月影

chapter 3


 改札口を出て、正面にあるドラッグストアの前に立つ彼の姿を見て、和葉は驚きと安堵を同時に覚えた。昨夜初めて出会ったのだが、高歩は「明日から家まで送る」という言葉を確かに実行するようだ。
「すみません、遅くなりました」
 和葉が小さく走ってくると、それに気づいた高歩は軽く手を上げて微笑んだ。
「いえ。今日は遅かったですね。それともやはり昨日は早めでしたか?」
 それほど待ってはいないという意味で高歩は首を横に振った。和葉は困ったように「あー」と低い声を洩らし、髪を耳の後ろへかき上げる。
「今日は少し遅くなりました」
 僅かに頭を下げて和葉が言うと、そうか、と肩を下ろした高歩が笑みを濃くした。
「そうか。本当は無視されてたらどうしようかと思ってたんですよ。ほら、さすがに急すぎて、信じてもらえてなかったかな、なんて」
 そうして自信なさげに笑う彼を見つめながら和葉は、あれだけ信じろと言ったのは高歩なのに、と思う。
 それでもほっとした彼の表情を見れば、素通りしないで良かったと思えた。
 店が並ぶ駅前から離れ、横断歩道を横切って住宅街へと入っていく。空は既に闇に溶けて見えない。確かにこの暗さで閑静な道を歩くのは、さぞ心細かったろう。
 彼女が一人暮らしであることは、昨夜車で送っていった高歩はすでに分かっていた。
「一人暮らしですよね。ご実家はどちらなんですか?」
「あ……、両親はいなくて。生まれはこっちなんですが」
「あ、そうだったんですか。すみません」
 慌てて謝る高歩に和葉は首を横に振って微笑んで見せた。社会人になってこういった会話の流れはすっかり慣れている。
「あたしの方が珍しいケースなので、気にしないでください。筵井さんのご実家はどちらなんですか?」
「僕は和歌山です。大学進学のときに出てきて、そのままって感じですね」
「へぇ」
 珍しいな、と思った。関西圏の出身の人間は社内にも数名いるが、和歌山の人はいなかった気がする。
 などという他愛のない話をしていると、あっという間にアパート前の公園まで到着した。
 昨日まではあれほど長いと感じていた道のりも、二人で話していると呆気なく短い。高歩の提案に、和葉は心から感謝した。後ろが気にならない帰り道は久しぶりで、いつ以来だったか、はっきり思い出せない。
「ありがとうございました」
 ペコリと丁寧に頭を下げる和葉に、慌てて高歩は腕を横に振った。人として見過ごせない状況の彼女を送っただけだ、と早口で捲くし立てたが、和葉にはあまり伝わっていないようだ。彼女はとんでもない、と再び小さくお辞儀をする。
「あの、また明日も、一緒に帰ってくれますか?」
「それはもちろん! というか、本当に警察に相談した方がいいですよ。なんだったら僕も着いていきますから。ほとぼりが冷めるまで送っていきますし」
 真剣な顔でそういう高歩を見て、ああ本当にこの人は良い人なんだな、と感心した。安心した。
 はい、と小さく頷いて、もう一度お礼の言葉を述べる。
「それじゃあ、また明日」
 約束の意味を込めて高歩が言い、
「はい。また明日、よろしくお願いします」
 それに和葉が答える。
 彼女の姿が見えなくなるまで高歩は見送り、それからようやく踵を返した。戻る道の途中、どこにも人の気配はなかった。

 次の日もその次の日も、相変わらず和葉が改札を出ると高歩の姿をそこで見つけることになった。その度に和葉は緊張と安堵を覚え、その割合は確実に後者が増していっていることも、自覚していた。良かった、今日も大丈夫だ、と思える。
 それが一週間、二週間と続けば、さすがにようやく、僅かな申し訳なさも芽生えてくるのは人として当然かもしれなかった。
「あの、本当にいつもありがとうございます」
 今日も今日とて他愛のない会話で沈黙を避けつつ、あっという間に着いてしまった公園の前で、和葉はいつものように丁寧に頭を下げて礼を言った。
「いいえ。それに僕もこうして一緒に帰ってくれる人がいて楽しいくらいです。不謹慎かもしれませんけど」
 警察には既に高歩に連れられて行っていた。けれどやはり、悪戯電話を録音しているわけでも不審物が投函されているわけでもないなど、確実な要素がない和葉のケースでは望んでいた解決策を提示されることはなかった。高歩の予想通り、パトロールの巡回頻度を僅かに増やすことを口約束してくれた程度で、だからこうして高歩は和葉の不安が完全に取れるまで付き合うことを約束してくれたのだ。
 その人の良さに感謝と敬意と尊敬の念すら抱く。
「一度何かお礼をさせてください」
 だから他意はなく、純粋にそうしたくて、和葉は言ったのだが。
 その言動は高歩には意外の何物でもなかったように驚きの表情を見せた。
「えっ、そんな、いいですよ。僕が勝手にしてるんですから。乙瀬さんは自分のことだけ考えてください」
「でもそれじゃあ、何だか落ち着かないんです。だって筵井さん、こうして送ってくださってるってことは、平日の夜は予定を入れられないってことじゃないですか。だとしたら悪いなって……」
 焦ると早口になるのは和葉の悪い癖だった。何度か話しているうちに、もともと人のことをよく見る性質の高歩は、とうに承知していることだった。だからその時は普段よりも穏やかな口調に気をつける。
「それを言うなら乙瀬さんだって同じでしょう。僕が待っていると思って予定を入れられないんじゃないですか?」
 だから気にしなくて良いんです、とにっこりと笑えば、和葉は困ったように眉根を寄せた。
 さすが教師か、良いように言い包められている感じがしてならない。
 和葉はどうしようかと考えて、けれどそこまでする必要があるのかと自分に問いかけ、すぐに辿りついた答えはひどく簡単なものだった。
「あの――」
「どうしてもと言うなら、一度見てみたかった映画があるんですけどね」
 和葉と被さった高歩の言葉は、やはり彼の優しさだった。
 和葉は喜んでその優しさに乗り、次の休みに会う約束を取り付けた。それこそ高歩の恋人に悪いと思いつつ、彼が年上で温和な――和葉の好みのど真ん中のタイプであることが、彼女を少し大胆にした。
「楽しみにしています。お休みなさい」
「お休みなさい」
 そうしてまた高歩は和葉を見届けてから、ようやくその場から離れる。ざわざわ、と今日はやけに風が強く感じた。


 大典が所属する営業部に、企画部の和葉が顔を出すのは珍しいことではなかった。
「承認印、よろしいですか?」
 広告を商品として生業にしているこの会社では、企画部と営業部は同じフロアに置かれるほどには繋がりのある部署だ。
 発注書を片手に和葉はそのエリア担当者の所へ寄り、その戻り際に大典を呼び出した。
「何だよ? 仕事中に珍しいな」
「うん。今日は昼当番だから話せないと思って」
「何、デートのお誘いとか?」
 冗談めいた大典の口調に、和葉は確かに冗談と受け取ったようだ。短く笑って素っ気無く「違う違う」と手を振った。
「寧ろその逆。シギのツテを借りたいなぁと」
「……またかよ」
 屈託なく笑顔を見せる和葉に、大典は呆れたように彼女を見下ろし、前髪をかき上げた。職業柄、得られるものは営業のテクニックや業界の知識だけではないことは、和葉も大典も心得ていた。
「で、今度は何? 前にみたいに電化製品は勘弁してくれよ。俺だってまだ新人なんだから」
「ああ、うん。前はちょっと調子に乗りすぎた。まさか本気にしてくれるとは思わなかったから。ごめん。今回は映画のチケットだけだから」
 顔の前で両手を合わせれば、もういいけど、と大典は許してくれる。呆れた顔は一向に消える気配はないけれど。
「ていうか乙瀬、別れたばかりなんだろ? 誰と行くんだよ?」
 何気なく不思議に思ったことを口にしてみれば、和葉は今までに見せたことのない、はにかんだような表情を浮かべた。失敗したかな、と大典は少しばかり後悔する。
「実は最近、超タイプの人と知り合ったの! あっ、でも付き合いたいとかそんなんじゃなくて、憧れの人っていうか。本当にかっこいい人なんだよ。優しいし。年上の、落ち着いた感じで」
 どうやって知り合ったかは、やはり口に出来なかったが、高歩に惹かれた部分を上げればきりがないほどには話したかった。同期の女の子達に話すのも良いが、恋愛云々なしで聞いてもらいたいときは、大典が一番の適任者のように思えた。
「それは良かったな。それじゃあちょっと様子窺ってくるけど。期待はするなよ」
 はしゃぐように笑顔を見せる和葉を見て、高歩はほっと息を吐いた。
「うん、ありがと!」
 良かった、と思う。数週間前までは高歩が心配する程度には顔色の悪かった和葉が、今はこうして笑顔を見せれることが、本当に良かったと思う。それが最近知り合ったという年上の男のおかげということに、少し引っかかりを覚えるけれど。素直に良かったと思った。
 大典はこの年下の同期を、普段は全く気にならないのだが、ふとした瞬間に妹のように見える。守ってやらなければ、という気になるのだった。