月影

chapter 8


 和葉は最近感じなかった緊張感を身に纏いながらホームに下りた。改札を出て、ぐるりと辺りを見回す。
――居ない……。
 高歩の姿を見なかったことに安堵する。時間はいつもとそう変わらないというのに、高歩は改札の前にいなかった。改札の正面にある薬局の前で待っている高歩の姿を、いつもは探すのだ。けれど、この数週間続いた光景は、今日はなかった。それが今日和葉が彼へ送ったメールの返事なのだろう。ほっとして、ようやく和葉は立ち止まっていた足を前へ動かした。
 しかし、なぜだろう。
 高歩がいないことにほっとしつつも、寂しさを感じる。そこにあった場所を、彼の存在を、己で拒絶したというのに。
 その矛盾する感情に顔をしかめ、小さく頭を振って追い払う。
 前を向かなければならない。高歩のことを思うのではなく、避けなければ。
 和葉は一人、賑わう駅前を抜けて、いつもの帰り道を歩き出した。
 隣に高歩がいないというだけで、いやに不安が襲ってくる。それまでに何度も一人で通ってきた道だというのに、どこかから何かが襲ってきそうで、ひと時の安心感を覚えてしまった体は以前よりもさらに大きな恐怖感に怯えた。
 自然と歩く足が速くなる。
 息が上がる。
 背中に冷たい汗が流れた。
「はぁ……、はぁ……」
 呼吸が苦しくなって、走ってもいないのに疾走感が襲ってくる。
 まだ高歩の住むマンションをすら通り過ぎていないのに。
 こんなにも暗い道だったろうか? 遠かったろうか? 記憶の中の帰り道は、幾分か増しに街灯があって明るかった気がした。空を見上げると曇っているのか月の明りすら見つけ出せない。
 自分の履くヒールの音が耳に響いて、後ろからの足音は分からなかった。自分の心臓が煩くて、辛うじて感じられていた周りの気配も、既に窺う余裕はなくなっていた。
 こんなにも長かったろうか、この道のりは?
「っ……はぁ……」
 額に汗が浮かぶのが分かる。それが頬に流れ、顎のラインを伝って落ちた。まだ真夏真っ盛りの季節とは言え朝夕は幾分か涼しい初夏の今日、しかし今は闇に支配される時間帯にもかかわらず真昼間の太陽の下に居るかのように熱かった。それだけの運動をしたとは思えなかったが、鼓動の速さと疲労感は否めなかった。
 ようやくして自分のアパートが見えてきた。
 急いで階段を駆け上がり、部屋のドアの前に来て、ふと後ろを振り返る。
 一瞬、也人が居るのかと思ったが、そこに人の姿はなかった。毎日付いてきているわけではないのか、高歩が一緒ではなかったからか。あの日の也人の様子からして、おそらく後者だろうと結論付ける。認めたくはないが、確信はあった。
 部屋に入って電気を付けるも、何もする気になれなかった。空腹感を僅かに覚えながら、しかし体はだるく重く、化粧落としもろくにしないまま布団の上に体を倒した。身体的にも精神的にも疲れきっていた。

「乙瀬さん、顔色悪いけど、大丈夫?」
 高歩と知り合う前の、以前の日常に戻って数日したある日、最近はすっかり馴染んできた倫子とのランチタイムに、和葉は心配そうに尋ねられた。
 顔色が悪いという自覚はなかったが、倫子が言うのだからそうなのだろう、と和葉は自分の頬を摩った。眠れないことによる疲れが顔に出ているのかもしれない。
「気分は悪くないんですけど……」
 困ったように倫子を見上げる彼女の目の下には、若干の隈が現れていた。ファンデーションで隠そうとはしているが、あまり効果はないようだ。倫子はそれを見てようやく、大典に言われたことを理解し始めた。和葉が心配だという大典の言葉を信じていなかったわけではなかったが、実感がなかったのだ。確かに和葉は頑張り屋で、多少無理をするような性格だけれど、割りにマイペースに仕事をこなせているからだ。
「心配事でもある? 仕事じゃなくて、プライベートとかでも」
 倫子が眉根をひそめて和葉の顔を覗きこむ。そんな様子を見て和葉は心底申し訳なく思った。
 だから笑って、首を横に振る。余計な心配は誰にも掛けたくない。
「そんなんじゃないんです。ちょっと今DVDに嵌ってて、眠れてないんですよね」
「DVD?」
 本当に? と疑わしそうな倫子の表情を見て、けれど和葉は動揺も見せずに頷いた。半分は本当だから、素直に頷けるのだ。
「はい、アメリカのテレビドラマなんですけど。深夜にやってるのを見て気に入って、つい全巻借りちゃったんですよね。今ようやくシーズン2に入ったところです」
 シーズン4まで出てるんですよ、と躓きもなく話す和葉の言葉に、倫子は嘘はないと思った。
 実際に和葉は、嘘は言っていない。
 連夜DVD鑑賞に浸っているのは本当だ。なぜ眠れないのか、という理由が違うだけだった。ただそこまで話す気はないというだけで。
 倫子はどこか腑に落ちない様子ではあったが、一応はそれで納得してくれたようで、和葉はほっと胸を撫で下ろす。
「オススメですよ。各務さんも見たら絶対嵌りますから!」
 にっこりと笑って見せれば、倫子もそれ以上何も言わなかった。
 ただ心配そうに気遣ってくれた彼女の態度に、それだけで少し救われた気がした。

                □ □ □ □

 近頃高歩の様子が変だということは、知史にしてみれば一目瞭然で、そのことがひどく彼の機嫌を損ねていた。
 けれど高歩が良いと言ったから、知史は科目準備室に通うことをやめなかった。高歩もそのことについては咎めることをしなかった。
「――それでさ、ジロウが怒り出しちゃったんだ。ムラマサ求めて迷宮奥地を彷徨ってろって。オレにはよく分かんなかったけど」
 狭い準備室をさらに狭くさせているソファに座りながら、知史はとりとめのない、友人とも呼べないような遊び仲間の話をして、クスリと笑って見せたのだが。
「ふぅん、そうか」
 机に向かったまま顔を上げず、知史の方を見向きもしないで高歩は相槌を打つ。明らかに知史の話の内容など聞いていないことは分かっていた。知史は一旦作った笑顔をすぐに消し、ムッと眉間に皺を寄せた。
「ねえっ! 聞いてる、先生?」
 知史が声を荒げるとようやく、驚いたように高歩は顔を上げた。そしてやっと知史が睨んでいることに気づいた。
「ああ、すまない。それで、ジロウくんはどうして怒ったって?」
「もういい! その話は終わった!」
 二度も同じ話をしたって面白くない、と知史が憤慨して言うと、高歩は心底申し訳なさそうに目元を緩めて微笑んだ。
「そう、か……。悪かったな」
 困ったように笑む高歩の顔は、嫌いではない。知史はふい、と視線を逸らし、「別に」と答えた。
 教師に休み時間などないことは、ここ数日の間に学んだことだった。自分も含め生徒達が雑談に興じているほんの僅かな休み時間も、教師にしてみれば次の授業の準備時間にしか過ぎず、次が授業のない空き時間であればずっと先の仕事の準備に入る。それがテストだったり特別授業の計画だったりというのは知史の知るところではなかったが、忙しいのだ、ということは理解していた。
 だから知史が話しかけても上の空だったり生返事だったりすることは構わない。そこまで子どもじゃない、と思っている。
 許せないのは――。
 ちらりと知史は逸らした視線を高歩に戻す。高歩の顔は既に知史の方を向いてはいなかった。散らばった資料が乗っている机の上に戻されていた。ただし、その神妙にしている視線の先は資料に書かれている文字ではなくて、携帯電話だった。
 それがひどく知史をイラつかせる。
 ここ最近ずっとだ。高歩は、気づけば携帯電話のディスプレイを眺めては、考えに耽っているように遠くを見つめている。メールをするわけでもなく、電話をかけるでもなく、ただ眺めているだけ。その横顔を見るたびに知史は不快感を覚えるのだ。
 不快の理由は明白だった。そこに女の影が見えるからだ。そして訳もなく嫉妬する。見たこともない女に。
 自分でも異常だと、知史は感じていた。女に限らず、誰かに嫉妬するなどという経験はこれまでになく、むしろ己の容姿に対して妬まれることの方が多かった。男にしろ女にしろ、知史の持つ中性的な美しさは知史自身の想像を超えて人を惹き付けるらしい。それが男を巡って女に抱く感情とくれば、異常のほかの何でもない。
 高歩に対して抱く感情は決して恋情ではない。独占欲はあるが、彼に欲情したことはなかった。
 だから高歩の興味を引き付けている女を妬ましく思うこと自体はそれほど異常とは思っていない。ただ、そこにある感情に、知史は困惑していた。
 この妬みの感情は、どこか違ったからだ。
 ここが、と具体的には言えないけれど、何かが違った。ただの独占欲とは違った。言うなれば、いっそのこと高歩を束縛してどこにも出したくないというような、狂気じみた感情が、心の奥深くで渦巻いているような。
「新居? どうかしたか」
 急に黙った知史に気づき、高歩は声を掛けた。ハッと我に返った知史は、また不貞腐れたような表情で高歩を睨みつける。
 高歩が悪くないことくらい分かっている。
 というか、悪いとか悪くないとか、そういう次元の話ではないことくらい知っている。
「別に、何でもないよ」
「なら良いが。……そろそろチャイムが鳴るから、教室に戻りなさい」
――ほら。
 いつだって高歩はそうやって、教師の顔をして自分を突き放し。
「……昼休み、また来るから……」
 そう言って知史が望めば。
「ああ、分かった。待ってるよ」
 にっこりと兄のように優しい笑みを浮かべて受け入れてくれる。
 だから余計に、自分には唯一しかいない存在を奪う女が許せなくて。
 手を伸ばしても掴み取れない高歩の存在に、切なくなった。
 そこまで高歩の気を引く女に、興味を持った。