月影

chapter 4


 浮かれている、という自覚はあった。すっかり悩み事なんて忘れて、舞い上がっている自分に気づいていた。
 それでも止まらなかった。だから仕方ない、と言い聞かせる。それだけで納得できた。
「ああ、そういえば明日か」
 大典が上機嫌な和葉を横目で見て、ふと思い出したように呟いた。和葉が出会ったという好みの男とのデートは、確かに翌日まで迫っていた。
「この前までみたいに落ち込んでるよりは良いと思うけどさ」
 何かを含めた言い方の大典を見上げ、和葉は「ん?」と小首を傾げる。
「浮かれるのはとりあえず、仕事終わってからにしろよ。そこの画面、さっきからずっとエラー出てる」
 指差されたパソコンのディスプレイを改めて見つめなおして、和葉は慌てて緩みっぱなしだった脳を回転させた。
「ああぁ! 昨日までの努力が!」
「……俺知らねっと」
 大典は頭を抱える彼女から視線を逸らし、そそくさとその場を後にする。和葉はそんな大典に目もくれず、涙目になりながらキーボードを高速スピードで叩き始めた。単純作業とはいえ、同じことをまた一からやり直すのはかなりの労力が必要なのだ。


 デート、といえば日曜日というのは、和葉の勝手なイメージだ。
 部活動があるので土日も休みはほとんどないんだ、という高歩は、会議もない火曜日を指定してきた。週明けすぐの平日の夜に普段使わない駅で待ち合わせをするというのもなんだか和葉には新鮮で、余計に気分が高まっていたのだろう。
 相変わらず高歩は和葉が来るよりも早く着いている。彼女の姿を認めると軽く手を上げた。和葉も同じように小さく手を振って駆け寄る。
「すみません、僕の都合に合わせてもらって。迷いませんでしたか?」
 無理矢理誘ったのは和葉の方だというのに、気遣う言葉をかけられる高歩は優しいと思う。そんなところにもうっとりとしながら、和葉は慌てて首を横に振った。
「いえ、こちらこそ付き合っていただけて嬉しいです。い、行きましょう、か」
 ぎこちなく、口調が不自然になってしまったのは仕方のないことだろう。優しく、整った顔立ちで、年上らしく落ち着きの払った気遣いを見せられれば、和葉がとる反応としては当然とも言えるものなのだ。
 こうして肩を並べて歩くのはほぼ毎日していることのはずなのに、場所が違うというそれだけのことで、和葉は普段よりも高ぶった気持ちを隠すことが難しくなっていた。不自然なほど饒舌になり、今まで見た映画の話や役者の話をとりとめもなく高歩に聞かせた。彼もそんな和葉に優しい眼差しを向けながら耳を傾けてくれるので、余計に口が普段以上に動いたのかもしれない。
 結局和葉が口を閉じて息を吐いたのは、映画館に着いた後だった。座席に腰を下ろし、薄暗い館内の中でようやく落ち着けたと思った。
 ほう、と肩を下ろした和葉を見つめ、ふふっと高歩は笑った。途端に和葉は恥ずかしくなって、赤くなった顔を隠すように自分の頬を触れた。
「あはっ。煩かったですか?」
「いや。楽しかったですよ」
 自分でも喋りすぎたかと思っていたから、高歩が気分を害していないようでほっと胸を撫で下ろした。
 そこで館内にブザーが鳴り、照明が落ちる。お互いに自然と口を閉じた。顔は正面を向いて一言も話さない。
 居心地が良い、と思った。こうして隣に座っているのに映画に集中できることも、不意に肘が触れた瞬間そこに熱を持ったことも、胸の高鳴りも嫌ではない。むしろこの心地良さは以前から知っているものに似ていた。
 映画館で映画を見るのは何年ぶりだろうか。本を読んだりドラマを見たり、和葉はフィクションに触れることが幼い頃から大好きだった。父はよくそんな和葉に絵本を買ってくれて、すぐに読み終えてしまう彼女はいつも自慢げに、寝る前に読んだ本のあらすじや感想を言って聞かせた。「もう読んだのか、すごいな」「面白いね」「今度はどんな話を聞かせてくれる?」と父が優しく頭を撫でてくれることも、和葉が本を夢中になって読んだ一つの要因ではあった。
 そういえば、とスクリーンに流れる予告を見つめながら思い出した。初めて和葉が映画館に足を運んだのは小学校低学年の頃だった。久しぶりの父の休日に、子供向けのアニメ映画が調度公開されたばかりだったのを知っていた和葉がせがんだのだ。それまであまり我侭を言わない子どもだった和葉だったが、そのアニメはなぜか好きで、玩具や人形なども欲しくて、持っている友人がいれば羨んだりした。
 急にそんなことを思い出したのは久しぶりに見たアニメ映画の予告のためでもあるが、隣に座る高歩の雰囲気とかつての父のそれと重なって見えたからだとも思う。見た目はむしろ正反対で、性格も父は優しいというよりは寡黙で厳しいという印象の方が強く、ダブって見えることは今までなかったのだが。
 ほんの一瞬でも印象が重なって見えたことが可笑しかった。父の優しさは高歩の柔らかなイメージとは違って見えていたのに。
 だからかな、とも考え直す。そんな高歩だから、和葉は初めて会ったときから心惹かれるものを彼から感じていたのかもしれない。
 それは心地良く、気恥ずかしく、くすぐったかった。
 映画館の後は食事を済ませた。気の利いたお洒落なレストランを和葉は知らないため手軽なファミリーレストランに寄ることになったが、気兼ねなくて良いと高歩は微笑んだ。
 普段の駅に着いた頃にはすっかり遅くなってしまっていた。そもそも映画で二時間は潰れるのだから予想できていたことではあるが、何気なく時計を見やった高歩はさすがに申し訳なく思う。ただでさえ夜道は危ないのに、和葉との出会いを思い返せばそんな生易しいものでもない気がしてきた。
「遅くなってしまいましたね」
 すまなさそうに高歩が言えば、いやそんな、と和葉は手と首を同時に横に振った。
「誘ったのはあたしの方ですから。本当に今日はありがとうございます」
 礼儀正しく頭を下げられては高歩もさすがに恐縮してしまう。困ったように頭の後ろに手をやって小さく髪をかき上げた。
「いえ、僕も楽しませてもらいましたから。僕の方こそありがとうございます」
 そう言って高歩も軽く頭を下げる。
 あ互いに顔を上げて、目が合えば可笑しくて、二人同時に笑い合った。
 初めてかもしれなかった、二人で並んで、こんなにも穏やかな時間が流れるのは。それが嬉しくて、和葉は緩んだ頬を元に戻せずにいた。
 だからきっと浮かれていたのだ。
 舞い上がって、高揚して、どうして高歩と映画を見たり食事をしたりできたのかを忘れてしまっていたのかもしれない。頭の隅に追いやって考えないようにして。それは恐怖と直結していたから。
 いつもと同じように和葉のアパートの前にある公園の所で、高歩と和葉は足を止めた。周りに誰も居ないのを気にかけながら、本日の見送りを終える。
「それじゃあ目の前だけど、気をつけて」
 微笑んで何気なく言ったそれは、別れ際の常套句だ。それでも和葉にとっては大事な一言でもある。
 ほんの1分にも満たない距離だが、ここからは一人だという覚悟を決める瞬間でもある。もちろん、そんな強張るような表情は億尾にも出さないが。
「はい。ありがとうございました」
 もう一度深く頭を下げて「また明日」と告げる高歩に微笑み返す。
 また明日もあるのだという安心と喜びを胸に抱く。その言葉だけで勇気は充分与えられていた。
 体の向きを変えて初めに歩き出すのは和葉だ。その後姿が見えなくなってようやく、高歩は踵を返して帰路に着く。ざわざわと風が木々を騒がせ、最近はやけに風の音が気になるな、と高歩は思う。
 人通りの少ない道で何人かとすれ違ったが、誰も彼のように風の音に気をとられるような仕草は見せなかった。

 高歩と別れてアパートへ入ってしまえば和葉は幾らかの安堵感を覚える。戻る場所が目の前にあるというのが一番だろう。
 階段を上りながらバッグから鍵を取り出し、今日は楽しかったな、などと思い出しながらドアの前に辿りつく。自然と口元は笑みを浮かべ、きっと今誰かに会えば気味悪がられるかもしれない、と思い出し笑いを慌てて抑える。そんなふうにしながら鍵穴に差し込もうと手を伸ばした。
 瞬間――腕を掴まれた。
「!?」
 心臓が飛び出るかと思った。
 驚愕した和葉が振り返れば、さらにその目は見開かれた。
「なっ――」
 思わず叫ぼうと口を開けば腕を掴まる手に力を込められ、口はもう片方の手で塞がれた。ギリギリと手加減を知らない手に握られた腕は痛みを伴い、口を塞いだ手はそのまま和葉を後ろへ叩きつけるように押さえ込まれる。ガツン、とドアに頭を打ちつけたが、驚きと恐怖と爪が食い込んでいるだろう腕の痛みに比べれば何ともない。
「んんっ! ん! んんん!」
 言葉にならない声が塞がれた手によって漏れ出る。それでも僅かな音にしかならず、和葉にとっても押さえつけている人物にとっても何の意味もなさなかった。
「静かにしろっ」
 怒鳴りつけるわけでもなく、低く抑えた声でその人物――和葉の見知った男は命令した。
 和葉が素直に声を出さなくなると、男は安心したように鋭く細められた目を緩め、口を塞いでいた手を離した。息の上がった和葉は声も出せず、ただ訳も分からず震える体をどうすることも出来ずにいた。視界が霞むのは恐怖から来る涙のせいだ。
「かずは……」
 男は緩めた目を再び鋭くすることもなく、愛でるように和葉の頬を撫でる。
 その手はひどく冷たかった。
「ど……して……」
 震える彼女の口が僅かに動く。
 どうして。
 その言葉の意味は果たして男に届いただろうか。
「どうして? それはオレのセリフだよ、和葉」
 刹那、男の表情が険しく変化する。
 優しく頬に添えられていた手は下へと移動し、首筋に当てられる。ほんの少しでも力を入れれば片手で首を絞められる状態になる。
 男の目は蔑むように細められ、けれど和葉の目を見てはいなかった。
「オレがいるのに毎日毎日、あの男に送られてくるようになった。かと思えば今日はなんだ、デートか?」
 ゆっくりと言い聞かせるような口調が冷え冷えと響く。よく分からないままぞっとした。悪寒が走るということはきっとこういうことだ。
「あの男はなんだ、和葉?」
「……」
 ふるふると、口は開けず首だけを横に振って、和葉は答えた。だってまさか、最近怯えさせられていた影の正体がこの男だとは思わなかったのだ。考えもしなかったのだ。この……。
 この目の前の男が、かつては優しかった彼だとは、考えもしなかった。
 何も言わない、震えて怯えて、自分を見上げる彼女を見つめて男は、笑った。
「ああ、言えないか。オレを振って僅かしないうちに新しい男を作って。オレがあの男を傷つけると思ってるんだろう?」
「ち、が……っ」
 言い終わる前に和葉はうぐぅっと唸る。首に触れていた男の手がぎゅっと握られたからだ。喉が詰まって息が出来なくなる。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。回らない頭で和葉は何度となく問いかけた。声にならない視線で、どうして、と問い続けていた。
 かつて愛し合った、恋人と呼び合っていた、この男に。
 今は数ヶ月前の彼の面影さえ残ってはいないけれど。