月影

chapter 7


 最近オープンしたというその店はディナーをメインに出しているらしく、ランチタイム用のメニューはそれほどあるとは言えなかった。それでも数種類のパスタやサラダ、スープにピザが選べ、和葉は無難にカルボナーラを頼んだ。倫子は散々迷った挙句、海老とホタテの海鮮パスタを注文した。
「どう、仕事には慣れた?」
 パスタをフォークに巻きつけながら、倫子が和葉に尋ねた。入社して三ヶ月ほど経ったが、それまでにも何度か声を掛けられた質問だった。
「うーん……まだまだって感じです。流れはなんとか見えてきたとは思いますけど」
 和葉は考えながら答えた。研修も含め、覚えることが多すぎて今はそれだけで手一杯というのが本音だった。
 そんな彼女の反応を見て倫子は、小さく微笑んだ。
「まあ、まだ三ヶ月だしね。楽しんでる?」
「デザインはやりたい仕事だったので楽しいです。まだ事務仕事の方が大変で、デザインの仕事はできてないですけど」
「そっか。でも事務処理は基本だからね、頑張って覚えてね」
 倫子がにっこりと微笑んで見せると、和葉は真面目な顔で大きく頷いた。
「はい!」
 良い返事だ、と倫子は思った。和葉の良いところはどんな事にも真剣に取り組むところだ。
 そしてふと考える。今朝、大典が言っていた和葉の危ういところは、そういった真面目すぎる姿勢から来るものなのかもしれない。
「じゃあさ、逆に不安な事とかある? 分からない事でもいいし、変だなって思う事とか」
 大典の言っている心配な事が仕事関係なら、彼よりも自分の方が力になれる。まだ入ったばかりで、社会人としても慣れていない今の時期は、小さなことでも不安になって落ち込み、深刻に考えすぎてしまうものだ。倫子にもそういう時期はあった。
 ただ、和葉はそれだけで辞めるという言葉を出すほど、弱い人間にも見えなかった。だから実際、大典が和葉の何に対して危惧しているのか、倫子にはさっぱり分からないでいる。
「そうですね……。本当にまだ仕事に慣れてなくて、そこまで頭が回らないっていうのもあるんですけど」
 くるくるとパスタをフォークに巻き付けて、けれどそれを口に運ぶこともなく、和葉は考える。慣れない新入生に対してこういう気遣いをしてくれる倫子は良い先輩なのだろう。それは嬉しい。だから正直に答えたかったのだが、答えるべき言葉が浮かばないでいた。
 仕事に関しては本当に、覚えることに手一杯で、それ以外に気を遣う余裕がないのが現状だ。
 倫子もそれには共感して、小さく頷いただけに止めた。確かにまだ、仕事の手順を追うことでいっぱいいっぱいな状態だろうということは、経験上分かっていたことだ。少し急ぎすぎたかもしれない。
 そっか、とだけ言って、倫子は絡めたソースとパスタを口の中へ運ぶ。さっぱりした味わいが広がり、美味しい。
「ランチには高いけど、ここ、美味しいしアタリな店ね」
「ですね。インテリアにも気を遣ってるみたいですし、あたしも気に入りました」
 ぐるりと店内を見渡すと、壁に掛けられた絵画や窓辺のカーテン生地、端に置かれた間接照明の器具などが目に付く。そのセンスは和葉がこの店に入った時から感じていたことだった。
「今度はディナーにでも来ましょ。ディナーだとコースを頼めるみたいだし」
「ディナーだとデート向けって感じもしますけど」
「そう? 私はどちらでも構わないわよ。乙瀬さん、彼氏居たっけ」
「……いえ、今は居ませんよ」
 ほんの一瞬、和葉の手が止まったような気がしたけれど、倫子は気に留めず小首を傾げて見せた。
「なら、良いじゃない? 今度はディナーの時間に来ましょう。そうね、今度の企画が終わったら、時間が取れると思うわ」
「今度のって、エキュリアの件ですよね。大変なんですか?」
 エキュリアは榎並(えなみ)という小さな会社が今度売り出すことになっている化粧水の商品名だ。和葉は直接その企画に参加しているわけではないが、隣に実際に手を掛ける倫子が居るので話だけは知っていた。榎並は化粧品や健康食品を扱う小さな製造会社で、大々的に宣伝を行うのは今回が初めてのことらしく、かなり力を入れているということだ。
「ええ。まだ詳しくは決まってないんだけど、榎並にとっては社名を上げての大型宣伝になると思う。うちの他にも放送局に掛け合ってるみたいだし」
「ということは、コマーシャルも考えているって事ですか? すごいですね」
「本当にね。まあ、CMの方はローカル局に15秒ってところだと思うけど。でも同じ時期に流したいっていう向こうの希望もあって、合同企画になると思うわ。うちは紙媒体がほとんどだから。久々に大きな仕事ね」
 楽しそうに話す倫子を見て、和葉は羨ましく感じた。自分も早く倫子と同じ場所に立って働きたいと強く思った。そのためには今を乗り越える他ないだろうということも実感する。
 そうだ、そのためにも、今は必要な時なのだ。
――也人……。
 和葉は頭の隅に追いやっていた顔をふと思い浮かべる。自分の夢のために突き放した和葉のことを、彼は憎んでいるのだろうか。

 すっかりランチを食べ終えて満足気に店を出る時間になっても、和葉の携帯電話に高歩からの折り返しの連絡が入ることはなかった。教師というのはそれほど自由な時間があるわけでもないのだろう。それが学校の中に居るこの時間帯なら尚更だ。和葉はそう納得して、もう一度メールを入れるのを止めた。メールの返信すらないのは、きっとそういうことなのだ。
 本当は少しでも也人のことを相談したかったが、余計な心配を掛けるだけのような気もして、それはしなかった。第一、高歩と也人には何の接点も、関係もない。間に自分が居るだけのことだ。だから和葉は連絡のないことを仕方のないこととして受け止める。もうこれで高歩とは会わない。会っては也人を刺激するだけだ。だから、その旨をメールに託して伝えた。
 すみません、と和葉は携帯電話を握って胸の内で謝った。届くことのない声は、だがそれでもいい気がする。
 元々、高歩と和葉も、何の関係もなかった。誤って関わってしまっただけのことで、それが正されるだけのことだ。
――巻き込んでしまってすみませんでした。
 メールの最後に添えた言葉を和葉はもう一度、空を見上げながらどこか同じ空の下にいる高歩に向かって放った。

                □ □ □ □

 高歩がそのメールに目を通したのは、完全下校の時刻を過ぎた午後六時、高歩自身も学校を後にしてからだ。高歩は就業時間に携帯電話を見ることはない。中には堂々と職員室で通話をしている教師もいるが、それは稀な人間だ。大抵の教師は己の職務に精を出して、まるでそんな時間はないというような状態の中にいる。
 最初、和葉の名前が受信メールのボックスに表示された時は、驚きが先に立ってその意味を理解していなかった。しかし、本文を読んで思わず顔を歪ませた。馬鹿な、と思ったのが率直な感想だった。
 顔見知りの男がストーカーの正体だったことが分かり、もう高歩が送る必要がなくなった。後は当人同士で話し合って解決する。今まで申し訳なかった。――というようなことが丁寧な言葉で書かれていたのだ。そんな馬鹿な話があるか、と高歩は苛立ちを覚える。
 いくら顔見知りだからと言ってストーカーは立派な犯罪だ。いくら和葉が話し合う意思を見せたところで、男自身にそれができるのかは疑問に思う。そもそもそんな危険な男が彼女に何も危害を加えないという保障がどこにあるというのだろう。和葉はまだ若く、甘い。身体的に何かをされたわけでもなさそうな文面だったから、実際それほどの危機感を覚えていないのだろうが、だからといって高歩がこのメールを見ただけで、じゃあさようなら、と言うとでも思ったのだろうか。
 高歩は口の中で舌打ちをすると、携帯電話を鞄の中に入れて駅へ向かう足を速める。いつも高歩の方が彼女を待っている状態だったから、いつもどおりに待っていれば和葉を捕まえることが出来るだろう。しかし、高歩は走り出してしまいそうな足を止めることはできなかった。気持ちが焦って、もしかしたら今日に限って彼女の帰りが早いような気もする。運が悪い時はとことん悪いものだ。
「先生!」
 突然後ろから声を掛けられた。こんな時に誰だ、と思いつつ、先生と自分を呼んだからには学校の関係者であるには間違いなく、それを無視するわけにもいかない。
「先生、今帰り?」
 振り返れば案の定、よく知る生徒がこちらへ向かって走ってやってきた。校則違反の染髪を惜しげもなく施した眩しいほどの金髪に、無意味に開けられたピアスが目立つ彼は、しかしながら制服ではなかった。そういえば今日、彼は学校へ来ていなかったな、と高歩は自分に笑顔を向ける彼を見つめつつ思い出した。
「そうだけど。新居、お前、今日はどうした」
 高歩の問いかけに新居知史(にい さとし)は可愛らしい顔をコトンと傾げた。まるで何のことだ、と問いかけているような表情だ。
「今日? どうもしてないよ」
「学校に来てなかっただろう」
 それのどこがどうもしていないことなんだ、と高歩が睨みつけると、知史は詰まらなさそうに整った顔を歪ませた。
 知史は儚げな美少年だった。だがその華奢な体や整った顔立ちが彼のコンプレックスであることも、高歩は知っている。勿体無いよな、とこんな時はいつも思った。もちろんそれを言うつもりはないが。
「だって今日、先生の授業ないんだもん。行っても意味ないよ」
 甘えるような口調は彼の癖のようなものだ。最初は戸惑った高歩も、今はすっかり何も感じなくなった。
「学校に来れば授業がなくても会いに来れるだろう? 僕は担任じゃないけど、相談にならいつでも乗るよ」
「何もなくても、会いに行ってもいいの?」
「ああ、もちろん。それで新居が学校に来てくれるなら僕は嬉しい」
 高歩がにっこりと微笑むと、知史も安心したように笑った。純粋なんだな、と高歩は知史を見て思う。
 本当は彼の担任にも相談されていたからに過ぎない。一年の頃から不登校気味だった彼の出席状況は二年になって拍車がかかり、今から見張っていないと進級が危ぶまれる状況らしいのだ。
「じゃあ明日は学校行くよ」
「そうか。あ、ちゃんと授業にも出ろよ。学校にだけ来て授業をサボってちゃ意味がないからな」
 高歩が一応というふうに釘を刺すと、途端に知史は不満そうな表情を作った。本当に嫌がっているようにも見える。
「当たり前だろ。じゃないと、困るのは新居だよ」
「俺は良いよ。いつ学校辞めたって俺は困らないんだ」
「だめだ。喧嘩、やめたんだろう? せめて高校くらいは卒業しなさい」
「……やめたわけじゃないよ。飽きたから、売られても買わなくなっただけ」
「それでも偉いよ。喧嘩しなくなったら平穏なもんだろう、日常ってのは。だったらその分、高校を卒業するための時間に使ったら良い」
 くしゃり、と高歩の手が知史の髪を撫でる。大きく、暖かい手だった。知史は高歩の手が一番好きだ。父親より、母親より、仲間や友人達より、高歩の手が一番優しい。
 知史の頭から手を離した高歩は、そっと腕時計で時間を確かめる。そろそろ駅に向かわなくてはいつもの時間よりも遅くなってしまう。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
 高歩は柔らかな笑みを向けて踵を返す。
 知史の手が高歩の腕を掴んで、それを阻止した。
「やだ。俺、まだ先生と一緒にいたい」
 それは無邪気な子どもの、可愛い我侭だ。
 しかし和葉のことを考えれば、どちらを優先すべきか高歩に迷う余地はなかった。知史の掴んだ手を解いて、もう一度彼の髪を撫でた。
 高校生男子にする態度じゃないよな、と思いながらも、知史がその行為を気持ち良さそうに受け止めるので、つい高歩は他の男子生徒にするように肩を優しく叩くよりも、頭の方へ手が行ってしまう。
「ごめん。悪いけど今日は急いでるんだ。話なら明日じっくり聞くから。学校においで」
 それだけを行って高歩は背を向けて歩き出した。
 知史は追いかけようとしたが、すぐに人混みに紛れて見えなくなってしまう。何だよ、と不機嫌な顔になることを隠しもせず、知史は消えた高歩の背を睨みつける。
 ――あれは女だな、と確信し、見も知らぬその女に嫉妬した。知史は高歩に触れられた己の髪に触れ、くしゃりと拳を作る。なぜか、ひどく泣きそうになった。