月影

chapter 5


 和葉は自分の首を絞める男をよく知っていた。その面影は既にどこにもなかったけれど。

 ひぅ、と喉の奥から空気が漏れる音がした。そうしてようやくその男――髪は無造作に伸ばされ、茶色く染められていただろう毛先はその後を僅かにしか残して居らず、肌は和葉の記憶よりもずっと黒く焼け、どことなく全体的に痩せこけた印象を持つ、和葉のかつての同級生であり恋人であった柊也人(ひいらぎ なりひと)――は和葉の首から手を離した。
「かはっこほっこほっ……げほっけほっ」
 空気が送り込まれるのと同時に勢いよく吸い込もうとして咳き込んだ。苦しい、というのと喉の痛みが、やんわりと和葉を襲う。
 也人は、顔を歪ませて首を摩る和葉を見下ろしたまま動かなかったのだが。
 唐突に和葉の腕を引っ張ったかと思うと、その手から鍵を奪い取り、乱暴にドアを開ける。あ、と思う間もなく、也人によって自分の部屋へ連れ込まれた。
 ドアを和葉の体で叩きつけるようにして閉める。ガチャンッ、と派手な音を立ててドアが閉まり、と共にぶつけた和葉の背中に痛みが走った。
「痛いか、和葉」
 尋ねるというよりも、確認というよりも、ただ口にしてみただけの声音で也人が言う。和葉は呼吸をすることに精一杯で声を発することはおろか、首を横に振ることも腕を振り上げることもできなかった。
「痛いよね。痛いだろ」
 ケホッコホッと咳き込み続ける和葉には也人が何を言っているのか全く分からない。
 也人は彼女の腕を掴んでいた手を離し、手首に掴みなおすと頭上に持ち上げ、締め上げるように握りなおした。もう片方の手はその乱暴さとは裏腹に、愛しむように和葉の前髪をかき上げ、恐怖で引きつる頬を撫で、指の腹で震える唇をなぞった。触れられた場所が順々に冷やされていくような感覚が恐い。
「もうだめだよ。オレがいるんだから他の男に目を向けたら。和葉はまだオレのモノなんだから」
 呼吸を整えるために開かれた口へ、也人の親指が入る。舌に触れ、その瞬間、咄嗟に気持ち悪いと感じた。
「あ……っ」
 親指で口内をかき回される。
 唾液を付けた指を引き抜くと、也人はそれを自分の口元へ持って行き、舌先で舐めて見せた。
 ペロッ、と音が聞こえたわけでもないのに、それは酷くいやらしく。和葉がさらに青褪めるには充分だった。
 ニヤリと也人の口角が上がる。見たことのない、嫌な笑みだ。
「和葉はオレだけのモノだ」
 その低く太い声がして。
 也人は和葉の手首を解放した。そのままドアを開け、出て行く。
 やっとの思いで立っていた和葉は、カチャンとドアが閉まるのを見届けると、腰が抜けたように玄関へへたり込んだ。
 居なくなった。
 派手に手は出されなかった。
 また明日には現れるのだろうけれど、今は、それだけで涙が出そうなほど安堵した。


 出勤してきた和葉を見て眉根を寄せたのはおそらく大典だけだろう。普段と変わらない様子の彼女がかえって不自然な事は、和葉の性格と昨日の態度を考えれば一目瞭然だった。
「おい、乙瀬」
 大典が声を掛けると、一瞬肩を震わせて和葉が振り返る。大典の姿を確認すると安堵したように肩を下ろした。
「ああ、シギ。おはよう」
「おはよう。……じゃなくて。昨日は? どうだった?」
 おそらくは失恋でもしたのかと思考を巡らせた大典だったが、聞かずにはいられなかった。もしそうであれば飲みにでも誘うかと考え、他のことが原因なら昼飯のついでにでも相談してくれたら良いだろう、と言おうと決めた。
「あ、うん。楽しかったよ。ありがとう」
「そっか。それなら良かった」
「うん。じゃあ、あたしもう行くね」
 用件はそれだけだと言わんばかりに立ち去ろうとする和葉に、大典は肩透かしを食らったように「え、え?」と何度も瞬きを繰り返して彼女を見つめた。
「何?」
 じっと自分を見下ろす大典に和葉はきょとんとして小首を傾げる。
「何もないなら行くけど?」
 何もない訳ないだろ、と大典は思わずツッコミを入れる。しかしどうにか口には出さない。和葉が黙っているのなら気づかない振りをしてやるのも友情というものだ。――納得は出来ないが、たぶんそうだ。
「いや。別に。じゃ、今日もお互い頑張ろうぜ」
「うん!」
 そう言って元気に頷く和葉の笑顔に嘘はない。
 彼女の後姿を見届けて、大典はようやく息を吐いた。溜まりに溜まった、盛大な溜め息だった。
 ガンバロウ、と言った張本人は、己の所属する営業部のフロアには行かず、体を反対に回転させて喫煙ルームへと向かった。

 はぁ、ともう一度息を吐く。白い煙が肺から吐き出される。まだ午前中の今、喫煙ルームに居るのは大典のほかにいなかった。参ったな、と頬杖を付く。
 昨日のはしゃぎっぷりから今日は惚気話に近い報告を聞かされると覚悟していたのに、それさえも無かったどころか、普通に振舞おうとする程の落ち込みようときている。絶対に昨日何かあったはずなのだ。どうして何も言ってくれないのか、大典はショックを受けていた。
「お疲れ様」
 不意に声がかかり、大典は顔を上げた。目の前には缶コーヒーが差し出されている。
「倫子さん」
 大典は各務倫子(かがみ りんこ)から缶コーヒーを受け取ると、ソファの端に体を寄せてスペースを空けた。
 どうも、と軽く頭を下げて倫子は彼の隣に腰を落とす。彼女も同じように煙草とライターを取り出して火を付けた。
「珍しいね、大典がココに居るなんて」
 一度煙を吐き出してから、倫子は隣の大典を見上げるようにして尋ねた。
「そう言う倫子さんこそ。まだ午前中なのに良いんですか? 企画の休憩にしては早すぎません?」
「あたしは大典がここに入っていくのを見たから来ただけよ。煙草はついで」
 倫子は目を弧に細めて微笑むと、体を大典の方へ向けるように座り直した。きっちりと後ろへ括りつける髪型が彼女の小さく丸い顔の輪郭をはっきりと表し、細く長い首が際立って、痩せた体に合っている。いつ見ても凛として、美しい、と思う。
「何かあったんでしょ。話してくれない? 長くなるならお昼にでも聞くわ」
 有無を言わせない口調と、柔らかな笑みで、大典はさすがだな、と苦笑を浮かべるしかなかった。
 きっとこういう言い方をすれば良かったのだ、先ほどの和葉にも。
 大典は煙草の火を消し、体を倫子の方へ向けた。組んでいた足を解いて、改まって倫子の顔を見た。
「倫子さん」
「何?」
「乙瀬のこと、注意して見ていてやってくれませんか」
 真剣な表情で、真剣な口調で、大典は倫子を見つめている。
「乙瀬さん?」
 別に様子の可笑しかったところはなかったと思うけど、と倫子が首を傾げるが、大典の視線は揺らぐことは無い。
「詳しくは昼になって話します。どこがどう、と俺自身もはっきりは分からないんですけど。とにかく暫くは様子を見ていてやって欲しいんです」
 真っ直ぐな目で頼まれては、嫌でも断れない。倫子も煙草の火を消すと、小さく頷いた。
「分かった。乙瀬さんのことは任せて」
「ありがとうございます」
 微笑んで答えた倫子の言葉に、大典も安心したように微笑み返した。
 その優しい笑みを見て、倫子の内心は複雑だ。
「でも妬けちゃうな。大典にそんなふうに心配される乙瀬さんに」
 少し拗ねたようにチラリと上目遣いで大典を見上げれば、きょとんとした彼は、けれどすぐに困ったような笑みを浮かべた。
「ここでの同期って乙瀬しかいないですから、仕方ないです」
 それに、――と大典は体を屈めて倫子の耳元に顔を近づける。
「倫子さんが落ち込んだ時は体ごと慰めてあげますよ」
 そう囁いて、体を離し、にっこりと笑みを浮かべた。倫子の好きな、優しい表情だ。
「倫子さんだけの特別ですからね」
「ばか」
 言いつつも、倫子の頬は赤く染まり、嬉しそうに微笑んだ。大典の好きな、可愛い表情だ。