月影

chapter 2


 あまりにも高歩の視線が真っ直ぐと来れるので、和葉はそれに後押しをされて、ようやく口を開いた。
「実は最近、誰かに後を着けられているような気がして……」
 このことを言ったのは高歩が初めてだった。
 最初は気のせいかと思っていた。今もそうであってほしいと信じている。
 しかし毎日訪れる重なる靴音は決して気のせいではなく、幻でもなかった。確信したのはほんの数日前だ。
 知らないふりを決め込んでいた和葉だったが、靴の中に違和感を覚えて立ち止まった。たったそれだけのほんの些細な事だったけれど、確かに後ろの足音も止まったことに気づいた。次に早く歩き出せば同じ歩調で負ってくる。アパートの前の公園付近でようやく、その気配はなくなっているのだった。
 目的は分からない。知らなくてもいい。ただあの恐怖が毎日のように続くことだけは耐えられない。
「――それってストーカー、ですよね……? 警察には?」
 俯く和葉の視線を逃さないというように高歩は彼女の腕を掴み、覗き込む。手が震えていた。
 肩もだ。
「行ってないんですか?」
 青褪めていく和葉の表情が全てを物語っているように思えた。高歩はギリッ、と奥歯を噛んだ。
「どうして行ってないんですか!」
「っ!」
 責め立てるような高歩の声に和葉は目を見開いて怯えだす。強く握られた腕に高歩の指が食い込んで、痛い。怖い。
 どうして彼に怒鳴られたのか、和葉には分からなかった。
 ただその瞬間、息が出来なくなったのは事実だ。息苦しさを感じ、肩で呼吸を繰り返す。
 高歩はその姿を見て、慌てて腕を掴む力を緩めた。軽く過呼吸状態に陥ってしまった彼女の背中を優しく摩り、何度も謝罪した。
「すみません、つい大きな声を……。脅かすつもりはなかったんです。本当にすみません……」
 幾度となくゆっくりと和葉の背中に手を当てて上下に撫でる。そうしているうちにふと気づいた。標準よりも痩せた背中は、もともとの体形ではないのかもしれない。なぜそう思ったのかは勘だとしか言いようがない。けれど、そう思えば今の反応もすんなりと受け入れることが出来た。
 当然高歩は男で、夜に恐怖を感じることなどなかったが、和葉は違う。女だ。その非力さゆえ目に見えない相手に恐怖し、臆することはあるだろう。警察とて万能と言うわけでもなく、申告したところでパトロール警戒をほんの少し念入りにしてくれる程度だ。それで安心しきれるのならそこまで怯えたりしないだろう。
 そう思えば思うほど、高歩は和葉がか弱く思えた。ここで抱きしめてしまえば簡単に体を折ってしまいそうな。
 生徒相手にするように接してみればきっと社会人の相手には失礼になるだろう。高歩は自分が出来る精一杯の笑みを浮かべて背中を摩り続けた。
 笑顔一つで少しでも和葉の緊張が解れればと思った。
「大丈夫……大丈夫……」
 和葉に言い聞かせるよう、高歩は何度も同じ言葉を繰り返した。大丈夫。ゆっくり息を吸って、吐いて。
 相変わらず手の震えは残っていたけれど。
 ようやく落ち着き始めた和葉の様子を見て、高歩は摩っていた手を背中から離した。
 けれど、このまま帰せるわけがない。こんな不安定な状態で帰すなどとは。
「乙瀬さん」
 囁くように高歩は言った。
「いつも帰りはこの時間ですか?」
「え……? そう、ですけど」
 高歩の質問の真意が掴めないまま和葉は頷く。
「分かりました。明日から送って行きます。駅で待ち合わせをして一緒に帰りましょう」
「え!? それってどういう……」
「どうって、そのままの意味ですが」
 戸惑う和葉をよそに、高歩はそれがさも当然であるかのようにキョトンと首をかしげる。いやいやいや、と和葉は首を横に振った。
 まず第一に、分かりました、という意味が分からない。今までの会話の中で何が分かって、そういう結論に至ったのだろうか。
「明日からも同じ道を一人で歩くのは不安でしょう? だから家まで、嫌ならその手前でもいいです、近くまで僕が送っていきます。その方が安心じゃないですか? 用心棒とでも思ってください」
 高歩の思いがけない申し出に和葉は目を丸くして驚いた。初めて会った人のためにそこまでするなんて、お人好しもいいとこだ。
「そんなっ、悪いです! 今までも大丈夫だったんですから、もっとあたしが気をつければ」
「だめです。現に今日は怪我までしてるじゃないですか」
 それはやはり自分が勝手に転んだだけだ――と和葉は恥ずかしくなったが、高歩にそういった意味は無論ない。真剣に言っているのだ。
 教師という仕事柄と言うよりも、これは生まれもった性格なんだ、と彼自身は理解していた。
 ただ単純に和葉を放っておけないのだ。それだけだ。
「良いですね、絶対明日、待っててくださいね」
 一言一言ゆっくりと区切って、幼い子どもに言い聞かせるような口調で高歩は和葉に念を押した。
 そしてまだ戸惑いを隠せない彼女に、自分の携帯電話のアドレスと番号を書いたメモの切れ端を握らせる。あいにく、滅多に使わない名刺はついこの間切らしたばかりだった。
 使命感にも似た感情が高歩に生まれる。高歩にとってはすっかり慣れた感情だった。
 高歩は立ち上がり、和葉を抱き起こした。玄関のドアを開け、腕を引いて彼女を誘導する。その仕草は自然で、和葉は自分がエスコートされていることにしばらく違和感を覚えなかった。


「……どうしたんだよ、乙瀬」
 定食屋を出ると、日差しの強い空が二人を頭上から照らしていた。その気温差に顔を顰めながら、え? と和葉は振り返る。
 後ろから出てきたのは同期入社した鴫野大典(しぎの だいすけ)だ。大学を卒業した大典と年は2つ離れているが、まったくそんなことは関係なく馬の合う仲間として、入社式からよく話す仲だった。
「どうしたって、何が?」
 呆れた顔をする大典のその表情は、本当に呆れているのか、ただ熱さにやられているだけなのか、和葉は今ひとつ判断できないでいた。梅雨明けも未だしてないというのに空はカラリと乾いて、太陽は燦々と地上を照らしてる。
「や、今日ずっと機嫌良いじゃん。何かあったのかと思って」
「ああ。うん、昨日ね」
 そう言って昨夜知り合った高校教師のことを話してしまおうかと思った和葉だったが、しかし、と思いなおした。
 大典には最近誰かにつけられているらしい、という話を一切していなかった。誰に話すつもりもなかったし、やり過ごせるのならそれが一番だと思っていたからだ。だが、彼のことを話すとなると、そこからまず話さなければならなくなる。
「昨日何かあったのか?」
 ふと言葉を止めた和葉に首を傾けて大典が尋ねる。和葉は少し悩んで、首を横に振った。大典に仕事のこと以外で心配させるのは気が引けた。
「うん、ちょっとね、良い人に会ったの」
「良い人って?」
「や、別に深い意味はないよ? かっこいい人を見つけたってだけで。シギもあるでしょ、普通に可愛い子とすれ違ったりするとちょっと気分が明るくなるの。そんな感じ」
「よく分かんねーよ」
 大典は腑に落ちない様子で腕を頭の後ろに組んだ。それにしても日差しが眩しく、目を細める。
「分からなくていいよ、別に」
 その和葉の言葉に大典はさらに顔を歪めた。ムッと眉根を寄せて目の前にある和葉の後頭部を睨みつける。
 関係を切り離されたようなこの感情は、和葉に対してよく感じるものでもあった。和葉にしてみれば大した意味はないのだろうけれど。
 だからこういう時は決まって嫌味のひとつでも言いたくなるのだ。
「そういや最近彼氏とは上手くいってるのか」
「彼氏?」
 振り向きもせずに和葉は問い返した。
「専門学校の時から付き合ってる彼氏がいるって言ってたろ。乙瀬と同い年の」
「ああ……。別れたよ? 言ってなかったっけ」
「……はい?」
 あまりにもさらりと言われて、大典は思わず声を裏返した。
「聞いてないけど。なんで? どっちから?」
 大典は和葉の前に回りこみ、その顔を見つめた。和葉は面倒臭そうに視線を右下にやった。
「どっちかっていうとあたしになるのかな、別れようって言い出したのは。――でもその前からもともと、そんな感じだったのよ。お互いマメに連絡取り合うほうじゃなかったけど、卒業して、仕事し始めてからは特に。だから、こんな状態で続けても、と思ったし。実際今は彼氏より仕事の方があたしにとっては大事だったから」
 一気に言い終えると、もういいでしょ、と和葉は強引に話を打ち切った。大典もそれ以上は聞かなかった。
 ただ、それだけなのだろうか、と大典は思う。新人研修の時からずっと和葉の傍にいた大典は、彼女がどんな人間なのか、ある程度は把握しているつもりだ。学生時代の話から将来の夢、恋愛話まで一通りはしたはずだった。
 その中で大典は、今の和葉の態度は思い切り不自然に感じて、仕方なかった。
「……そんなあっさりに終わらせられるようなものだったのかよ」
 答えは知っている。それでも大典は声に出さずに入られなかった。和葉に聞かれないよう、そっと呟くしかできなかったが。
 それでも、問いかけられずに入られなかった。
 和葉も大典の言いたいことは分かっている。背中に感じるもの言いたげな視線の意味を理解していた。
 けれど答えるつもりは毛頭なかった。もう終わったことなのだ。二人とも納得した。だから終われたのだ。
 それを今更大典に……何と言えば良いと言うのだろう。
 もう、終わったことだ。

 終わったことだ。
 あの頃のことは全て。終わっている。