月影

chapter 13


 喧嘩慣れした知史の一撃を無防備な背後から食らった也人を、高歩と知史の男二人で担ぎ上げ、戸惑う和葉の部屋へと上がる。高歩としては和葉の部屋へ上げるより、自分のアパートへ運びたかったのだが、伸びきった人間を移動させる労力を考えるとそれも簡単にはできそうになかった。
 和葉は何が何だか分からないままだった。まず第一に知史の存在が謎だった。彼の言葉から、高歩の勤務する学校の生徒であることは、回らない頭でも理解できた。目の前で男に襲われた自分を助けてくれた行動も分かる。……しかし、なぜ後をつけてきていたのか?
 第二に、也人を囲むこの状況だ。知史が也人を気絶させてから目の前で繰り広げられる展開は、まるでドラマや映画を見ているみたいにどこか現実ではないようで、バタバタと動き回る二人をただぼんやりと眺めている他なかった。どうして彼らはこれほどまでに動いてくれているのだろうか?

 気を失ったままの也人を玄関に座らせ、両手首を自分のネクタイで縛ると、高歩はようやく額に浮かぶ汗を拭った。
 振り返って神妙な顔つきの知史を見上げる。
「ありがとう、新居。お前はもう帰っていいぞ」
 知史の目は大きく揺らいだ。しかしすぐに表情を戻して、嫌だ、と首を横に振った。勝手に首を突っ込んでいることは自覚しているが、だからといって黙ってこの場を去る気はなかった。襲われた女と襲った男のことも気になるけれど、どうして彼らに高歩が関わっているのかが知史にとっては一番の問題だった。
「新居っ!」
 ここに居ると訴える知史に、高歩は立ち上がって声を上げた。知史の顔が釣られて上がる。高歩の目が睨んでいることに気づき、驚いた。
「でも、先生、俺……」
 思わず知史の声が震える。
「いいから帰るんだ。彼女を助けてくれたことは感謝するけど、これ以上は関わらなくていい」
「……や、いやだよ! ここまで来てさっ……」
「嫌だじゃない。もう時間も遅くなる。家に帰りなさい」
 “家に帰れ”と高歩の口から聞き、知史は思わずカッとなった。
「先生がっ! それを言うのかよ!」
 高歩はその瞬間、ハッと口元を覆った。見れば泣きそうな顔をした知史の目つきが鋭くなっている。今度は高歩が睨まれていた。
「俺、ぜってぇ帰んないからな。ていうか先生はあの人を見てなきゃいけねぇだろ。その間俺がこいつを見張っといてやるよ。先生喧嘩下手くそだもん」
 知史の口元は歪んで笑みを作っているようだった。高歩は難しい表情を崩さないまま頭の後ろを掻き、溜め息を一つだけ吐く。確かに和葉を襲った男が目を覚まして暴れたところで、ここまで綺麗に気絶させることは高歩にはできないだろう。せいぜい近所迷惑になるくらいに暴れて止めることが精一杯だ。仕方ない、と肩の力を落とした。
「分かった。少しだけここを任せる。けど耳も口も挟むなよ」
 ビシッと指を立てて高歩が注意すれば、力強く頷いた知史はどっかりと気絶した男の前に座り込んだ。腕を組んで警戒態勢は万端のように見せる。
 高歩は和葉の居るリビングへ足を運んだ。
 リビングは、女性の部屋と言うには殺風景としていて、その真ん中でぽつんと表情もなく座り込む和葉は、胸が痛むほど見ていて切なくなった。寒くなってきた季節に暖房もつけないでいる和葉の肩を、高歩はしゃがんでそっと抱きしめた。一瞬、びくりと体を強張らせる。それが高歩だと気づくと、ほっと目を閉じる。思わず高歩の手に力が込められた。
「まだ怖いですか?」
 できるだけ穏やかな口調で囁く。和葉の恐怖心を煽らないように、優しく優しく包み込むように、肩を抱いた手を背中に回して撫でた。
 返事をしない和葉に高歩は何も言わない。
 静かに、和葉は首を横に振った。ゆるゆると彼女の髪が揺れる。
「……なんだか、情けなくて……」
 声が震えていた。
「情けないなんて……。悪いのはあの男です。乙瀬さんが気に病むようなことは何も」
 高歩の言葉を遮るように和葉は激しく首を振った。
「分かってたんです」
 ゆっくりと、けれどはっきりとした口調で和葉は言い切った。声は震えていたが泣いてはいないようだ。本当は泣きそうになっているのかもしれないが、高歩には前髪に隠れた彼女の表情を見ることは出来ない。
「分かってたって……?」
「分かってたんです、全部。筵井さんに送ってもらえば彼があたしの前に現れること。分かってて。誘ったんです」
 高歩は絶句した。
「ちゃんと話をしたかったんです。メールでも言いましたけど、彼は――也人はあたしの元彼で、だから」
 だから――。
「……」
 和葉にはその先が言えなかった。涙が一粒、膝の上で握り締めていた拳に落ちた。
 だから何だというのだ。本当に話し合えると思っていたのだろうか、自分は? 犯されてもいいなんて本気で思っていただろうか? 最初に也人に襲われたときの恐怖を思い出しはしなかったか? 答えは全て否だ。あの状態の也人と真っ当な話し合いが成立するとは到底思えなかったし、犯されても良いなんてあるはずがないし、毎夜眠れないのはあの恐怖を味わってからだった。
「本気じゃないんでしょう?」
 確かめるように高歩が尋ねる。
 コクン、と頷いてしまいたかった。高歩の胸に縋りついて、怖かった、と泣き喚きたかった。けれどどれも出来なかった。
 高歩は項垂れたまま顔を上げない和葉の背中を撫でていた手を離し、全身を包むように抱きしめた。自分の胸に彼女の頭を抱え込み、宥めるように髪を撫でる。和葉はされるままに身を任し、けれど泣き声一つ出さなかった。それが返って高歩の心を切なくさせる。
「乙瀬さんが気に病むことは何もないんです。やはり悪いのはあの男です。恋人だったからといって、あの男がしたことは完全な犯罪です」
「……」
 沈黙が続く。
 高歩は撫でる手を止めずに続けた。彼女を子どもだと思ったことはないが、子どもをあやしているような行為だとは思った。
「――……あたし、悔しいんです」
 ようやく出た和葉の声は、小さかったが、しっかりとした口調だった。
 これが彼女の本音だと高歩は確信した。不謹慎だとは思ったがやはり嬉しかった。
「悔しいんです……」
 和葉が言ったのはそれだけだった。けれどそれで充分だった。高歩は場違いだとは思いつつ笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「いっそのこと、引っ越しませんか?」
「え?」
 唐突な提案に和葉は驚き、顔を上げた。ぐちゃぐちゃだった思考回路は全て止まり、真っ白になる。
 困惑する和葉をよそに当の高歩は平然とした声音でにっこりと微笑んだ。
「色々考えたんですけど、乙瀬さんは彼を警察へは引き渡したくないんでしょう? 恋人だった彼を前科者のレッテルを貼ってまで落ちぶれさせたくはないんでしょう。でもここへ居ては、いずれあの男は戻ってきます。今は気絶してますが、懲りずにまた乙瀬さんの前へ現れる。だったら乙瀬さんが離れるしかないじゃないですか」
「でも、あの……?」
「会社はどこにありますか? 僕が責任を持って探します。一人で引っ越すのが不安なら、近くに僕も越していきます。ちょうど引越し先を探していたところでもあったので、手間は同じです。乙瀬さんが気に病む必要はありません」
 きっぱりと言い切った高歩に、和葉は言葉を失った。なぜそこまでしてくれるのだろうか。高歩の優しさに涙が出そうになる。嘘でも真でも今はどちらでも良かった。高歩の温もりを感じ、その言葉をくれるだけで、和葉は安堵できた。
 再び目を閉じ、和葉はその身を高歩に預けた。
 どうしてだろう。やはりこの人の隣は安心できるのだ。

 ぐ、と也人は呻き声を上げ、意識を取り戻した。その刹那、待ってたとばかりに知史の目が細くなる。
 玄関で喚き声と鈍く思い音が響いた。驚いた高歩と和葉はお互いに顔を見合ってから、恐る恐る立ち上がった。音がしたのは本の僅かの間ではあったが、それだけで也人が気づいたのだということは理解に難くなかった。
「どうした、新居」
 ドアを開けて廊下に出る。見れば、高歩が前に縛っていたはずの両腕を背中に回された也人が、うつ伏せになって押さえつけられていた。意識を戻し暴れだした也人を、見張っていた知史が力ずくで押さえつけたのだ。訳も分からず、ただ屈辱的な体勢に怒りを露にする也人は、必死に知史の手から逃れようと足掻くが、何の効果も示さなかった。
「先生、こいつどうすればいい? もう一回トばしとく?」
 知史は顔に似合わず物騒な事を平然と言う。いや、と高歩は簡単に答えて、和葉の肩を抱いたままだった腕を解いた。静かに也人の前まで進むと、自分を睨みつける也人の胸倉を掴み、顔を近づける。見れば見るほど目の前の男が憎らしく思えた。
「お前……和葉の新しい男か」
 也人はこんな状況だというのに、いやらしく笑みを浮かべ、喉の奥を鳴らした。
「残念だったな。あんた絶対、顔で選ばれたんだぜ。和葉の心はまだオレのもんだ。あいつの“特別”はずっとオレの」
「だから何だ?」
 高歩は低く重い声で也人の言葉を遮る。
「顔で選ばれて結構。それだけの魅力を僕が持っていたということだろう。それに僕が新しい男だと言うならお前はもう特別でも何でもない。二度と彼女の前に現れるな」
 言うが早いか、高歩は掴んでいた胸倉を離し、立ち上がると也人の上に乗っている知史を見下ろした。
「悪いけど、もう少しその体勢のままで居てくれるかな」
「お、おう」
 高歩の表情に知史は一瞬顔を引きつらせた。見たことのない冷徹な眼差しはきっと、今自分が押さえつけている男に向けられたものなのだろうけれど、それでも普段の高歩を知っている知史にとっては背筋が凍るかと思えた。あの目を見たことは今まで一度もなかった。
 和葉の方へ振り向いた高歩はすぐにいつもの優しげな笑みを浮かべる。
「すみませんが、今日は僕のアパートへ行ってもらっても良いですか? 誰かご友人を呼んで一緒に泊まってください。僕はここであの男を見張ってますので」
「見張って、どうするんですか?」
「男同士の話し合いでもしようと思います。警察は呼びませんよ。僕は一応教師ですから、ああいったタイプの生徒と会った経験もあります。僕に少しだけ任せてもらえませんか」
――ああ、そうだった。和葉はいつかの高歩を思い出した。こういった口調で話す彼を見たのは初めてではなかった。
 高歩の背後では手足をバタつかせようとする也人と、それを押さえ込む知史の姿が映る。
「あの子はどうするんですか?」
 和葉が尋ねると、高歩は首だけを回して視線を知史に移した。そしてまた和葉に戻し、にっこりと微笑む。
「乙瀬さんを送った後は帰らせてください」
 ばっさりと言い切る高歩に、和葉は何となく二人の関係性を見出した。きっとあの少年は高歩を慕っているだろうに、高歩はその他大勢の生徒の一人としてでしか見ていないのだ。例えるならそんな感じだと思う。
 けれど結局優しいのは二人に共通する点である。和葉は納得したように頷いて高歩を見上げた。