月影

chapter 1


 嫌な予感は駅を出た時からあった。
 ずっと最近感じている視線。
 それは背後からじっと、自分を追い詰めていく。
 誰かも分からない、けれど確実に仕留めるような鋭い刃。
 そして、歩調を合わせて鳴り響く靴音。
 振り返ってもその正体は闇に紛れて、尚更恐怖心を煽るだけだった。
「はぁ……はぁ……」
 息が切れる。全力疾走しているわけでもないのに。心臓は激しく鼓動を打って。眩暈がしそうだ。
 コツコツ。トツトツ。繰り返される。音。
 誰か――誰でもいい……誰かここに現れて。助けて。
 そんな叫びは、もちろん声に出るはずもなく、荒くなる息遣いだけが漏れていく。
「っあ!」
 速めた足が突如バランスを崩した。高くもないヒールを滑らせたのだ。思わず手をついて、転がることは防げた。
 だが膝を突き、擦りむいてしまった。じんじんと痛むが、幸い血は出ていない。ストッキングが破れ、赤紫の痣が出来ていた。
「ぅっく……っ」
 泣きたい。
 実際、泣き出しそうだった。怖いのと、痛いのと、動けないのと。
 手も足も恐怖で震えていたことに今やっと気づいた。
 耳を澄ませば足音は近づいてくる。
 ひぐっ、と息を呑む。そのまま息を殺して、より鼓動は速さを増していった。ドクドクと耳の裏で聞こえてきそうなほどだ。
 それでも振り返ることは出来ずに、ただ立ち上がろうと足に力を入れてみる。痛みだけが走って、浮いた膝はそのまま地面へと戻る。
「大丈夫ですか?」
 不意に聞こえてきた声は、思いがけないほど優しい声音で。
 ゆっくりと止めていた息を吐き出す。まさか、この声の主が――?
「立てますか?」
 声が上から降りてきて、そっと目の前に手が差し出された。瞬時に違う、と理解する。この手は恐怖心を抱かせていた足音とは違う人物のものだ。上から聞こえてきた声は、この手の主だ。
「ああ、擦りむいていますね」
 男は赤くなった膝に目をやってそう言うと、差し伸ばした掌を裏返し、彼女の腕を掴んで強引に体を浮き上がらせた。
「あっ……」
 唐突に二本足で立たざるを得なくなり、慌てて踏ん張る。ズキリと右足に痛みが走った。痛さで顔が歪む。
 それでも何とか立ち上がった彼女を確認し、男は跪いた。膝の傷を見ているようだ。どうしていいか分からず、とりあえず男の行動を息を潜めて窺ってみる。
「良かった。大した傷じゃないですね。これくらいなら洗って絆創膏を貼るだけで充分ですよ」
 少し低めの声。
 そう言って体を起こし、立ち上がった男はずっと長身で、目を合わせるには顎を軽く上向かせなければならなかった。
 前髪で隠れそうな目は穏やかな印象を受ける一重。意外に鼻筋は通っており、なかなか目の向けられる顔立ちをしていると、街灯の明りが頼りのこの状況でも分かった。
「他にどこか痛むところでも?」
 一言も発しない彼女を心配そうに見つめて、男は首をかしげた。
「あ、いえ、」
 何でもない、と言おうとして一歩後ずさる。右足を後ろへ下げれば、足首に重い痛みを感じた。
 その痛みは当然顔にも出ていたようだ。男は体を回して再び跪いた。男の手が足首に触れて、心臓が止まるかと思った。
「まだ腫れてはないみたいですけど、転んだ時に捻ったのかもしれませんね。歩けますか?」
 跪いたまま男に問われ、反射的に首を縦に振る。しかし男はその仕草の意味を信じなかったようだ。
「家はこの近くですか? 送りますよ」
 僕の家もこの近くなので、とにっこり微笑んで、男は立ち上がった。転んだ時に落とした彼女のバッグを持ち上げる。
「家の前までじゃなくても良いですし。助けたよしみで送らせてください、ね」
 強引、という印象は受けなかった。
 けれどその口調はどこともなく強制力があった。
 彼女は小さな声で地名を答えた。そこは駅から離れていないこの場所から、あまり近いとは言えなかった。しかしバスを使うほど遠いとも感じなかった彼女は、ここへ越してからずっと徒歩で通っていた。
 男は少し考えるように顎に手を当てた。
「それじゃあ僕の家の方が近いですね。良かったら先に手当てをしましょう」
「え?」
 驚きの声を上げる彼女に、男は変わらない笑みを向けた。相手を安心させる優しい表情だ。
「その足で歩くには少し辛い距離ですし。小さいですが車も出せます。効率を考えても有効的だと思いませんか?」
 それは――そうかもしれない、と思った。
 だが、良いのだろうか。大丈夫なのだろうか。
 この状態であったとしても、初めて会った見ず知らずの男の部屋に行くというのは。
 そんな彼女の思いが彼にも伝わったのか、ああそうか、と何かに気づいたように呟いた。
「大丈夫ですよ、手当て以外の何もしないと誓います。何なら、手当ても玄関の前でやりましょうか。部屋に上がるわけでもないし、その方が安心でしょう?」
 男の優しさに少し安心感を覚え、やっと彼女は初めて呼吸を再開できたような気がした。
「それじゃあお言葉に甘えて……お願いします」
 強張った頬の筋肉が緩んで、その日初めて、彼女は笑顔を浮かべた。

 男の家へ向かう間、彼女は痛む足を庇うために男の腕をつかませて貰うことにした。その中で二人はお互いに軽く自己紹介をしあった。男は筵井高歩(むしろい たかほ)と名乗り、高校教師をしているという。
 なるほど、面倒見の良さそうな雰囲気は、確かに身に覚えのあるものだと感じた。それに公務員ならば多少の安心感を覚えられる。テレビでの汚職事件などが増えたとて、やはりそれはごく一部の人間であり、身近な教師をそういう対象として捕らえることは基本的にないものなのだろう。
「あたしは乙瀬和葉(おつせ かずは)といいます」
「大学生?」
「あ、いえ、働いてます」
 なぜか和葉は恥ずかしくなり、視線を落として俯いた。友人の中には確かにまだ学生の子も多く、そう見られて当然の年齢あるには違いない。実際には学生に見られないことの方が少ないのだが。
「あたし、専門学校だったんで」
「ああ、そうなですか。どっちにしろ僕からしてみたら若いことには変わらないですけど」
 そう言って高歩は笑って、和葉もつられて小さく微笑んだ。
「何の専門学校に通ってたんですか?」
「情報というか、平たく言えばコンピュータですかね」
「へえ! じゃあ仕事もプログラミング系の?」
「というよりは、デザインの方です。今の会社も広告代理店みたいなもので」
 そんなふうに他愛もなく話しているうちに、すぐに男が暮らすというマンションが見えてきた。14階建ての高層マンションだ。その7階に男は住んでいると言った。
 オートロック式のマンションで、内装もしっかりと清掃されている。
 エレベータで7階まで上がり、男の部屋は非常階段のすぐ手前にあった。
 鍵を開け、玄関先に和葉を座らせる。高歩はそのまま奥の部屋へ姿を消して救急箱を手に戻ってきた。本当に部屋へは上がらせないようだ。そのことにほっとしつつ、手際よい高歩の処置をただ黙って見ていた。
「筵井さんは、どうして教師に?」
 絆創膏ではなくガーゼを膝に当てる高歩に和葉は話しかけた。
「んー、特に深い意味は……。ただ子どもが好きだったから、かな」
 そう言った後に高歩は「ああ、ちょっと違うな」と首を横に振った。
「本当は昔、担任の先生に勧められたからなんですよ。高校の時にね、進学するか就職するか悩んでた時に。それが最初のきっかけかな」
「良い先生だったんですね」
「……ええ、本当に」
 高歩は膝の手当てを終えると、次は和葉の足首を持ち上げて湿布を貼り、包帯を巻き始める。
 それも終了すると、救急箱を端に寄せ、高歩は姿勢を正した。
 てっきりすぐにでも送ってくれるのかと思っていた和葉は、戸惑いつつも彼が立ち上がるのを待った。
 しかし高歩は腰を上げる気配は見せず、先ほどまでの穏やかな表情のまま、和葉を見つめた。
「何か、されたんですか?」
「え?」
 一瞬彼が何を言っているのか分からなかった。
「あ……」
 思い出した途端、静かだった鼓動が再び騒ぎ始めた。
 見抜かれていたのか、と怖さと恥ずかしさで、どうしていいの分からなくなる。
 できれば思い出したくなかった。忘れたままでよかったのに。
「僕でよければ力になりますよ」
 高歩の口調は確かにはっきりと、力強く聞こえた。嬉しいと思った。
 なのに。出た言葉は。
「大丈夫です。大したことじゃないし、気のせいかもしれませんし……」
 縋りたい思いとは裏腹の意味を成しているものだった。
 誰でもいいから助けて、と願ったのは間違いなく自分だった。ほんの十数分前のことだ。
 いつものジレンマが生まれて和葉はうんざりとした。
「大丈夫じゃないでしょ」
 それでも高歩はしっかりと和葉の目を見て言った。
「大丈夫な人は、そんなに辛そうな顔はしないですよ」
 優しい声が降り注がれて。
 ああ――と和葉は予感がした。
 その予感は、たいてい当たることはない。