act8.2
泣き疲れて戻ってきた自分のアパートの部屋がなんだか自分の場所じゃないみたいだったのに、今はもう彼と会う前のように一番安らげる場所になっていた。
ドアを開けてカバンを放り投げるように下ろすと、そのまま布団の上にダイブする。日曜日に天日干しした布団はすでにふわふわ感を失いつつあったけれど、それでもあたしの体重を受け止めて沈むくらいには柔らかかった。ほっと力を抜ける場所があるだけで、体を纏っていた疲労感は若干の充実感に変わってくれる。それが唯一の救いだったかもしれない。今日も仕事を頑張った。学生時代にやっていた部活後の達成感ともアルバイトでの満足感でもないもの。それを感じる時、あたしもオトナになったのかなあと思う。
「んー……眠い……」
枕に顔を埋めて一人呟いてみる。お腹も空いた。コンビニで買ってきたお弁当が今日の晩御飯だ。最近はまともに料理もしなくなった。一人だと面倒で、どうしても楽な方向へと走っていく。不経済的だと分かっていても、最近は前よりも仕事のことだけに没頭して、脳の疲れがそのまま体にも広がっているみたいに動くことさえ億劫に感じてしまうのだ。自分でも重症だと自覚している。
それもこれもすべてあの日からのことだった。あたしは一生懸命遼佑くんのことを忘れようとしているのだ。遼佑くんがあたしにした全てのことを考えないようにしている。例えばこうしてまどろんでいる時にもふと彼のことが脳裏に過ぎってしまうから。朝、無意識に今日の曜日を確認してしまうのも、彼と再会する前はあまりしなかったことなのに。
もぞもぞと体を起こして何度か瞬きをする。ぼんやりする意識の中でテーブルに置きっぱなしだった箱を持ち上げた。いつだったか遼佑くんがくれた指輪と彼の部屋の合鍵だ。とても重い意味を持つこれらが、いつまでもこのアパートにあるのも不自然な気がする。かといって返すために彼に会うのも気が引けるし、郵送なんて少し危ない。そもそも場所は知っているけど住所は知らないのだ。だからこっそり返しに行こうと思う。郵便受けにでも入れて終わり……である。
朋子と会うのは久しぶりだった。もともとそれほど頻繁に会うこともなかったのだけど、そういえば朋子と長いことメールはしていたけれど直接会うようになったのは遼佑くんと付き合うよになってからだった。
今日は朋子と純と三人で食事をする約束になっていた。朋子にはもう数週間遼佑くんと会っていないことは話していたので気を遣ってくれたのだろう。逆に順風満帆な彼らの邪魔になるからと断ったものの、やはりあたしは押しに弱いらしく、いつの間にか雨天決行的な勢いに乗せられていたのだった。
「遙、見吉さんと別れたんだって?」
シックな雰囲気の居酒屋で、注文し終えるなり純が事も何気にそんなことを聞いてきた。地下街にあるここは一つ一つの席が長い暖簾で通路と席を遮断した作りで、なかなかお洒落な所だった。あたしも朋子も一瞬顔を見合わせ、朋子は明らかに動揺していたけれど、あたしは純を睨みつけただけにした。この気軽さはやはり気心の知れた身内だからかもしれない。
「別れてない。ただ会ってないだけで」
「自然消滅狙ってるってこと? やっぱり別れたんじゃん」
あたしは何も言い返せなかった。確かにそれを狙っているのかもしれない。考えないことも無いけど、今は遼佑くんに関わる全てのことから逃げたくて考えないようにしていた。だって辛くなるのは分かっていたし、それがなぜかというのも知っているのだ。
「……純はどこまで聞いてるの?」
朋子にも詳しくは話していないけど、無理矢理キスをされたことは言っていた。たぶんそれだけで充分だった。けど純にしてみればそれだけで納得するかは分からない。イトコで幼馴染みだと言っても純とあたしは男と女で、一緒に遊んでいたのだって中学に上がる頃にはすっかりなくなっていたのだ。彼が何を経験してどんな価値観をもっているのかなんてあたしが知らないのと同じように、純だってあたしのことは知らないはずなのだ。
「どこまでって、ケンカしてそれきりってことだけだけど?」
不思議そうに小首を傾げる純を横に、「ケンカの内容は言ってないの」と朋子がこっそりと教えてくれた。
「っていうかそもそもさ、どうやって付き合うことになったわけ?」
「え?」
「だって遙、サバサバしてる割にそんなに積極的な性格でもないしさ。だとしたら見吉さんからだろ。でも見吉さんならもっと美人な彼女がいても不思議じゃないじゃん」
すると朋子も興味深そうにあたしを見やった。うっ、と思わず声を詰まらせる。いつか聞かれるんじゃないかと思って、実際何度か仕掛けられたけれどのらりくらりかわせていたのに。今は言わないとだめな気がした。
「あたしも気になってたんだよねぇ! 中学時代でも驚いてたけど、今だったら選り取り見取りそうだし、どうしてハルなのかなあって。だって同窓会で久しぶりに会ったんだよねえ?」
二人とも何気にあたしに失礼な事を言っているという自覚はないのだろう。
「お待たせしましたぁ」
元気よく女性の店員がやってきて、最初にビールとカクテルが運ばれ、間を置きながらお好み焼き、とん平焼き、から揚げ、出し巻き卵、エビチリ、チーズポテトなどなどがどかどかとテーブルを埋め尽くしていく。
料理が揃って箸を付けていく。それでも二人は話の続きを忘れることはなかったみたいだ。
「見吉君から何て言われたの? え、っていうか、見吉君っていつからハルのこと好きだったの?」
それは至極当然の疑問だと思う。あたしだって正直分からないのだ。それとなく言われた気はするものの、何が真実かなんて遼佑くん本人しか分からないのだ。
「彼女になって欲しいとは言われたけど、いつからなんて知らない……」
新田さんの姿が脳裏にチラつき、思わず顔を顰めそうになった。いくら彼女が違う人を選んだからと言って、遼佑くんの行動の理由は今までずっと新田さんに直結していたのだ。それがなんだか――。そういえば新田さんのことは二人に何一つ話していなかった。話す必要は……あるのだろうか。
「そう考えたら不思議だよなあ。遙だってそれまで見吉さんのこと意識してなかったんだろう?」
「うん――そうだね……」
それもそうだ。あたしにしか分からない真実がある。でもどうしてあの時、あたしはそのまま帰らなかったんだろう。中学生の時も、卒業してからも、あたしの中に見吉遼佑という人の影は映ってこなかった。だから本当に遼佑くんの言うとおり、あたしは自分が思っているよりも流されやすい人間だっただけなんだろう。だってあの時に残る必要も理由もなかったんだから。
「ただ、放っておけなかったんだよね」
「庇護欲? 母性本能みたいな?」
「よく分かんないけど。自己満足、かな。放っておいたら気になってしょうがないだろうって思って」
自分で言って、ドキリとした。
自己満足。それが全てを言い当てているような気がした。
あたしが遼佑くんを選んだもの、遼佑くんから逃げたのも。
遼佑くんがあたしを選んだのも、遼佑くん自身のためで。
だからもともとあたし達は自分達のためで。自分のことしか考えていなくて、見えていなかった。
きっとそれだけのことなんだろう。
新田さんが言っていたことを思い出した。優しい人なのだと。新田さんのことを第一に考えてくれる人なのだと。
その時あたしは、だから遼佑くんと新田さんは別れたのだと悟った。でもそれはあたしも同じで。
あたしにはできなかった。できていなかった。新田さんの婚約者のように、あたしには遼佑くんのことを考えてあげる器量なんてなかったのだ。それなのに遼佑くんが新田さんと別れたことに少しの優越感を覚えて――。
「あたしは遼佑くんのこと……好きだったのかな」
ぽつりと漏らした声に純も朋子も動かし続けていた箸をピタリと止めた。
「ええ!?」
「いやいや、意味分かんない。好きじゃなかったとか言うの?」
「ないよ。ないない。それ、ないから!」
きっぱりと否定する二人にあたしは力なく笑った。果たして本当にそうだろうか。あたし自身がこんなにも自信がないのに、どうしてそれほどはっきり言い切れるのだろう。
あたしは遼佑くんのことを好きだと思っていたけれど、それは特別な感情だったろうか。それさえも今では分からない。
遼佑くんと居た日々が色褪せてきて、何も分からなくなっていた。たった数週間離れているだけなのに。
もう本当にあたしは会わないで終わらせるつもりなんだろうか……。
居酒屋を出ると、あたしは二人と別れてそのままアパートへ帰ることにした。今日はどうも、頭が回らない。それはアルコールだけのせいじゃない。こんな時はすぐに眠ってしまうのが一番だ。食欲は充分に満たされたから、あたしは今幸せだ。たぶん。
アパートに着くと郵便ポストに入っていた数通のダイレクトメールを手にし、階段を上がる。ドアを開けてそれらをテーブルに置くと、特に何を見るでもなくテレビを付け、布団の上に腰を下ろす。あたしの部屋には遼佑くんの部屋のような立派な広さもソファもない。チャンネルを変えていき、けれどこの時間帯は特に興味のある番組もなく、芸人達が集まって盛り上がっているトーク番組でリモコンを置いた。テーマが何かは分からないけれどその話術や若干のオーバーアクションで出演者達は皆楽しそうに笑っている。
『――でコイツの嫁さん、よく見たらジャージだったんすよ』
『えっ、えっ、だってこんな大きなサングラスしてたんやろ? それでジャージ?』
『はい。しかも真水色のプーマです』
『お洒落やないかい』
『えー!?』
「あ……ジャージ」
唐突に遼佑くんの部屋にあったジャージを思い出した。泊まり始めた頃は彼のを着ていたけれどその内自分のジャージをパジャマ代わりに持っていっていたのだった。それをまだ戻していないことに気づいた。でもだからと言ってこっそり行って持って帰ることはできない。合鍵は既に返してしまってるからだ。遼佑くんが持ってきてくれたらとも思うが、彼にはアパートの場所さえ教えていなかったし、今更会うというのも……。
でも、どうなんだろう。気持ち悪くないのかなあ。それとも捨てたりしているんだろうか。気づいていないということは、ないだろうし。
「――まあいっか」
あたしはそっと目を閉じる。もう関係のないことだ。忘れてしまおう。