月影

chapter 9


 玄関のドアを開けるたびに振り返る。後ろに誰もいないことを確認して鍵を回す。
 部屋に戻る度全身を纏う疲労感に、和葉はそろそろ限界を覚えていた。


「なあ、乙瀬。今日は早く上がれそうか?」
 送り状の整理をしていると、背中から遠慮がちに声を掛けられた。振り返れば大典が立っている。今日は外回りではなかったようだ。
「これが終われば帰れるけど。シギはもう終わり?」
「ああ。すぐに上がれそうなら今日は飲みに行こうぜ。最近昼も一緒に食ってなかったし」
「そうだね」
 大典の誘いに和葉はそういえばそうだと頷いた。大典とよく食べに行った定食屋には、たまにしか行かなくなり、代わりに倫子と色々な店へ出向くようになった。それを仕掛けたのは大典だが、さすがにそろそろ直接彼女の様子を窺うべきだと気づいた。
 倫子からの報告からすれば今のところ、特に危惧していた問題は起こっていないようだが……。
 と、大典は考えたわけだ。ちょうど週末にも関わらず立て込んだ仕事も残っていなかったのは幸いだった。明日が休みであれば酒の弱い和葉を居酒屋へ誘っても問題はないだろう。
 少し先に外へ出た大典が和葉を待って、二人揃って駅へ向かった。
「久しぶりだよねぇ、二人で食べるの」
「俺もまぁ、忙しかったしな。ここのところ」
 理由がそれだけではないことを、大典は百も承知で言った。和葉はその事に気づいていない。
「でも割と頻繁に行ってたよね。他のチームの子と連絡取ってる?」
 和葉は研修を共にした販社の同期とはそれほど連絡を取り合っていなかった。あれだけ厳しい研修の中で絆を深めた仲間だと感じていたけれど、実際離れてみるとその糸は呆気なく細くなっていく。
「あー、寺崎とは結構話してるかな。あいつ今関西だけど、実家はこっちの方でさ。連休とか割と帰ってくるらしくて、一緒に飲んだりしてる」
「ええ! なんで誘ってくれなかったの! 寂しいじゃん。あたしも誘ってよ」
「はは、じゃあ今度会うときは言ってみるよ」
「なにそれ。やる気ないなぁ」
「男同士の話もあんだよ。女の子いると気ぃ遣うじゃん?」
「あれ。シギってあたしのこと女の子扱いしてたっけ」
「してんじゃん、酷ぇな! 特に乙瀬って下ネタ系だめだろ。俺って紳士じゃん」
「やだぁ、寺崎君とそんな猥談してんの? やらしーのっ」
「猥談って……フツウに彼女の話。流れでそういう方向に行くこともあるだろ。俺らのことなんだと思ってんの」
 他愛ないことを話しながら目的の店に着いた。大典が選ぶ店は安い、美味いに比重が置かれている。一見して和葉なら入らなさそうな、中年サラリーマンが立ち寄りそうな居酒屋だったり、小さくてカウンター席しかなくお世辞にも綺麗とは言えないラーメン屋だったりするのがほとんどだ。今回はまさに前者だった。
 二人は壁際の席に腰を下ろし、主に大典が二人分の注文をした。串揚げを数本と出し撒き卵、お好み焼きを二枚。飲めない和葉にカシスオレンジを、自分には生ビールを頼んだ。全て言い終えた後に和葉が横からメニューを引っ張り出して大根サラダを追加する。
「明日は休みだからな。じゃんじゃん飲めよ! 乙瀬って飲み放題で一人損するタイプだろ」
 笑いながら大典は言って、店員から差し出されたグラスを受け取る。大典の言葉に否定する要素は特にない和葉はそれを素直に受け取った。確かに自分でも、飲み放題を頼むくらいなら単品で注文した方が安く済むタイプだと思う。喉の渇きに対して鈍感なのだろうか。
「んじゃ、とりあえず乾杯!」
 大典が軽くグラスを持ち上げて突き出してきた。和葉もそれに合わせて持ち上げる。
「乾杯!」
 カチンとグラスを鳴らし合った。空腹にアルコールを入れた途端、ぐらりと体温が上がるのを自覚する。飲みすぎると大変な事になるな、という予感が過ぎる。
「っはぁ! 美味い。お前もがんがん飲めよ」
「あ。うん」
 和葉の血液の流れなど気づくはずもない大典は良かれとそんなことを言ってくる。しかしそれも彼なりの優しさなのだと分かっているから、無碍にも出来ず頷いた。
 そうだ。最近は特に疲れていた。こんな時くらい羽目を外してもいいのかもしれない。
 夜道に怯える毎日を、いっそのことお酒でも飲んで忘れる方が、今の自分には必要なことなのかもしれないとも思った。
「あ、そういえばシギの彼女ってどんな人?」
 唐突に問われたそれに、大典はドキリとして和葉を見た。そこに大した意味などないことは彼女の顔を見れば明らかだ。心臓が僅かに高鳴るのは己にやましい部分があるからだろう。
「え? なんで?」
「なんでって……、あんまりちゃんと聞いたことなかったなぁと思って。あたしの話はほら、よく聞いてもらってたけど」
「そうか? 彼氏と別れたなんて知らなかったけどな?」
「あぁ、まあ、そうだけど……」
 和葉は俯いて、話題の選択を間違ったことに後悔した。今は也人のことは考えたくなかったのに、嫌でも彼の顔が脳裏に浮かぶ。
「って、あたしの話じゃなくて! シギの彼女の話が聞きたいの」
「はいはい。分かったから落ち着け。もう一杯頼むか」
 和葉が何かを言う前に空になった彼女のグラスを持って、大典は新たにチュウハイを頼んだ。それを和葉に勧めて機嫌を取るように微笑んだ。
 ずるいな、と和葉は思う。大典の笑みはある意味武器だ。有無を言わせない何かを感じる。営業の仕事もコレで乗り切っているのだろう。
「彼女は年下? 同い年?」
「年上」
「へえ、意外。お姉さん好きには見えなかった」
 和葉が素直に感想を述べると、困ったような苦笑を浮かべて大典は「そうか?」と小首を傾げた。
「別に年上好きってわけじゃないよ。たまたま俺の方が下だったってだけで」
「そうかな。あたし、年って結構重要だと思うよ。やっぱり年上の方が頼れるっていうか、甘えられるっていうか」
「でも年齢で好きになるわけじゃないだろ?」
「そうだけどさ」
 答えながら、和葉はしかし、そういう対象として相手を見るか否かの判断は年齢も基準に入るとは思うのだ。そう考えればやはり也人は特別で、あの時の自分は確かに彼を愛していたのだと実感した。
 和葉は二杯目も一気に飲み干して浮かんできた彼の顔を振り払う。
「ま、確かに女性の場合は男よりも年齢の差って重要かもな。俺の彼女も気にしてる節あるし。俺は全然気にしてないのにさ、やっぱ負い目とかあんのかも」
「そうだよ! 年下だとさ、自分がしっかりしなきゃ、みたいに思っちゃうんじゃない? 無意識にでもどっかでさ」
「ああ、なるほど」
 和葉の話を聞きながら大典は倫子のことを思い出した。もともとしっかりした性格で、2,3年の人生経験の差を見せ付けられることもしばしばある。大典としては頼られたいと思うが、どうだろう。実際は頼りっぱなしな気がしないでもない。大典は胸の内で反省する。……今度のデートのときは充分に甘えてもらおう。
「で、彼女ってどんな人?」
「どんなって?」
 まだ大典の恋人の話を引っ張るらしい和葉は、真っ赤に染まった顔で聞いてきた。早速アルコールが全身を回っているようで、顔だけでなく見える素肌全ての部分が赤かった。そう仕向けたのは大典であるのに、和葉の体を見てそのことに若干の不安を覚える。
「キレイ系? カワイイ系?」
「んー。外見はキレイ系。性格もしっかりタイプで、さっぱりしてるけど」
「けど?」
「俺から見れば全部カワイイ。無駄に強がってる時とかは特に」
「……ふぅん」
 まさか満面の笑みで惚気られるとは思わなかった。和葉はアルコールからの熱とは別に顔が熱くなるのを感じた。なぜ聞かされた側が照れているのだろうか。
「……ラブラブだね」
「ラブラブだよ」
 即答されて、さらに恥ずかしくなる。
 和葉は居た堪れなくて、三杯目を追加した。
 羨ましかった。そんなふうに言ってしまえる大典も、そんなふうに言われる彼女も。
 全てが今の和葉にはないものだ。

「う゛ぅ……気持ち悪い……」
「馬鹿、飲みすぎだ」
 ふらつく足で歩く和葉の体を抱きかかえつつ、大典は店を出て駅へ向かう。意識はまだあるものの、体はもう言うことを聞いていないようだ。見事なまでの千鳥足で、和葉は完全に潰れていた。
「確かにがんがん飲めとは言ったけど、自分の限界くらい分かっとけよ」
「ムリー! ムリー! あたし二杯以上飲んだことないんだもん!」
「まじかよ……」
 いや、それでもココまで、という感覚くらい分かるものだとは思うが。
 大典は呆れつつ、何を言っても後の祭りだ、と諦めた。
「お前、家どこだ?」
「なにぃ? だめだよーついてきちゃー」
「言ってる場合か! 一人で歩けないだろ、お前。送ってくから教えろよ」
「いーよー、あるける! あるけるもん!」
「どこをどう見て信じろって? いい加減にしろ」
「……」
「おい?」
「……ねむい……」
「寝るな!!」
 うつらうつらと頭が揺れる和葉は、既にとても歩いているとは言えなかった。大典に引きずられながらどうにか足を交互に動かしている、と表現した方が確かだ。酔っ払った人間の体がこんなにも重いとは思っていなかった大典は、ようやくになって一抹に感じた不安が的中したことを痛感する。あそこで止めておけば良かったと反省し、次に誘うときは倫子も呼んで誰かの家でやるしかないな、と考えを巡らせる。
 しかしながら、今すべきことは無事に和葉を家まで連れて帰ることだ。
 どうにか和葉からアパートの住所を聞き出し、二人分の切符を買う。意外に自分の家から近いことを知って驚いた。
 駅を降りて改札を出る。駅前は夜も深くなってきたというのに賑わいを見せていた。しかしそれも一歩住宅街へ入ると雰囲気は一転し、街灯さえ心許なく感じた。例え和葉が酔っていなくても一人で帰していては危なかったかもしれない、と大典は思い、彼女を送ることができた今の状況に少しだけ安堵した。
 それでも毎日、この道を帰っていたのでは危ないことには変わりないということも分かっている。今まで襲われたということは聞いていないが、大丈夫だったのだろうか。まるで保護者のように和葉を見ていることに気づいて大典は思わず苦笑を洩らす。そういえば初めて会ったときから、和葉に対してはこうだったように思う。どうにも放っておけないのだ。
 それでも和葉と同様アルコールを摂取した大典の体は、さすがに疲れてきて頭がくらくらとしてきた。息は既に上がっている。
 アパートの近くまで来ると児童公園が視界に入ってきた。大典はそろそろ限界だ、とでもいうように進行方向を変更して公園へと入る。ベンチに和葉を座らせると、自分もその隣に腰を下ろす。汗が尋常ではないほど流れ、背中にシャツが張り付いて気持ち悪い。
「おい、乙瀬? 起きてるか?」
「……うん? なに?」
「起きてるなら、いい。寝るなよ」
「ん」
 本当に大丈夫かよ、と和葉の顔を覗きこむが、彼女は彼女で必死に睡魔と戦っているようだ。何度も閉じそうになる瞼を持ち上げて、険しい表情を作っている。
「ちょっと自販機で飲み物買って来るけど、要るか?」
「いらない……」
 大典は和葉の返事を聞くと、そうか、とだけ言って立ち上がった。自動販売機はベンチの向かい側にあるし、街灯もあって完全な暗闇ではない。何かあればすぐに気づけるだろう。
 財布から小銭を取り出して飲み物を選ぶ。無難にコーヒーで良いか、とボタンに手を伸ばした。
 ガコン、と大きな音を立てて缶コーヒーがポケットに落ちたのと、後ろから和葉の声が聞こえたのはほぼ同時だった。

「ぃやあぁぁぁぁぁ!!」

 悲鳴に驚き、振り返れば、知らない男が和葉に近づいていた。