モーニング・キス

act7.4


「ふぅ。疲れたぁ」
 帰るなりあたしはリビングの中央にどんと構えているソファに倒れこんだ。後ろからクスクスと笑いながら遼佑くんが入ってきて、あたしの横にお土産の入った袋を置き、ソファに背を預けてそのまま床に腰を下ろす。
 結局お土産を買いすぎたあたしは遼佑くんの部屋へ戻ることにした。大きなぬいぐるみはこのままこの部屋へ置いていてもらうつもりだ。
「確かに疲れたなあ。遙って結構衝動魔?」
「うーん、どうだろう。かなり考え込むけど、最終的には『まあいいか』で済ませちゃうかも」
 あたしはあまり自分が衝動買いをするタイプではないと思うけど、浪費家なのかもしれないとは思う。財布の中に余裕があれば楽天的に決めてしまうから、なるべくギリギリの金額しか入れないようにしているくらいだ。
「でも付き合うの、買い物だけで良かったの? 乗りたいやつとかあったら言ってほしかったのに」
 そうなのだ。最後に付き合ってもらう、と言ったのは結局お土産選びだけで、しかも会社の誰かとかじゃなくて自分達のだ。あたしが選んだものも何個か遼佑くんが払っていたし、どう考えてもやっぱりあたしは彼に気を遣わせてしまったんじゃないだろうかと思ってしまう。それでも頑張って割り勘まで話を持っていったんだけどなあ。意外に強情なんだもん、遼佑くん。
 それからパレードは二人だけで見た。花火が打ちあがるまでは残れなかったけど、それでもきらきらとしたステージにのってキャラクター達が踊るシーンはCMそのままで感動した。隣にいた遼佑くんはパレードを見ている間、ずっと手を握っていて。本当にデートなんだなって今更ながらにドキドキしたりして。音楽の振動で胸が高鳴っているのか自分自身の鼓動で震えているのか、正直判断に迷ったところだ。
 思い出して、またふふっと笑みがこぼれる。今日は本当に楽しかった。朋子と純も二人になってからなんだか良い雰囲気になったみたいで、帰りは始終遼佑くんとあたし、朋子と純で並んで歩いていた。行きとの違いに思わず可笑しくなった。
 それに尾上くん。彼に会うなんて思いもしなかったな。顔や体つきは大人びていたけど、やっぱり彼は彼のままで、あの笑顔を見られたのは少し嬉しかった。また同窓会とかしたいな。今度は高校の時の同窓会。でもきっと遼佑くんみたいに話しかけてくる人なんていないんだろうと思うと、変な気分だ。不思議な感じがする。
「こら、遙。ここで寝るなって」
 うとうとと久しぶりの疲労感で眠りそうになっていると、くしゃくしゃっと髪をかきまぜながら遼佑くんが声を掛けてきた。
 ふいに朋子があたし達を「親子みたい」と言ったのを思い出して、つい笑ってしまった。
「ふふ。ホントに遼佑くん、お父さんみたい」
 するといきなりソファにうつ伏せになっていた体を反転させられ、ぱちくりと目を開ければ目の前には遼佑くんの顔だけが視界に広がる。
 これはもしかしなくても……押し倒されてたりしますか。
「わっ」
 驚いて声を出して、けれどあっという間に塞がれてしまう。軽く音を立てて温もりが離れると、少し困ったような表情の遼佑くんがいて、そっとあたしの体を抱き起こす。
「だから父親は、こんなことしないだろ」
 そう言ってすっぽりとあたしを腕の中に収めると、こつん、とあたしの頭に遼佑くんの顎が乗っかる。その重みさえ心地よくて。
「……うん」
 あたしは目を閉じて、遼佑くんがあたしにそうしてくれるように、あたしも遼佑くんの広い背中に腕を回した。
 ああ、やばい。本格的に眠くなっちゃった。
 どちらからとも無くドクドクと鳴る鼓動が直接鼓膜から伝わってきてすごく安心するのだ。
「あのさ、遙……」
「ん?」
「その、今日会ったっていう同級生なんだけど」
 珍しく歯切れの悪い遼佑くんに、あたしはそっと首を持ち上げた。直接遼佑くんの顔を見上げられないから、今彼がどんな表情をしているのかは分からない。
「尾上くん?」
「そう、そいつさ、」
 ぎゅっと、あたしを抱きしめる腕に力が込められたのが分かった。自然とどちらの鼓動も早くなっていくのも、感じていた。
「遙の元彼……とかじゃないよな」
 あまりにも自信のなさそうな声で言うから、一瞬何を言われたのか分からなかった。
 けれど急に可笑しく思えて、くすっと肩を揺らして笑ってみせた。
「遼佑くんが初めてなの、知ってるくせに」
 変なの、と冗談めかして言ってみたけれど、それだけで遼佑くんの不安そうな声は変わらなかった。
「でも好きだったんじゃないのか、あいつのこと」
――どうして。
「……」
 あたしは息が詰まって、上手く答えられなかった。
「――どうして分かったの?」
 確かに高校生のあたしは尾上くんを好きだった。でも尾上くんは絶対にあたしを女の子として見てなくて、だからあたしは自分が「オンナとして見られない人間」なんだと自覚したのだけれど。
 たぶん遼佑くんは、そこまでは知らない。
 嫌な雰囲気だ。
 けれどそれが分かっていてもどうすることもできない。
「それくらい分かるよ。遙のカオ見てたら、嫌でも分かる。神田にもはぐらかされたし」
 遼佑くんは「神田の一言が決定打かな」とも呟いたけれど、あたしには朋子のどのセリフがそれだったのか検討もつかなかった。
「今も……?」
 少し震えた声が耳に触れ、あたしは聞き返した。
「え?」
「今も好きだから、あんなカオ、あいつに見せるんだ?」
「え、なに――?」
 何を言っているの。そう聞こうとしたけれど。
 それを紡ぐ言葉は呆気なく閉じ込められて。
 何度も執着に攻められて、あたしは息を吐き出すことで精一杯だった。気を抜けば崩れてしまうあたしの体を遼佑くん腕が辛うじて支えている。
 こんな荒々しい口付けは知らない。
 新田さんに見せ付けるときのキスだってこんなに酷いものじゃなかったのに。
 ねえ、どうして?
「……ぃっやあ……!」
 思わず逃げるあたしの体を、遼佑くんは許さないとでもいうように無理矢理引き寄せ、あたしはその温かな胸を押しのけるだけでしか抵抗できない。
「――いや、ぃやだって……っ、遼佑くっ……!」
 その内彼の唇は頬に移り、顎に移り、首筋に降りていく。
 流したくも無い涙が浮かんでは頬を伝い、その雫さえも遼佑くんは舐め取った。
 もう……やだ――!!

 パンッ

 気づけばあたしの右手が痺れていて。

「最低……っ」

 呆然とあたしを見つめる遼佑くんの顔が頭に焼き付いていて。

「……遙……」

 切ない低音の声が耳の奥に残っていて。


 けれど今、彼の姿も温もりも、目の前にはない。
 あたしは部屋を飛び出して、涙を流したまま駅へ向かっていた。
 それは全ていつの間にかのできごとだった。
 あまりに現実感の無い、一瞬だけのワンシーン。
 流れる涙の止め方さえ分からない。