月影

chapter 11


 ベッドの上に寝転がって、和葉は携帯電話を眺めた。メールの新規作成画面を選択して思案する。
 今からこれを高歩に送れば、きっと何かが変わる。今のままではいけないと分かっているから、この状況を打破するための第一手だ。
 けれど、本当にこれで良いのだろうか。他に手はないだろうか。別の良い手があるのではないか。
 そんなことを幾度となくぐるぐると考えてみるが、今の和葉にはこれ以上の手は思いつかなかった。誰の迷惑にならにようにするためには、誰のことも傷つけないようにするには、他に手はないようにさえ思えた。あくまでも自分と也人との問題だから、他の人を巻き込みたくなかった。嫌な思いをさせたくはなかった。もう高歩には充分すぎるほど甘えてしまったし、大典には心配を掛けてしまった。きっと倫子にも少なからず気を遣わせているだろう。
 和葉は意を決して文章を打ち込み始めた。これで終われるならそれが良い。もう誰にも迷惑を掛けずにすむなら――例え何が起こっても構わない。こんなふうに思ったのは父親が亡くなった時以来だ。

                □ □ □ □

――やばい。ヤバイことになってしまった。
 知史は机の上に突っ伏して項垂れた。今になって土曜日のあの日にしてしまった自分の行動を後悔する。僅かながらの罪悪感に苛まれていた。
 結局、土曜の補習の帰りに高歩を見かけた知史は、そのまま後を付いていく形になり、図らずも高歩の自宅の前まで突き止めてしまったのだ。さすがにここまで行くとストーカーだよな、と慌てて踵を返して帰ってきたのだが、それでもそれまでの道のりはしっかりと記憶に留めているあたり、自分でも重症だと思う。そのことに罪悪感と後悔が襲ってくる。自分の部屋でじっとしていることもできなくて、朝も早くから学校に来ていた。
 まだ登校してきている生徒も疎らで、こんな光景を見る日が来るとは思わなかったけれど、あまりにも気分は落ちていた。いつか高歩が朝焼けの風景は素晴らしいだのとほざいていたが、そんなことは全く感じなかった。むしろ嫌気が差すほど眩しくて、しばらく空を呆然と眺めていたほどだ。遅刻するたびに閉まっている校門を潜り抜けていたが、まさか早すぎても学校に入れないとは思っていなかった。
「うおっ! 新居がもういる!」
 登校してきた友人が既に教室にいる知史を見つけ、甲高い声を上げた。珍獣を目撃したかのような反応が鬱陶しくて無視していたが、あまりにも珍しい光景を目にした彼の興奮は収まらないようで、知史の不機嫌な雰囲気を感知する能力も失っているようだった。
「どうしたんだよ。今日は嵐か?」
「うっせぇな。普通だろ、生徒が学校に来るのは」
「まぁそうなんだけど。この前の補習といい、本当にやばいんだな、お前の出席状況」
 不躾な物言いに、確かにその通りではあるのだけれど、知史は容赦なく拳を振り上げた。キレイな音がして、彼は叩かれた後頭部を抑えて思わず蹲った。
「いってぇ! キレーなカオして容赦ねぇな」
「カオのことは余計だ」
 知史の整った顔がいっそう不機嫌さを増して、ようやく彼は自分が言ってはいけないことを言ったと自覚した。慌てて声を喉の奥へ押し込めるが「既に時遅し」だったようで、そそくさとその場を退散した。知史はチッと舌打ちすると、大げさに音を立てて立ち上がり、教室を出て行く。慣れないことをするから嫌な事が起こるのだ。
「あっおい、どこ行くんだよ」
 後ろから声が追いかけてきた。
「サボる」
 知史は振り返りもせずに答えた。
 教室を出ても行くあてなどなかったが、きっと授業開始のチャイムが鳴っても、教室へ戻る気分にはならないだろう。
「……屋上開いてないしな」
 一人呟いて、それでも階段を上っていく。この学校は屋上を開放してはいないが、存在がないわけでもない。立ち入り禁止と大きく書かれた看板の前まで足を向けると、そのまま腰を下ろした。電気すら付いていない暗い場所で、足元で響く挨拶を交わす声に、知史は言い様のない溜め息を吐いた。
 時折、世界はこんなにも輝いているのにどうして、自分はこんなところで独りなのだろうと考えてしまう。それは家に居る時に考えることが多かった。学校には友人や仲間が居て楽しい。バカやって騒いで、じゃれあっていると“独り”と感じることはないからだ。
 学校は好きだ。
 家は嫌いだ。
 けれど本当は、場所に問題があるわけではないことを、知っている。
 一年前の夏、高歩に会わなければきっと、今頃は学校も辞めていたと思う。勉強を大切だとは思ったことはなかったし、必要だと感じたことはなかった。中学までは親の義務で行かされていたけれど、そこを卒業してまで行く価値があるとは思わなかった。受験をしたのは世間の流れに乗っただけで、当時はそれなりの成績を収めていたおかげで今の高校に合格した。ただそれだけだった。
 どうして高校生活を続けようと思ったのか、知史は時々忘れそうになる。むしゃくしゃとして、結果、高歩に怒られる。そしてやっと思い出せるのだ。今でもそれほどこの生活が大切だと思ったことはない。
 知史は立ち上がって階段を下りる。
 向かった先は教科準備室。高歩の居る場所だった。
「先生、いるー?」
 無遠慮にドアを開けて声を掛ける。職員室とはまた違う特有の空気がここにはあって、きっと他の生徒には近づきにくく感じられるのだろうが、知史はそれが特別な感じがして好きだった。ただ高歩の隣、という事実が居心地を良くさせているのだろう。
「なんだ、新居。朝から来るなんて珍しいな」
 朝から学校に来ていることがほとんどなくなっていた上に、時間帯も始業時間よりずっと余裕のあることに驚きつつ高歩は、知史の予想通り呆れながらも優しい微笑を浮かべて彼を迎え入れてくれた。約束された安堵感というものは、なんて甘いものなんだろうと思う。
「先生……彼女できた?」
 唐突に出てきた質問に、高歩は思わず噎せ返った。いきなり何を言い出すんだ、この子は。
「な、なんだ? 恋愛相談なら僕はできないぞ?」
「そうじゃないけど。最近先生、おかしいし」
 不満気に言う知史をまじまじと見つめ、ああ、と思い当たる節に見当を付けた。彼は不満というより不安なのだ。
「お前の気にすることじゃないよ。心配かけて悪かったな」
 本当は優しい心持ちの不良少年の頭を撫で、高歩は土曜日に送られてきた和葉のメールを思い返した。
 彼女からのメールには、また一緒に帰ってほしい、という依頼のものだった。当然高歩は承諾の返信を送った。断る理由などあるはずもなかった。
 それとともに安堵を覚えた。また送ってあげられるという現実に喜びすら感じたのだ。彼女の支えになれることであれば、何だってできると思った。今になってようやく自分の思いが通じたのだと、嬉しかった。
 本当に? と上目遣いで見上げてくる知史に頷いてみせ、そろそろチャイムが鳴るからと肩に手を添えた。
「にしても、お前に心配されるようじゃ、先生として失格だな」
 ふと呟いた高歩の言葉に、知史は心底驚いたように大きな目をさらに開いた。
「そんなことないよ! 俺は……っ」
「ほら、教室へ戻れ。授業はサボるなって言ったろ?」
「……うん」
 全く納得はしていないけれど、高歩に言われてしまえば他に返す言葉もなかった。ここで素直に嫌だと拒否するのはただの我侭だ。迷惑を掛けるだけで自分も良い気分はしない。その境目は無意識の内に見極めていた。
 それでも、教室へ戻るには普段の倍ほど時間を掛けたけれど。

 下校時間になると、知史は教室を出て真っ先に高歩の居るだろう教科準備室へ足を向けた。思えば高歩には知史の質問に答えてもらっていなかった。
 本当のところはどうなのだろう。高歩に彼女ができたのだろうか。反応から見れば今まで恋人は居なかったと肯定しているようにも思えたが、現在のところでは分からない。――ここまで思いを巡らせて知史はうんざりとした。考えることさえ嫌気が差した。
「センセー!」
 声を上げながら扉を開ける。担任を持っていないから終礼の直後だったけれど既に居るだろう、と踏んでいたのだが。
「……あれ。いないのー?」
 そこに高歩の姿はなかった。なんだ、と知史は途端に興味をなくし、扉を閉める。
 もしかしたら、と思い、職員室を覗いてみたが、やはり高歩の姿は見当たらない。既に帰ってしまったのだろうか。
「あら、どうしたの?」
 職員室の出入り口のところで肩を落とした知史に、近くの席に座っていた他学年を担当している教師が声を掛けた。
「別に」
「お、新居! 今日は一つもサボらなかったんだってな」
 踵を返して帰ろうとしたところへ後ろから知った声が掛けられた。鬱陶しくも振り返ってみれば、古典担当の教師がにこやかに微笑んでいた。
「その調子で明日も来いよ」
 爽やかな笑みで言われても、知史は返事もせずに職員室のドアを閉めた。
――別にお前のために来てるんじゃねぇよ。……先生がサボるなって言ったから出ただけのことだ。
 なのにどうして、今日に限ってさっさと帰ってしまったのろう。まだ夕方とも言えない時刻だというのに。
 知史は学校を出て行く当てもなく、ブラブラと街を歩くかとも考えた。しかしどうもそんな気分にならない。
 とりあえず駅まで足を向け、そこでふと思い立って普段は乗らない電車の切符を買った。なんとなく予感がして、今朝に抱いた罪悪感を無視しながら、ただ高歩を求めていた。
 数十分電車に揺られ着いた駅は、連絡線が多い割にはそれほど大きくもない駅だ。特別な駅でもないが、後ろめたい気持ちがあるのだろう、若干緊張気味にホームへ降りた。出口は二つあったが、知史は迷わなかった。
 西口を出るとすぐに高歩の姿を見つけた。ほっとしたと同時に嫉妬も湧き上がってくる。いつもと高歩の行動が違うのも、最近ぼんやりとすることが多くなったことも、全てここにいるという事に繋がっている気がしてならないからだ。野生の勘、とでも言うのだろうか、こういうのも。
 知史は苛立つ心情を抑えながら、近くの建物の陰に隠れてみた。高歩は誰かを待っているようだった。何度か腕時計で時間を確認する仕草を見せる。絶対に女だ。自然と表情が険しくなるのを自覚しつつ、それを緩めるほどの余裕はない。誰だよ、とそれだけが思考を支配する。
 どれほど時間が経っただろうか。日は大分落ちた。辺りは暗くなった。立っているのも辛くなってきた知史だが、目の前にいる高歩が動かないからその場を離れることも出来ない。
 待ち合わせをしているわけではないようだ。……待ち伏せか?
 しかしそれは高歩の行動としては似合わない気がして、困惑する。どちらかといえば自分の方が当たっている。後を付けて、まるで犯罪者のようだ。
 知史が自己嫌悪に陥り、しばらく悶々と考え込んでいるうちに、高歩の表情が僅かに変わった。
――来た。
 高歩に近づく女に知史も気づいた。背は低く、線の細い体をしている。顔は見えなかった。年齢は判断できないが、スーツを着ていたから社会人だ。高歩が微笑んで何か一言二言、言葉を交わし、二人で肩を並べて歩き出した。
 あんな彼の表情は初めて見た。優しくて暖かい。昨年自分にしてくれた笑顔とは、また違った慈愛の笑みだ。
 ショックだった。複雑な思いが乱交し、知史の足は動けずにいた。