Ich Liebe Sie

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 曲線が上手く描けない。直線だったら代用が出来るものはいくらでもあるのに、教科書に載っているような円がどうしても描けない。白いノートに消しカスが溜まっていくのを見た彼が笑って言った。
「なんだあ? 全然できてないじゃん」
 見ると彼のノートも真っ白だった。消しカスさえ無かった。私もニヤリと笑い返した。
「悠木くんは描いてもいないじゃない」
「いやあ、渡会の百面相が面白くて、つい」
 そう言って悠木くんはさらさらと鉛筆を動かし始めた。彼が描いた円は綺麗な楕円形だった。
 悠木くんは割りと器用に何でもこなせて、私はいつも見ているだけだ。今やっているサークルの課題だって、ただのラフ画を描くだけに私はかれこれ1時間も費やしていた。
「おっ、二人とも頑張ってるね」
 私がようやく歪んだ円を描き上げると同時に、明るい調子の声と共に部室の扉が勢いよく開けられた。入ってきたのは声と同じくらい明るい色の髪の毛が目立つ澤井先輩と、真っ直ぐに伸びた黒髪と白い肌を持つ純和風美人の野村先輩だ。二人は有名な公認カップルで、学部は違うのにいつも一緒にいる……気がする。
「先輩達は終わったんですか? 下絵」
 悠木くんが尋ねると澤井先輩が「まっさか!」と手を大きく振って否定した。野村先輩はいつでも澤井先輩の隣で微笑んでいる。
「俺達3回が1回生のキミらより暇なわけないっしょ」
「ですよねえ。あ、でも田中先輩は4回ですけどもう色選びに入ってるって言ってましたよ」
「いや、あの人はまあ、比べちゃいけない人だからね」
 澤井先輩は苦笑い気味に言って、部室の壁端に置いてあるロッカーから道具を取り出していく。ついでに野村先輩の分まで用意してあげているのを見ると、本当に仲が良いんだなと微笑ましくなる。
 少し気になって、私は横に居る悠木くんの顔を盗み見た。笑ってる彼の表情が切なく見えて、胸がチクリと痛んだ。――そんなふうに感じてしまう私は、相当重症なのかもしれない。

 帰る頃には辺りはもうほとんど暗くなっていた。大学から駅までは歩いて10分だ。それほど急ぐ必要も無く門を抜けた。駐車場は駅と反対方向にあるので、車で通学している澤井先輩と野村先輩とはいつも門の前で別れる。
「じゃあ今日もお疲れ。悠木、渡会さんをちゃんと送れよ」
「分かってますって」
 悠木くんが応えると澤井先輩は「そっか、お前ら付き合ってるんだっけ」と思い出したように笑った。私も悠木くんも曖昧に笑って頷いた。そんな私たちを照れているのだと判断したらしい澤井先輩はそこで話をやめて、「じゃあな」と手を振った。
 二人の並ぶ背中を少しだけ見届けたあと、悠木くんは静かに言った。
「そんじゃ、俺らも帰るか」
「うん」


 私と悠木くんは恋人同士。
 だけど私たちの想いはずっと一方通行だ。


 私が降りる駅に着くまで、私たちはいつも他愛のない話をする。今日受けた講義のことや、最近見たテレビ番組の内容や、もうすぐ公開する映画のことなど、特に意味のない話をする。そうする時間はあっという間で、ホームに降りたあと私はいつも物足りなさを感じてしまう。本当はもっと話していたい。一緒にいたい。でも、そんな欲を持ってしまったら限がない。だから精一杯の笑顔で言う言葉がある。
「また明日」
 悠木くんも笑ってそう言ってくれるから、今の私は充分幸せなんだ。
 笛が鳴って、ドアが閉まる。窓越しに手を振って、見えなくなったら私はようやく歩き始めることができる。彼に背を向けることがなぜか躊躇われるのだ。