月影

chapter 10


「やだ! やだ、やだ! やだあぁぁ!」
 うつらうつらとする頭で隣に座っていた大典が立ち上がる気配を感じ、その直後、不意に後ろから手が伸びてきた。気を抜いていたところの衝撃に、呆気なく和葉はパニックに陥った。アルコールが入っていたせいもあるのだろう、也人に抑えられたときには出なかった叫び声が、本能のままに放たれる。
「え? っちょ……、落ち着いて……」
「いやぁ! やだったらあぁ!」
 和葉の肩に手を伸ばした男は突然叫ばれたことに動揺するが、和葉の耳に男の声は届いていないようだった。落ち着いてもらおうと手を掴むと、更に大きな声を出して暴れられた。そこでようやく男は普段の和葉と様子が違うことに気づく。
 と、不意に、どがっと鈍い痛みが男を襲った。
 暗闇の中で男が彼女の顔が赤く染まっていることを確認した直後、和葉の叫び声を聞きつけた大典に体を引き剥がされ、思い切り投げ飛ばされたのだ。尻餅をついた男が顔を上げると、険しい表情で睨みつける大典と、その背後で怯えた表情を覗かす和葉がいた。男は訳が分からず呆然とする。
「お前、今こいつに何しようとした!」
 いきなりの事態に興奮した大典が叫ぶように男を問い詰める。
 しかし先に状況を飲み込んだのは、大典に投げ飛ばされた男の顔を認識した和葉だった。
「え……? いや、僕は……」
 大典は言い訳をする男の胸倉を掴み、有無も言わさず睨みつける。それを和葉が慌てて後ろから止めに入る。
「シギ、ちょっと待って!」
「あ?」
 散々叫び散らしていた和葉が今度は男を庇うように大典の腕を掴んできた。大典は怪訝に思い、男の胸倉を掴んでいた手の力を緩める。和葉の方へ振り返ると、彼女は「違うから」と首を横に振った。男と和葉を交互に見たあと、大典はそっと男から手を離す。
「違うの、ごめん。あたしびっくりして」
 大典が手を離したことにほっとした和葉は、強張った肩をゆっくり落とし、大典の背中から男の前へ体を出した。
「何、知り合い?」
「うん。あの、すみません、大丈夫ですか?」
 大典の問いかけに頷きつつ、和葉は座り込んだままの男――高歩に手を差し出した。
 和葉の手を借りて高歩は立ち上がる。未だに大典と高歩は状況がつかめていない様子で、困惑した表情を隠せないでいた。
「シギ、こちら筵井さん。この前言ってた、最近知り合った人なの」
「ああ……」
 大典は紹介された筵井という名の男を改めて見て、納得したように頷いた。和葉が映画のチケットをねだってきた理由の相手だと思い出したのだ。確かに和葉の言うとおり優しそうな風貌の、年上の男だった。
「筵井さん、こっちは同僚の鴫野です。さっきは本当にすみません」
 高歩に大典を紹介した和葉は、深々と頭を下げて謝罪の意を述べた。高歩は慌てて手を振って、和葉に頭を上げるよう言う。
「いやそんな。僕こそ驚かせてしまってすみません」
「俺も、あの……、すみませんでした」
 三人で様様に謝罪しあった後、とりあえず高歩は殴られた頬を冷やしに水場へ向かい、二人は気まずい雰囲気でベンチへ腰を下ろした。
 高歩がハンカチを濡らして痛みで熱くなった頬に宛がう後姿を見ながら、大典はこれ見よがしに溜め息をついた。
「ったく驚かせやがって。マジで襲われてるかと思ったんだぞ。すっげぇ良い人じゃん」
「ごめん……。だって本当にびっくりしたんだもん」
「だからって叫びすぎだろ。どんだけ意識飛んでたんだよ」
 確かに寝込み襲われたら誰だって驚くが――と嫌味たらしく大典が言えば、和葉は返す術がなかった。
 しかし必要以上に高歩が憤慨しなかったのは、おそらく和葉の叫んだ理由が大典の言うそれとは違うことを、高歩は気づいているからだろう。そのことに申し訳ないと思いつつ、一方で和葉は敢えて何も言わないでくれた高歩に感謝した。和葉は大典に何も告げてはいないからだ。それがここで仇になるとは思いもしなかったが。
 しばらくしてすぐに高歩が二人の居るベンチへ戻ってきた。大典は立ち上がって改めて頭を下げた。
「本当にすみませんでした。大丈夫ですか?」
 心配そうに覗き込む大典に、高歩は軽く微笑んで見せる。彼のパンチはなかなかに効いたが、そこに悪意はないので責めることもない。大丈夫ですよ、と答えて、高歩は大典の一歩後ろで立っている和葉の方へ視線を向けた。
「それより乙瀬さんの方こそ大丈夫でしたか?」
 高歩が和葉に向けて放った言葉の真意を掴めずに大典は首を捻った。大丈夫かと気遣う問いかけを和葉に向ける高歩に、どことなく違和感を覚えたのだ。彼女にはその真意は伝わっているらしく、黙ってコクリと頷いていたが、大典はをれを無視できなかった。
「そういえば筵井さんはどうしてここに?」
 大典は高歩に尋ねた。それを聞いて和葉はハッとした。そういえばそうだ。真夜中の公園にどうして彼は現れたのだろうか。今まで驚きのあまり、そのことに全く気づかなかった。見れば高歩は私服という感じではない。教師という職業柄か、スーツ姿の高歩をあまり見たことはないが、私服というほどラフな格好でもないので、おそらくは帰宅途中だったのだろう。
「ああ、いや、偶々通りがかったら乙瀬さんがベンチに居るのが見えたので……」
 高歩は言葉を濁しながら答える。そのことに大典が気づかないはずがなかった。僅かに目を細めて高歩を見る。
 大典の表情が少しばかり変化したのを見て、どうしたものか、と高歩は困った。大典が和葉の事情をどこまで知っているのか分からないから、答えようがなかった。ストーカーという問題はあまりにデリケートで、簡単に言えるわけがない。
「夜の公園に女性一人だったら危ないと思って声を掛けたんですが、逆に驚かせてしまいましたね」
「この辺りにお住まいなんですか?」
「ええ」
 苦笑しつつ答える高歩だが、そろそろ切り上げないと墓穴を掘りそうな予感がした。大典はなかなか回転の速い人物のようだ。実際高歩の住むマンションはここから駅へ引き返す位置にある。そのことに気づかれれば余計怪しまれるのは必至だった。
「でも鴫野さんが居たので良かったです。やはり夜に女性一人だと危ないですから」
 高歩は優しく微笑んで、和葉に目を向ける。和葉は申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
「それじゃあ、僕はこれで。――乙瀬さん、鴫野さんにしっかり送ってもらってくださいね」
 和葉に念を押してから、高歩は踵を返して公園を出て行った。
 高歩の姿が見えなくなるまで見届けたあと、俺らも出るか、と大典が和葉の方へ振り向く。
「酔い、醒めたみたいだな」
「……さすがにね」
 赤みが引いた頬に手を当てながら、和葉は思わず苦笑を浮かべた。あれだけ驚けば酔いも醒める。ついでに眠気もすっかりどこかへ行ってしまった。
 大典に送られ、アパートへ戻る。
 彼がアパートの前まで一緒に着いて来ていたからだろう、玄関の前まで来ても也人は現れなかった。
 和葉は安堵しつつも、背後を確認しなければ鍵も開けられない自分に、再び疲労感を覚えた。
――もう、こんなのは嫌だ。

                □ □ □ □

 土曜日の学校は思ったよりも静かだった。それもそうか、と知史は思い出した。授業のない日に学校へ来るのは練習熱心な部活動をしている生徒か、成績不良で補習のために強制登校させられる生徒くらいなものだ。普段の半数もない人しか居ないのに、賑やかなはずがなかった。かくいう知史も後者の一人に過ぎないが。
「おい、新居じゃねーか! 何やってんだよ?」
 担任の通告によって補習を余儀なくされた知史が校舎から出てくると、見知った顔が彼を見かけて声を掛けてきた。その呼びかけに振り返れば、よくつるむ同級生が数人の仲間と一緒に手を振って知史を呼んでいた。
「補習。出席日数がシャレにならないらしいよ、俺」
「ははっ、どんだけ!」
 まるで他人事のように言う知史に友人達は馬鹿笑いし、それよりこれから遊ばねえ? と誘ってきた。制服姿の彼らもおそらくは、夏休み前の補習組なのだろうが、そこに反省や向上心の色は一切見受けられない。己も含めそんなものだと思っている。
「そうだなぁ……」
 せっかく土曜日にまで学校に出向いたのだから高歩に一目でも会いに行きたかった。けれど職員室を覗けば姿が見当たらず、もしかしたら来ていないのかもしれない。それならこいつらと暇を潰すのも悪くないだろう。どうせ真っ直ぐ家へ帰るつもりはなかった。
 そこまで考えた知史は、何気なく校門の方へ視線を向けた。特に何を気にしたわけでもなかったが。
 駐輪場の近くであるこの場所から見えたのは、携帯電話のディスプレイを覗きながら神妙な面持ちで歩く高歩だった。
 その一瞬で知史の答えは出た。
「悪い、今日はいいや」
 そう言って友人達と別れると、早足で高歩を目指す。
 電車通勤している高歩は駅まで徒歩だ。すぐに追いつくだろう。そう思っていた知史だが、運悪く校門から出て目の前の信号に掴まってしまい、見る見るうちに高歩の後姿が遠ざかっていく。その速さからして高歩もどこか急いでいるようだ。
 そして偶然見えた高歩の左頬に知史はぎょっとした。僅かながらに腫れているのが分かったのだ。
 昨日にはなかったそれに、知史は訳も分からず焦燥感を覚える。何かあったのだと勘繰らずに入られない。最近影が見え始めた女が原因だろうか。
 チ、と軽く舌打ちをしつつ、信号が変わるなり高歩は駆け出した。右側の歩道に渡っていた高歩がもう一つ先の信号を渡っていく。目の前に彼の姿があるのに近づけないことが苛立たしい。
 しかし、なぜだろう。なかなか追いつかない距離に諦めるという選択は知史にはなかった。
 せっかく見つけた拠り所だ。手放すものかと必死にしがみついて、例え格好悪くても最悪でも、知史にはどうでもいいことだった。
――胸騒ぎがする。
 眉根を寄せて、高歩には珍しい表情を垣間見てしまったからも知れない。
 知史の胸は高鳴って、全力で走っているわけでもないのに息苦しさを感じた。
 どうか俺に気づいてと、届かない願いを高歩の背中に向ける。