モーニング・キス

act8.1


 怖かった。
 無理矢理だった。
 今までも何をするにも強制的で、あたしはただ流されているような感覚だったけれど、遼佑くんもそれを狙っていたみたいだったけれど、無理矢理に何かをさせることなんて一度も無かった――そのことに、今さら気づいた。いつだって彼はあたしに選択肢を用意してくれていたのだ。部屋に泊まるときも出て行こうと思えばいつだってそうできたし、彼女になれと言われて嫌だと言いつつ無視を決め込まなかったのも、あたし自身が選んだことだった。
 そういえば、前にも新田さんの前で“見せつけ”のために無理矢理キスをされた時があった。あの時は確かに無理矢理だったのだけど……どうしてだろう。今日とは違ってあの時はそれほど無理矢理っていう感じじゃなかった。――きっと新田さんの前だったからだ。ちゃんと付き合っていたわけじゃなかったし、でもそう“見せなくちゃいけなかった”からだ。だから恐怖よりも優しさが強く伝わってきたんだと思う。
 涙が止まらなくて、それを力いっぱい止めようと摩っていたら、目元が痛くなってきた。きっと今あたしは酷い顔になっているんだろう。人の視線が怖くて顔を上げられない。だから住宅地の真ん中にある小さな児童公園に入り、ベンチに座ってただ泣いていた。バカみたいにただ泣くだけで、その先のことは考えられなかった。この児童公園は遼佑くんの家から一番近いスーパーにも近くて、だから結構人通りは多いのだけど、ここは駐車場とは反対の位置にある小さな一角だから気づく人はあまりいない。
 あたしはこの一ヶ月でこんなにもこの辺りの地理にも詳しくなって、料理のレパートリーも本を見ながら増やしていって、なのにどうして一番知るべき遼佑くんの気持ちがこんなにも見えないのだろう。どうして今になってあんな無理矢理なことをしてきたのか分からなくて。ただただ泣いている。
 本当に怖かったのだ。無理矢理に、力ずくだったことも、彼の表情も。
 全てが初めてあたしに向けられたもので、ただ怖くて、どうしたらいいのか考える間もなくあたしは外に飛び出していた。
 不思議と声は堪えられた。ただ漏れる息が喉に詰まって時折咳が出る。これが嗚咽なんだろうかと頭の隅で考える自分がいた。
 そうするとだんだんと落ち着いてきて、激しくなっていた呼吸もしだいに収まってきた。それと同時に回らなかった頭も徐々に働きを取り戻してきた。ぼやけていた足元が見えてくる。
「……あ、お金……」
 財布、というか荷物は全てバッグの中だ。彼の部屋に置いてきてしまっている。家の鍵ももちろんその中だった。とりあえず財布だけでもあればどうにかできるのに、あの時はそんなことを考える余裕も無かった。当然だ。完全にパニックに陥っていて今になってようやく思い出したくらいなんだから。
 でもどうしよう。また遼佑くんの部屋に戻るのは嫌だ。
 気まずいし、怖い。もうあんなことはされないかもしれないけど、どんな表情の遼佑くんの顔も見たくは無かった。怖い。ただそれだけが今のあたしの体を縛り付けていた。
 なのに、その反面で遼佑くんが迎えに来てくれないかと待っている自分もいるんだ。どうしてだろう。紳士的に現れる彼を望んで、それが何になるというのだろう。追いかけてくれることを期待して、それでも怖いなんて言って逃げて、それにいったい何の意味があるというのか。
 落ち着いてきたと思っていても、やっぱりまだ冷静には考えられそうにもない。これからどうするか、まだどうするべきか分からないでいる。
 ――寒い。
 冷たい風にようやく肌が気づいたみたいに、あたしは身震いをして、自分の体を抱きしめるようにして腕を摩る。もうそろそろ冬に入ろうとしている季節に、上着も羽織らずに外へ飛び出したあたしはやはり、何かを考えることなんて出来ないほど一杯一杯だったんだ。
 けれどどこかに入ろうにもこんな泣き顔を晒すようなことはしたくなかった。もう少しだけ。もう少し落ち着いて、涙も乾きだしたらここを出て、駅の近くのコンビニでも入ろう。コンビニだったら24時間空いているだろうし、いつだって行けるのだ。ただ問題は、いつ遼佑くんの部屋へ戻って財布を取ってくるかのタイミングなのだけれど……。
「……――か、遙!」
 呼ばれて思わず顔を上げた。遼佑くんの声がしたからだ。
 もしかして本当に追いかけてきてくれたの?
 立ち上がって振り返ると、肩で息をしながら首を左右に回している遼佑くんが、児童公園の入り口の前に見えた。
「りょ……っ」
 遼佑くん。そう言おうとして開いたあたしの口はそのまま声を失った。
「っ遙!!」
 一瞬殺した声を吐き出すように彼が叫んだ。立ち上がったあたしの視線と辺りを見回していた彼の視線が重なったからだ。それにしてもこれほど大きな声を張り上げる遼佑くんを初めて見た。
「良かった……っ」
 険しい顔から安堵した顔になって遼佑くんが児童公園に入ってくる。あたしは一度だって動くことも、声を発することさえできなかった。ただ遼佑くんが自分の方へ向かって歩いてくるのを黙って見ているだけだ。見ているというより眺めていると言った方が正確かもしれない。
「駅の方にはいなかったから、あとはこの辺りしかないと思って」
 確かに、あたしがこの辺りの地理に詳しくなったといってもせいぜい行動範囲は遼佑くんの部屋からそれほど離れた距離にはならない。駅に向かっていなければ反対側のこちらに足を向けるのは当然のことなのかもしれない。あたしには何も言えなかった。
「遙……さっきは急に、ごめん」
 あたしの目の前まで近づいてきた遼佑くんは両足をそろえて立ち止まると、勢いよく頭を下げてきた。突然のことに驚きながらもあたしは既視感を覚え、ああそうだ、と頭の隅に留まっていた記憶に辿りついた。彼が勝手にあたしの電話に出て純と話していたことに対して謝ってきた時も、こんなふうに頭を深く下げてきたのだ。その時のあたしは焦って頭を上げさせたけど、今は、それさえもどうしていいか分からないでいた。
 あたしが欲しかったのは彼の謝罪の言葉? 頭を下げてもらうこと? どちらも違う気がする。
 答えられないでいると彼はゆっくりと頭を上げて、伺うようにあたしを見る。
「自分でもガキみたいだったと思う。抑え、利かなかったんだ……あいつに見せる遙の笑顔とか思い出したらさ。俺たち中学は一緒だったけど全然付き合いとかなかったし、俺が強引に進めていった仲だから、遙の中では今でもあの頃とそんなに変わってないのかなとか思ったりして」
 不安だったんだ――遼佑くんはそう呟いた。けれどあたしにはほとんど届かない小さな声だったから、あたしはただぼうっと彼の告白を聞いていた。そんなことを言われてあたしは何と反応すれば良いのだろう。嬉しいの? 腹立たしいの? 自分の感情さえ把握できないでいる。止まりかけていた涙は再び目から溢れ出てきた。
「俺が怖い? もう、一緒にあの部屋へ帰れない?」
 あたしの指が振るえ、自分の唇に触れる。それと同時に一歩前へ足を出した遼佑くんがあたしの体を抱きしめた。
 息が止まるかと思った。
「……遙?」
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「――っ」
 怖い。
 なのに涙だけが流れて。
 彼の腕から逃げることも声を出して恐怖を伝えることもできない。
 だってそこは確かに暖かくて心地よい場所だったからだ。体がそれを知っている。
 けれどその体も心に合わせたように震えが止まらなかった。
 もういやだ。こわい。けれど。
 いつもそうだった。けれど、が必ず付いてくるんだ。
 苦しいのは嫌だ。怖いのは嫌だ。けれど――は、もう言いたくない。
 あたしは思い切り目を閉じて流れるだけ涙を流す。遼佑くんの胸に頭を押し付けて肩を震わせた。
「遙……」
 優しく背中を撫でる手が暖かい。
 その温もりを感じながら、ようやく声を出す。
「あたし――怖い……怖かった……っ」
 出た声は裏返った。
 うん、うん、と遼佑くんの手が何度もあたしの背中を往復して、その度に触れたところが熱くなる気がした。
「ごめん。もうしないから」
 優しい低音で遼佑くんがあたしの耳元で囁く。あたしはふるふると首を振ってそれを拒んだ。
 あたしが拒否したのだと分かった彼が息を呑むのが分かった。

 あたしと遼佑くんは黙ったまま部屋に戻り、何も言わないままあたしは一人荷物を持って部屋を出た。遼佑くんは一応玄関の外まで送ってくれたけど、言葉は何も交わさなかった。視線だけ向けられ、それでもあたしはずっと俯いたままそれさえも交わすことなく、背中を向ける。結局あたしは逃げたのかもしれない。
 さよならさえ言わないで。
 そして明日からきっと、もうこの駅で降りることもないのだろうという予感だけがしていた。予感――と言うには確実すぎるような未来を想像していただけかもしれないけれど。