月影

chapter 14


 和葉が出て行った後の、閉じられた扉を見上げて高歩は口元だけで微笑んだ。目の前には項垂れた也人がいる。その頬は赤い。赤く腫れあがっていた。
「目が覚めたか?」
 高歩は声を掛ける。也人の返事はない。それでも高歩は構わなかった。力なく座り込んでいるその姿が、この男の答えなのだろう。
「痛いだろう、叩かれた頬は。けど叩いた彼女の手も充分痛いんだ」
 それきり高歩は口を閉じる。長い沈黙が訪れた。


 高歩に言われたとおり、和葉は携帯電話を取り出して友人を呼び出そうとアドレス帳を開いた。しかし専門学校での友人達は皆ここから遠い地域に住んでいたことを思い出した。父親が亡くなってから和葉はこちらへ越してきたからだ。中学・高校時代からの友人達も同様だ。そして会社の同期と言えば大典しか浮かばなかった。彼が男だという点はこの際諦める。彼女は躊躇いがちにダイヤルを鳴らした。
「乙瀬!?」
 遅い時間帯に電話をしてきた彼女に始め驚いた様子の大典は、しかし最近和葉の様子の不自然さを感じていたこともあり、すぐに行くと返事をくれた。大典の焦燥ぶりに申し訳ないと思いつつ、高歩の言うとおりに行動した方が良いということは分かっていた。
「……大丈夫か?」
 顔が青いままの和葉を見上げて、思わず知史は声を掛けていた。少し驚いた様子を見せた和葉だったが、それよりも自分の言動に戸惑いを見せていたのは知史自身だ。己が人見知りをする性質だということを知っているからだ。こんなふうに自然と話しかけることができたのは初めてかもしれない。きっと彼女が大変な事にあっているのを目の当たりにしたせいだろう。
「うん。すぐに来てくれるって言ってくれたから」
 和葉の掠れた声は弱々しく、知史は苦々しく表情を歪めた。ああいった肉体的にも精神的にも乱暴な奴は許せなかった。
「そっか。良かったな」
 それ以外掛ける言葉が見つからない。けれど和葉は笑って頷いた。本当は知史が笑って、慰めたり励ましたりしなければならないのに、むしろ和葉の笑みを見て知史が安心させられた。
「えっと……、君は筵井さんの生徒さん、だよね?」
 和葉が確かめるように言った。知史はこくんと頷いただけの返事をする。
「筵井さんってどんな先生なの?」
「え、先生?」
 てっきり知史自身のことを話題にされるかと思っていたのだが、和葉が口にしたのは高歩のことだった。けれどそれは嬉しい質問だった。何より、知史は高歩を尊敬し、慕っているからだ。
「うん。学校でも優しい先生? カッコイイから女の子達には人気ありそうだよね」
 ちょうど高歩のアパートの前に着いた。二人は和葉が呼び出した大典が来るまで、外で待つことにし、並んで立った。
「先生は優しいよ、誰にでも。でも怒ると怖い。本気で怒ってるとこを見たのはあまりないけど……」
 その時のことを思い出して知史は顔を険しくしたが、すぐに和らげた。怒られた辛さより嬉しさの方が、今は思い出せるからだ。
「ああ、そんな感じする。ちゃんと厳しくもできる先生っていいよね」
「うん。女子にも人気あるよ。独身の先生自体あんまり居ないってのもあるけど」
「そっか。うんうん。分かるなぁ」
 知史の言葉から学校での高歩を容易に想像できてしまい、思わずクスリと和葉は笑いを零した。きっと和葉が通っていた高校に高歩のような教師がいれば、絶対に憧れの対象にはなっていただろう。実際はそんな教師との出会いはなかったが、想像が実現していたらという夢は膨らむ。今の、高歩が通う高校生が羨ましくなった。当然そこに知史も含まれている。
「筵井さんは何を教えてるの?」
「え、世界史……だけど――」
 知史は驚いて思わず和葉を見上げた。
「あんた、先生のカノジョなのに知らないの?」
 その返答に和葉が驚いた。ドクドクと鼓動が早くなりつつ、動揺を隠すように早口で否定の言葉を被せた。
「違う違う。まさか、筵井さんとはそんなんじゃないよ」
 そうなれたら嬉しいけれど――という本音は隠し、和葉は首を横に振った。
 しかし知史はキョトンと首をかしげる。確か彼女のストーカーの前で、新しい男、と認めていたような気がしたけれど、あれは便宜上の嘘だったということか。
「筵井さんには助けてもらうばかりで、全然そういう関係とかないの」
 おそらく、これが解決すれば関わることもないだろう。そういうことも考えていないわけではなかった。ただ今は彼の優しさに甘えて、先のことは考えないようにしているだけで……。
「ふうん」
 相槌を打った知史は、けれど「勿体無い」と呟いた。仮に知史が女で彼女の立場だったら、あんなふうに守られて高歩に惚れないわけがないと思う。そう思う反面、和葉と高歩が特別な関係ではなかったと知ってホッとしている自分もいた。この感情は、彼女の存在に気づいてからずっと胸の内で渦巻いている感情そのものだ。この感情が独占欲とい名を持つことは分かっている。
「ホッとした?」
「!?」
 思わぬ言葉に知史は絶句する。
 目を丸くして和葉を見つめる。
「大好きな人を取られる感じ、あたしにも経験あるからよく分かるよ」
 何と返していいか分からずに知史の目がキョロキョロと泳ぐ。その様子がこの上なく可愛らしく、和葉はもう一度クスリと笑った。和葉に兄弟はいないけれど、もし弟が居たらこんな感じだろうか。
「へ、変じゃないか……? 俺も先生も男なのに。取られるの嫌だとか思うの、おかしくない?」
「変じゃないよ。友達でもさ、あの子と仲良くしないで、とか思うこともあるし。そういうのって普通のことだよ」
「俺……友達とかあんまいないし、よく分からない……」
 俯く知史の耳は、寒さのせいかは分からないが、少し赤くなっていることに気づいた。
「あたしの場合はね、父親だったんだ。母親が早くに亡くなって父子家庭だったからかな。呆れるくらいのファザコンだったんだよ」
「そうなんだ――。今は? 違うのか?」
 ファザコンだった、という過去の助詞で言っている和葉に気づいて尋ねてみた。そういうコンプレックスというのは区切りがつくものなのだろうか。
「今はどうかな。父親もあたしが高校を卒業した頃に亡くなったから、あんまり思わなくなったけど。でもまだ生きていたら今もファザコンのままだったかな。うん、たぶんそうだよ。だって一番大切な人の順位って、そうそう変わるものでもないじゃない?」
 知史は、それもそうだ、と思った。高歩が大切な人だという位置付けは、この先当分変わりそうもないし、変わってほしくない。
「あんたスゴイな。マザコン、ファザコンとかいうのは普通隠したがったり、人前で堂々と言えるもんじゃないのに」
「本人が居ないからね、大好きだって叫べるのかもしれない。それこそ中学や高校の時は友達にそんなこと話したこともなかったよ」
 自覚したくなかったっていうのもあったけど、と和葉は付け加えて、笑った。
 暗い中でだったけれど、その笑顔を知史は純粋に綺麗だと思った。自分の中には無い笑顔だ。そういうふうに好きだと素直に言えたら、自分も少しは変われるだろうか。そもそも家族をそんなふうに感じたり思ったことは一度もなかったけれど。せめて高歩には知っていてほしいと思った。
「いいな、そういうの」
「そうだね」
 どこか客観的に呟く和葉に、知史は羨ましくもあった。いったいどれだけの時間があれば、俺もこの人のように自分のことを言えるようになれるのだろうか。知史には許せないものがありすぎて、和葉のように「大好き」と言えるものが、いったいどれだけあるのか。
 それからは知史から尋ねることが多くなった。好きな食べ物、愛読書、歌、テレビ番組、芸能人。
 和葉は次々と答えてくれたが、知史は答えられなかった。食べることにも娯楽にもそれほど関心がなく、ゲームセンターやカラオケには行くものの、それは一人になりたくないときの手段でしかなかった。絞れと言われ、数ある中から選べるものは何一つなかった。

♪〜

 携帯電話の着信音が響く。和葉のものだった。大典から駅に着いたとの連絡だった。
 和葉と知史は大典を迎えに行くため、再び歩き出す。その間も会話は続いた。知史は自分のテンションが上がっていることに気づいていた。彼女と話していると、高歩のそばにいる時とは違う安心感が得られた。それが嬉しかった。彼女も優しいのだ。自分の言葉に真剣に、正直に答えてくれるのだ。
「乙瀬!」
 改札の前に姿を見せた和葉を見つけた大典は、右手を大きく上げた。
「シギ」
 自然と和葉の表情が和らぐ。
 しかしその隣に見知った姿を見つけ、その目は大きく開かれた。
「か、各務さん?」
 意外すぎる倫子の登場に、和葉はあからさまに驚きを見せた。それは倫子と大典にとっては予想済みの反応だったので、特に構うこともなく、倫子は走りよって和葉を抱きしめた。
「え? え? あの……」
「鴫野くんから聞いたわ。今晩は私のところに泊まりなさい」
「え、でも……」
 訳がわからず困惑する和葉に、倫子の後ろから大典も真面目な顔をして頷いて見せた。
「疑ってるわけじゃないけど、男の部屋に泊まるよりは女同士の方がずっと良いだろ」
 それはそうだけれど。
 和葉はどこから問えばいいのか分からず、されるがままに倫子の抱擁を受けていた。彼女の温もりを拒むのも躊躇われて、本気でどうすればいいのか分からなかった。
 とりあえず――どうして鴫野が呼んだ女性が倫子だったのか、尋ねてもいいものなのだろうか?