方へ向き直った。その後ろでちょうど立ち上がる加島さんが見えた。
「あ、二人とも出るところですか? 一緒に行きましょうよ」
 あたしと目が合った加島さんがそう言ってきてくれたので、三人で会社を出ることになった。加島さんと蓮田さんはそれなりに仲が良いらしく、時折冗談も交えて話していた。あたしは少し後ろでそんな彼らのやり取りを聞いていた。女性にしては長身の加島さんと何気なく体格の良い蓮田さんは並ぶと結構絵になるのだと思った。
 二人に着いてやって来た所は電車を使って数分歩いた、繁華街より少し先に行った場所にある居酒屋だった。周りはイタリアンやフレンチレストランなどが多く入っていて、その一つに見覚えのあるベーカリーレストランが見えた。遼佑くんや新田さんがよく食べに来ると言っていたレストランだと気づいたのは、その前を通り過ぎた時だった。
「よく来るんですか、この辺り」
 思わずそんなことを聞いていた。まさか鉢合わせなどあるわけがないと思いながら、それでも聞かずにはいられなかった。
「そうですね。この辺は居酒屋のほかにも食べられる店が集まってるんで、割と来ますよ。ね、蓮田さん」
 加島さんが振り返って答えてくれた。蓮田さんも同意するように頷く。ということは意外にあたしと遼佑くんの会社も近いということらしい。なんだか不思議な気分だ。
「あ、先行ってて下さい。タバコ買ってきます」
 店の前まで来て突然、思い出したように蓮田さんが振り返った。
「えー、またですか? 最近減り早くないですか」
 げんなりとしたふうに加島さんが顔を歪ませて蓮田さんを見上げる。彼は苦笑しつつ「すみません」と軽く頭を下げると、さっさと踵を返して自動販売機を探し始めた。
「蓮田さんってヘビースモーカーなんですか?」
「さあ。でも最近は多いみたいですね。会社の喫煙所の前を通るたびに見かけますけど」
 あたしにはあまり縁のない場所だ。嫌悪感を示さない加島さんを少し意外に感じた。どこか潔癖なイメージを彼女に持っていたからかもしれない。
 角を曲がった蓮田さんの姿はもう見えなくなっていた。その代わり、あたしの視線はいつの間にか同じ通りに並ぶベーカリーレストランへと向けられ、そんな自分にうんざりする。会わないようにしているのは自分なのに、あたしはいつも遼佑くんのことを考えている。彼の姿を思うたび、彼との思い出が頭に過ぎるたび、胸が切なくて苦しくて泣きそうになるのだ。

 その時だった。
 これは幻? 夢? そのレストランから一人出てきた遼佑くんが見えた。難しそうな表情でタバコに火を付け、口に銜える彼の姿が目に焼きつく。どうして――。
 あたしは息の仕方も忘れてしまった。足が動かなくて、視線さえ外せない。
「緒方さん、どうかしました?」
 歩き出そうとしないあたしに加島さんが声を掛ける。
 我に返った。加島さんの方へ向き直る。だけどやはり体はなかなか動いてくれなくて、レストランの前に立っていた遼佑くんが気になって、彼女の後へ続くことに躊躇っている。
「あ……すみません、あの……」
 どうして遼佑くんの姿を見ただけで――。
「おい、見吉!」
 突然後ろからそんな声が聞こえて、あたしは言いかけていた言葉を失った。思わずもう一度彼の方へ振り向けば、レストランから出てきた男性が遼佑くんの肩に腕を回して絡んでいた。その口ぶりから同じ会社の人なのだと分かる。
「もしかして緒方さんの知り合いですか?」
「……はい。――あの、すみません、やっぱり今日はパスしていいですか」
 あたしはやっぱり遼佑くんのことが気になって仕方がなかった。
 加島さんも何となく分かっているように、あたしと後ろを見て微笑んで頷いた。
「分かりました。皆にはわたしから言っておきますね。蓮田さんにも」
「すみません、ありがとうございます」
 あたしは言って、急いで踵を返す。僅かに聞こえた背後の足音で、加島さんもすぐに居酒屋へ入ったのだと分かった。
 遼佑くんに見つかるわけにもいかなくて、一つ手前の角に入ってそっと伺うことにした。これではどこかのストーカーみたいで危ないのだけど、他に方法が分からなかったのだ。
 建物の影からそっと遼佑くんともう一人の会話を伺う。距離が少しあるので会話はあまり聞き取れないが、表情くらいははっきりと見て取れた。難しい顔をしているのはむしろ遼佑くんに声を掛けた人で、彼自身は無表情に近かった。彼が持っていたタバコは既に彼の足元で潰れていた。
「――からさ、こうして食事に誘ったんだろ。皆心配してるんだよ」
「……」
 遼佑くんは何も答えず、肩から腕を離した向かいに立つ男性を見ているだけだった。
「今のままじゃ――」
 溜息混じりに男性が遼佑くんに何かを囁いた。けれど遼佑くんは相変わらず表情を変えない。何を言われているんだろう。
 それに、どうやら今日は彼のための食事会みたいだ。彼に何かあったのだろうか。
 もう少し声を聞き取りたくて、あたしはそっと角から出て二人に近づいていく。あと数メートルで次の角がある。そこに隠れようと思った。その間にも二人は会話を交わしていて。
「本当に何があったんだ? こんなこと初めてだろう」
「別に……何もないですよ」
「でもなあ」
「仕事に支障を来たしているわけでもないですし、大丈夫です」
 男性は言い聞かすように大げさに溜息をついて言った。
「そういう問題じゃない。見吉が一番分かっているはずだ」
 そうだろう? 言って顔を上げた男性の視線が、不意にあたしを捕らえた。
 あ――。
 と思う間もなく、急にヒールが鳴らす甲高い靴音が耳に響いた。足を止めると遼佑くんもこちらに振り向き。
「遙?」
 驚く彼があたしを見つめた。
「知り合いか?」
 男性が問う。遼佑くんは困惑した表情を浮かべ、あたしはどんな顔をすれば良いか判断しかねた。泣きそうな顔になっていたかもしれない。心臓が膜を突き破りそうなほど激しく鼓動が鳴り始めたのだ。
「まあ、しっかりと頭冷やしとけ。来週からは頼むぞ」
「……」
 その言葉の意味するところはきっと、遼佑くんには伝わっていたのだろう。
 何も答えない彼を置いて、男性はあたしに軽く会釈をするとレストランへと戻っていった。

「……久しぶり」
 そう言ったあたしの声は、ひどく他人行儀に思えた。