月影

chapter 6


 朝の目覚めは最悪だった。意識がはっきりしてきてもなかなか目を開けることができなくて、額に腕を被せた。体を起こすのが億劫だ。
 それでも仕事に支障を来たすのはプライドが許さずに、和葉はようやっと重い瞼を持ち上げた。
――どうして也人はあんなにも変わってしまったのだろう……。
 一、二度瞬きをして、ベッドを降りる。喉の渇きを覚えて冷蔵庫を開けた。コップに注ぐのも面倒に思えて、ペットボトルから直接水を飲み干した。
――専門学生時代、知り合った頃の也人とは、思えないほどの変わりようだった。別人と言ってもよかった。
 昨夜買っておいたサンドイッチを袋から取り出して、テレビを眺めながら頬張る。テレビのニュースは相変わらず悲惨な殺人事件と政治家同士の押し問答、芸能界のゴシップネタで盛り上がっていた。ああ、また海外で活躍する日本人スポーツ選手が小さく取り上げられている。
――あたしが也人を振ったのはもう2ヶ月も前だ。それから変わってしまったんだろうか。どうして……?
 食べ終わるとゴミを捨て、洗面所へ向かう。顔を洗って歯を磨く。鏡を見ると疲れた顔の自分が映っていて、知らず溜め息が出た。
――もしかして、あたしが也人を変えてしまったんだろうか。でも、振られたくらいで? そんなに弱い男だったろうか?
 和葉は一気に不快感を覚え、眉根を潜めて口の中を洗い流した。思い出しただけでも気持ち悪い。也人に触れられた唇を思い切り拭ったが、感触を忘れることはできなかった。
――悔しい。あんな最低な男を好きだったなんて。愛しているとさえ思ったことがある自分が、過去のことだとしても腹立たしい。
 それでも一度は……愛した男だったのだ。何もなかった自分に優しさと暖かな温もりをくれた。己に真っ直ぐで、バカみたいに正直で、嘘の吐けないところが也人の良いところだった。そういうところに惹かれたのだ。
『俺が居る今くらい、全力で頼れよ』
 そう言ってくれた也人の表情を忘れたことはなかった。あの時は嬉しくて泣いてしまったんだっけ。
――どうして? そんな思い出さえも汚してしまって、也人はどうして変わっちゃったの?
――あたしの……せい?
 湧き上がるのは同じ疑問ばかりで、堂々巡りだ。和葉はいい加減そんな思考にうんざりとして着替え始める。「どうして」なんて、也人自身に聞かなければ分からないことだ。そんなことを考えても時間の無駄でしかない。
 それでも思わずにはいられない。也人に対しての嫌悪感と不快感とともに、腹立たしさと憎らしさと……悔しいのと悲しいのが混ざり合って。
 目元の疲れを隠そうと今日はやけに化粧が濃くなった気がして、和葉は時間が無いにもかかわらず一度施した化粧を落とした。

「おい、乙瀬」
 和葉が出勤してくると、後ろから突然声を掛けられた。一瞬也人の声を思い出して体が震えたが、その人物を目にして、ここが会社の中だと気づいた。ほっとして肩を下ろす。
 不意に、安堵した自分が可笑しく思えて、けれどそんな内心を悟られないように強張る顔を無理矢理引き締めた。
「ああ、シギ。おはよう」
「おはよう。……じゃなくて。昨日は? どうだった?」
 声を掛けてきた大典は少し顔を険しく歪めたが、すぐに元に戻して尋ねてきた。そういえば昨夜の高歩とのデートは大典の手によって成し得たものだということを思い出した。也人のことがあまりにも衝撃的すぎて、記憶の大半を占めてしまっていたことにげんなりとし、どうせなら高歩のことを考えて今日は一日を過ごそうかと考えてみる。
「あ、うん。楽しかったよ。ありがとう」
 和葉がにっこりと笑ってそう答えれば、大典も「それなら良かった」と微笑み返した。
「うん。じゃあ、あたしもう行くね」
 話はそれだけだというように、和葉は大典が口を開く前に笑顔のままで話を切った。これ以上話したくはなかった。高歩のことを聞かれるのはまだいいが、掘り下げられすぎるとどうしても也人のことを話してしまいそうで、それが嫌だった。
 そういえば高歩にも言わなければならないことがあったのだ、と和葉は思い出す。
「何?」
 話を切ったのは和葉だが、当然というか、大典は納得していないように和葉の目を覗き込むように見つめていた。
 敢えてそれに気づかぬ振りをして和葉が小首を傾げれば、いよいよ困ったような顔をして大典は眉間に皺を寄せた。
「何もないなら行くけど?」
「いや。別に」
 そして大典は一呼吸置いて、諦めたように眉間に寄せた皺を解いた。
「じゃ、今日もお互い頑張ろうぜ」
 だからほっとして、和葉は自然と笑みを浮かべることが出来た。
「うん!」
――そうだ。いつまでも引きずっていてもしょうがない。今は自分の仕事をすべき時間で、也人のことは関係ない。
 大典と別れて企画部のフロアに入ると、和葉は口の中で「切り替え、切り替え」と唱えた。気を引き締めて自分のデスクに腰を下ろす。パソコンを立ち上げると、既に和葉の世界は変わっていた。

 昼休みになるとほとんどの者は外へと出て行く。一応社内食堂というものは存在するのだが、社員数の割に小さく席数も少ないため、早々に諦めて近くのファミレスやファーストフード店で済ます者が自然と多くなっていた。
 もちろん和葉もその内の1人で、いつもは大典と共に出て行くのだが、今日はその前にしなければならないことがあって、和葉は大典と落ち合う前に休憩ルームへと向かった。
 一回、二回、三回……。
 携帯電話を耳に当ててコール数を意味もなく数える。初めて掛けた番号の持ち主は、結局出なかった。
 僅かに緊張していた和葉は、相手が出ないことに残念がりつつも少しだけほっとした。
 和葉が電話を掛けた相手は高歩だ。電話番号とメールアドレスは会ったその日に、高歩の提案で交換していた。今までそれを使うことはお互いになかったが、昨夜也人が和葉の前に現れたことでそうせざるを得なくなった。和葉としては、こんな連絡を入れるために使いたくは無かった、というのが本音ではあるけれど。
 もしかしたら今の時間帯でも高歩にしてみれば迷惑だったのかもしれない、と電話を切った後で思う。高歩は高校教師をしている。小学校や中学校のように教師が生徒と一緒に教室で昼飯を食べる、ということはないだろうけれど、職員室でも教科室でも教師が携帯電話をいじっている姿を見たことはなかったなと思い出したからだ。それは生徒に見せないというだけのことだったかもしれないが、せめて放課後にあたる時間でなければ繋がらないような気がしてきた。失敗したな、と溜め息が出る。
 和葉は、けれど気を取り直して、メール画面を開いた。せめて早めに伝えるということだけでもした方が、礼儀だと思った。
「ああ! こんな所にいたの、乙瀬さん!」
 唐突に後ろから明るい声がした。思わず打っていた文字を消しそうになり、和葉は慌てて保存ボタンを押した。
 振り返ると同じ部署の先輩社員である倫子がにこやかに駆け寄ってきた。
「各務さん?」
 和葉は驚いて倫子を見上げる。休憩時間に彼女が自分を探しているのは滅多にないことで、急な電話が入ったのだろうかと思ったのだが、倫子の表情を見る限りではそれほど切羽詰った様子も無い。
「うん、鴫野くんからの伝言預かってきたの」
「えっ?」
 思いがけない倫子の言葉に、丸くなった和葉の目は更に大きく開かれた。営業部と企画部は割と頻繁に行き来のある部署ではあるが、大典と倫子という組み合わせは意外な気がした。同じ社内で同じフロア内なのだから言葉を交わすことはあるだろうが、それにしてもどういう組み合わせなのだろうかと思ってしまう。
「今日は一緒にお昼食べられない、って。そういえばいつも二人で出て行ってるわよね?」
「ええ、まあ、そうですね」
「ということで、今日は私と一緒に食べに行かない?」
「え!」
 思いがけない誘いに驚きすぎて声が若干裏返る。倫子の顔が僅かに歪んで、彼女は自分の腰に手を当てた。
「なぁに? 私とは食べれないの?」
「ま、まさか! そんなわけないじゃないですか!」
 ふるふると和葉が横に首を振ると、倫子は満足げに微笑んで、よしよしと頷いた。
「じゃあ、決まりね。行ってみたかったイタリアンの店があったのよ。それに乙瀬さんと色々話してみたかったし」
 楽しそうに倫子が言う。和葉も同じように微笑んで、彼女の後に続いて休憩ルームを出た。
――ああ、そうだった。
 と、倫子の後ろを歩きながら、和葉は途中だったメールを完成させて、送信ボタンを押す。メールは何の問題もなく送信された。
 高歩はちゃんと読んでくれるだろうか。
 ふとそう思って、けれどすぐに考え直した。そうでなければ困るのだ。
 彼を……、高歩を危険な目に遭わせたくはない。もともと彼は無関係の人間で、これは和葉と也人の問題なのだ。
――ちゃんと、話し合ったはずなのにな。
 也人は納得して別れてくれたのだと思っていたけれど、それは和葉の勝手な思い込みだったのかもしれない。
「乙瀬さん、イタリアンは好き?」
 振り返って倫子が尋ねた。
 和葉は携帯電話を閉じ、にっこりと微笑んで答えた。
「好きですよ」
 倫子はその答えに胸を撫で下ろし、良かった、と言った。
 そんな他愛もない会話をしながらも、やはり和葉の頭の中は昨夜の也人のことがすぐに思い起こされていた。どうすれば良いのか、今の和葉には分からないでいる。
 ただ一つ分かっていることは、これ以上高歩を深入りさせてはいけない、ということだけだ。