月影

chapter 12


 ホームを降りると高歩の姿が真っ先に映った。それに安堵し、僅かに上がっていた肩を下ろした。
 久しぶり、と挨拶するのも何だか変な気がして、曖昧な会釈をする。
「すみません。待ちましたか?」
「いや、僕も着いたところでしたよ」
 本当は彼女の定時より一時間も早く来てしまっていたのだが、そんなことは億尾にも出さないで、ふわりと微笑んで高歩は言った。
「それじゃあ、行きましょうか」
 きっと和葉は高歩の嘘に気づいているのだろう。それを感じて、これ以上話を続かせることもないだろう、と判断する。高歩が足を動かし始めれば、自ずとその後に和葉がついてくる。
 たかだか数週間離れただけで、最初の頃のように緊張している自分に気づいた。
 駅前のアーケードを抜け、交差点を通り過ぎる。狭い路地に入ればあとは突き当たりの公園まで一直線に進めばいい。
 前まで普通にしてきた会話も今はなく、歩き慣れた帰路がどことなくよそよそしく感じる。
 住宅の隙間のような路地には街灯が少ない。この辺りはこれほどまで暗い夜道だったろうか。安心できたはずの高歩の隣で、和葉は視線を落として俯いた。後ろの気配を窺ってみても、そこには何もなく、何もないことがより恐怖心を煽った。
――大丈夫。大丈夫だ。
 和葉は風の冷たさに身震いをして、それに耐えるがごとく拳を握り締めた。皮膚に爪が食い込んで痛みが走る。
 時間はあっという間に過ぎた。それほど駅から遠い場所にあるアパートでなかったことが、以前までは惜しくもあったが、今は少しだけほっとした。公園の入り口がはっきりと映る。結局今日交わした言葉は会釈付きの挨拶だけだったな、と寂しく思う。かといって和葉から掛ける話のネタも見つからず、そのまま、黙ったまま時間だけが過ぎていく。
「さすがに、冷え込みますね」
 穏やかな口調で高歩が声を掛けてくれた。沈黙が破かれたことに安堵はするが、もう別れなければならないと思えば息苦しい。
「そう……ですね」
 上手く返事ができない自分が歯痒く感じた。気の利いた言葉が浮かんでこなくて、再び沈黙が訪れた。
「……あの……聞いてもいいですか」
 いよいよあと数メートルで公園の入り口だという所で、遠慮がちに高歩は口を開いた。和葉は質問されたことよりも話し出されたことに何度目かの緊張を覚える。そしてようやく思考が回転し始め、何を問われるのだろうかと顔の筋肉が強張った。
「僕は頼りなかったですか?」
「え?」
 一瞬、何を聞かれているのか分からなかった。
 高歩はひどく真面目な顔をして和葉の瞳を覗き見た。そういう雰囲気ではないと知りつつも胸の高鳴りを抑えることは出来ない。
「ここ数週間、この道を一人怯えて帰ってたんじゃないですか? 初めて会った時あんなにも怯えていたのに、それでも僕は必要じゃなかったですか? 犯人の正体が分かったのなら尚更怖かったんじゃないかと……」
「……」
「不謹慎ですけど、僕は今日嬉しかったんです。乙瀬さんの役に立てるんだと、貴女に選んでもらえたこと、本当に――」
 そこまで話したところで公園に辿りついてしまった。二人の足が同時に止まって、和葉はおずおずと高歩を見上げる。そこには優しい表情で笑む高歩の顔があった。泣きそうなほど、胸が締め付けられた。――あたしはこの人を……こんなにも優しい人を騙しているのだ。
 耐えられなくて、和葉はすぐに視線を逸らした。
「選ぶとかそんな……あたしは……」
 けれど今言うべきことはそんなことではなく。
 和葉はもう一度素早く視線を合わすと、勢いよく頭を下げた。前にもこうしたな、と頭の隅でどうでもいいことが浮かんだ。
「今日はありがとうございました。自分勝手なことだとは承知の上です。付き合っていただけて、本当に感謝しています」
 頭を下げたまま、握り締めた拳に更に力を込めた。震えるのは寒さだけでなく、恐怖だけでもない。
 涙が出そうになるのを堪えて顔を上げた。これで最後になるのだろうか。
「それじゃ、これで」
 和葉がそう言えば、高歩も頷いて軽く手を上げた。
「はい。気をつけて。また明日」
 また明日。
 それはないだろう、と思いつつ、和葉は敢えて肯定も否定もせず曖昧に微笑んだ。
 踵を返して足早にアパートへ駆け込む。少しだけ振り返れば、高歩の背中が見えた。彼がもと来た道を引き返していく。
「っ!」
 高歩の姿が見えなくなったと思った瞬間、和葉は思い切り後ろへ引っ張られた。口元を押さえられ、声が出ない。
「騒ぐな」
 手足をバタつかせる和葉の耳元で低い男の声が聞こえた。それが誰かすぐに分かった。也人だ。和葉は驚きつつも、思惑通りだと眉根を潜めた。ここからどうやって彼と話せるのか、咄嗟のことで判断が付かない。
 和葉が大人しくなると壁に背中を打ち付けられる。相変わらず也人の手が和葉の口を塞いでいて、それだけは想定外だった。これでは話すどころか声もろくに届かない。
「次はないと言っただろう、和葉。お前の隣を歩くのはずっとオレだった。そうだろう? 忠告はしたのに、なぜまたあの男なんだ」
 声すら発することを許されないまま、也人の顔がぐんと近づく。手首を押さえていた左手はそっと離れ、腰から腿にかけて服の上から舐めていく。嫌悪で背筋が凍った。肩を掴んで体を離そうと抵抗するが、震えて上手く力が入らない。
 青褪める和葉の表情を正面から覗く也人は、笑みも怒りも悲哀も浮かべず、ただまっすぐと見つめる。その無表情が恐ろしかった。
「そんなにあいつが良かったのか。年上だし優しそうだし、確かにお前の好みではあるよな」
 明らかに嫉妬を表すセリフではあるのに、そこに感情は見えなかった。
 也人の左手だけが意思を持っているかのように動く。尻から腹をなぞって這い上がってくる。
「けど和葉が選んだのはオレだったんだ。忘れてないよな? お前の親父さんが亡くなった時だって、お前を支えたのはオレだった。何度も抱き合って、和葉はオレを特別だと言ってくれたんだ」
「っん! んんんっ!!」
 也人の左手が和葉の胸を掴む。やんわりとした動きは次第に痛みだけを与えた。
 精一杯叫んだのに、くぐもった声しか漏れないことが、こんなにももどかしくて情けない。
 いやだいやだいやだ。こわいこわいこわい。いたいいたいいたい。
 どうしてこの叫びが伝わらないのだろう!
「オレはいつだって和葉のことを想ってきたのに……どうしてお前は……っ」
 喉の奥から吐き出すように也人は言う。けれどそれを言い終える前に、鈍い音が響いた。
 どがっ
 ふ、と也人の体の力が抜けて、するりと和葉の体から手が離れる。
「はぁ……っはあ……はぁっ……」
 どちらか分からない、二人の吐息が静かに聞こえる。一人は口を塞がれ恐怖の中に居た酸欠状態の和葉で、もう一人は和葉の知らない人物だった。
「だ、大丈夫か、あんた?」
 足元には気を失った也人が倒れている。
 視線を上げれば、男にしては綺麗な容姿の少年が肩で息をしながら、戸惑ったようにこちらを見ていた。
 彼が助けてくれたのだと瞬時に理解する。けれどそれ以上に困惑した。第三者が介入してしまったことで、也人と自分だけの問題ではなくなってしまったのだ。これでは高歩を遠ざけた意味がない。
 也人に犯されてもいいから、誰の介入も避けたかった。
「とりあえず警察……」
 少年がズボンのポケットから携帯電話を取り出す。
「いい、警察は」
 和葉は跪いて意識のない也人の肩にそっと手を置いた。頭を撫でれば小さなこぶがあった。
「えっ? でもあんた、こいつに」
 誰が見ても被害者である和葉の、あるまじき拒むセリフに更に少年は戸惑いを見せた。加害者である男は気絶をし、警察に突き出すにはこれ以上の状況はないというのに。
「いいの。知り合いだから、あたし達」
「でもただの喧嘩には見えなかった」
「それでも、あなたには関係ないから」
 引き下がらない彼女の言い分に少年は思い切り表情を歪ませる。どうやら110のボタンを押すのはやめたらしいが、腑に落ちないという手つきで携帯電話を閉じたり開いたりした。関係ないとは言ってもこのままというわけにもいかないだろう、良識として、人としてこの状況では。
「じ、じゃあとりあえず、先生は呼ぶぞ」
 独り言のように呟いた少年の言葉に、今度は和葉が「えっ?」と驚きの声を上げた。
「先生ならいいだろ。とりあえず俺じゃどうしたらいいのか分かんねぇし」
「せ、先生って……」
 そこでようやく、少年は一方的に自分が彼女を知っているだけなのだということを思い出した。
「ああ、俺、あんたが駅から一緒にいた人の生徒」
 目を見開いて驚愕する和葉に少年は言い難そうに視線を逸らし、首の後ろに手をやって白状した。
「悪い。俺も二人のあとを着けてんだ」
 何を言っているんだろう、彼は。
 和葉は目の前で所在無さげに立ち尽くす少年と、白目を向いて気絶をしている也人を見比べて、今の自分の置かれている状況を理解するのにしばらくの時間を要した。少年が高歩を呼ぶためにその場を離れ、再び現れるまで、ただ呆然としているしかなかった。