月影

chapter 15


 大典を呼んで、倫子と共に現れたことに驚きを見せる和葉に、大典は悪戯がばれた子どものように肩を竦めて見せた。
「偶々一緒に居たんだ、乙瀬が電話くれた時。でも乙瀬も俺と過ごすよりは良いだろう?」
「まあそうなんだけど……」
 和葉は改めて大典と倫子を見比べる。自分が大典に電話をした時間を考えれば、仕事がらみで偶々一緒に居た、というのは不自然だった。営業部と企画部は近い関係ではあるけれど、基本的に和葉の勤める会社は定時厳守の風があるため、遅くまで残っているのは会議のある時か、幹部クラスぐらいなものなのだ。
「あの、それじゃ俺はこれで」
 そっと遠慮がちに知史が声を上げる。ふっと視線が和葉から知史へと注がれる。そこで初めて大典と倫子は知史の存在に気がついた。
「あ、うん。ありがとう」
 和葉がお礼を述べる。ペコリと頭を下げて、知史は返事の変わりに会釈をした。じ、と見つめる倫子の視線から逃げるように、それでも最低限の礼儀として大典や倫子にも頭を下げてその場を通り過ぎようとした。
「あっ、待って!」
 咄嗟に知史を呼び止めたのは倫子の、仕事人としての反射的な行動だったのかもしれない。倫子自身、自分が呼び止めてからその意味を理解した。
 突然上げられた声に驚き立ち止まる知史の全身を、倫子は品定めするように鋭い視線で眺めた。
 改めてみた彼は整った顔立ちをしている。今時の若者らしく髪を明るく染め、耳にはいくつかのピアスを嵌めている。服装は特に格好をつけているようなものではなかったが、パーカーにジーンズといったラフなもので体のラインが分かりやすいのは良かった。背は高い方ではないが、すらりとして無駄な肉が無いのは好感が持てた。
「り、倫子さん……?」
「しっ、黙って!」
 思わず倫子の名前を呼ぶ大典に、振り向きもせずキレのある動作で大典の口を噤み、再び固まる知史の方へ視線を戻した。
 大典が彼女を下の名で呼んだことに和葉はわけも分からず動揺した。
「何なんすか……?」
 不躾に全身を眺める倫子に知史は困惑の表情を浮かべる。美形というのはどういう表情でも絵になるものなのだな、と倫子は感心する。
「君、名前は?」
 黙ってじっと知史を見ていた倫子が、唐突に尋ねる。
 淡々とした彼女の口調が高圧的に聞こえ、知史はムッと目を細めるが、逆らえない雰囲気に小さく答えた。
「新居知史」
「ニイくんね。年は?」
「16。……高2」
「バイトはしてる?」
「してないっすけど……。何なんですか、ほんとにアンタ」
 不審がる様子を隠さない知史に、倫子はにっこりと微笑みかける。
「ねっ、新居君」
 無表情で見つめられるよりは幾分か肩の力が抜けた知史だったが、瞬間、がっしりと強い力で両肩を掴まれた。顔がいきなり近づいて、怖くて呼吸が止まる。
「!」
「モデルって興味ない?」
 至極真面目に尋ねられた。知史には意味が分からなかった。
「はぁ……? 俺、そういうのはいいんで。離してもらっていいっすか」
 倫子の言葉に驚いたのは知史だけではなかった。明らかに倫子を不審者の目で見る知史に同情した大典が、後ろから倫子を引き離し、気づかれないようそっと溜め息をついた。
「落ち着きましょう、倫子さん。怖がってますよ」
 そこでようやく倫子は、自分の鼻息の荒さに気づいた。「ああ、ごめんね」と力を込めていた手を知史の肩から離した。
 しかしこのまま帰すわけにもいかず、バッグから携帯していたメモ用紙とペンを取り出した。さらさらと自分のメールアドレスと電話番号を書き、それを知史の手に握らせる。拒もうとする彼の動作を力任せに押さえ込み、得意の有無を言わせない笑みを浮かべた。
 参ったように知史は受け取った。女の人は好きだけれど、倫子にはどうも苦手意識が生まれたらしい。美人ではあるけれど、倫子の笑みはただ怖いだけにしか思えなかった。
「今日は乙瀬さんのことが第一だから、とりあえずね。もし興味があったらココに連絡してほしいの。できれば来週の月曜までにお願い。待ってるから」
「いや、興味ないんですけど」
 即座に知史が答えるものの、倫子は聞く耳を持っていないようで、にっこりと微笑むだけで知史から和葉へ視線を移した。
「さ、今日は私の部屋に泊まってね」

 倫子の住むアパートは会社から徒歩20分ほどの所にあった。レンガ調造りの外観をした5階建ての小さなアパートだ。倫子の部屋はその2階である。彼女は入社当時、会社の女子寮に入っていたが、今年の春からこのアパートに移ってきたのだという。寮と言っても会社の目の前にある男子寮とは違い、女子寮はここから電車で30分かかるため、利便さで言えば今の方が良い。
 中は1LDKだった。木目調のインテリアで揃えられたその空間は、彼女らしいさっぱりとした印象を持った。派手に飾り付けない部屋は心地良く感じる。
「あの、各務さんとシギ――鴫野くんは、その、付き合ってるんですか?」
 客用の布団がないけど、と倫子が予備の掛け布団を出し終えたあと、和葉は思い切って尋ねてみた。うん? と倫子は振り返った。
「付き合ってるよ。まだ誰にも言ってないんだけど、さすがに今日のはバレちゃうよねぇ」
 あっさりと倫子が認めたので、和葉はすっきりとした。と同時に思っていたとおりだったのでほっとした。ここに来るまでずっと気になっていたことだった。
「もしかして、ライバルだったりする、私達?」
「いえ! まさか! そんな!」
 思いの外和葉が力強く否定し、倫子はかえって可笑しくなってしまった。
「そんなに力いっぱい言われるとは思ってなかったわ」
 声を出して笑う彼女に、和葉は「すみません」と小さく謝る。考えてみれば咄嗟のこととは言え、力いっぱい叫ぶことはなかったのだ。むしろそうすることは大典にも、大典の恋人である倫子にも失礼に当たることではないだろうか。
 そしてもう一つ、和葉には気になることがあった。
「新居くんのことも……本気なんですか?」
 突然モデルに誘った数十分前の光景を思い出しながら尋ねてみる。あれには驚いた。確かに彼は美少年ではあったけれど――。
 すると倫子の表情が笑みから真剣なものへ変化する。仕事の時と同じ雰囲気だ。
「もちろん本気よ。あんなに良い素材、そうそう見られるものじゃないわ」
「でもモデルって一体何の……」
 小首を傾げた和葉は、しかしすぐに答えを見つけた。今倫子が携わっている仕事の中で当てはまりそうなものは一つしか思い浮かばなかった。
「決まってるでしょ、エキュリアの広告モデルよ」
 ビシ、と人差し指を天井へ突き立てて、呆れたように倫子は言った。
「でもエキュリアって化粧水ですよね。新居くんは男の子だし」
「だから?」
「えっ?」
 だから何か問題でもあるの、と鋭い口調で問われ、和葉は言葉に詰まった。そんなふうに聞き返されるとは思っていなかった。
「問題ないでしょ、化粧水の広告に男の子を使っても。むしろ女性をターゲットにしてるんだから、若くてキレイな子を使った方が良いし、それが男の子ならインパクトだって話題性も出る。コンセプトから外れてるわけじゃないわよ」
 それから倫子はニッコリ笑った。
「それにまだカンプの段階だから。本格的に売るとかじゃないもの、心配することなんてないわ。もし新居くんが連絡をくれて、クライアントが私のデザインでOKを出しても、撮影に入るのはプロのモデルだろうしね」
「あ、そ、そうなんですか……」
 倫子の説明を聞いて和葉は恥ずかしくなった。まだ社会人になって数ヶ月の自分が心配するようなことは何もないのだ。一人前に倫子の仕事に口を挟むことは、己の無知さを晒すだけだった。
 ちなみにカンプとはカンプ制作のことだ。クライアントから制作オファーが来た後、プレゼンで完成作品のイメージを伝えるために作る、完成予想作品の制作である。そこでクライアントが頷けば、本格的な制作へと入る。モデルやコピーライターを付けて撮影に入るのは、チラシでもCMでも全てプレゼンの時クライアントの承諾を得てからなのだ。
「その前に主任に納得してもらわないと意味ないけど」
「それは大丈夫ですよ、たぶん。主任、各務さんのこと買ってますし」
 励ますように和葉が拳を作って言えば、倫子は「ありがとう」と笑顔を向ける。その言葉の意味を知るのは、和葉も制作に携わるようになる、まだ先のことである。
「そんなことより早く寝ましょう。今日は疲れたでしょう? 明日も早いんだし」
 パジャマに着替えた倫子はそう言って、さっさとベッドへ入り込む。和葉も慌てて服を脱ぎ、持って来たトレーナーとジャージに着替えた。
 いつもの癖で携帯電話のアラームを設定し、を頭の元に置いた。時間は会社から近いこともあって30分遅くする。
 倫子が部屋の電気を消す。明りがなくなって、目を閉じれば、今日の出来事がありありと蘇ってきた。
 高歩に送ってもらうよう誘い、狙い通り也人が現れた。そして襲われ、抵抗しなかったところに、知史が助けてくれた。知史の登場は予想外だったが、ある意味良かったのかもしれない。あの状況ではどうやっても高歩は現れなかったし、自分でどうすることもできなかった。自分の愚かさにも気づき――何より高歩の優しさを痛感した。嬉しかった。也人のことは、今思い出しても寒気はするが、怖くはなかった。忘れたわけではない。きっとまだ感情が麻痺しているのだ。
 倫子と大典が付き合っていた、という衝撃的事実を知っても、驚きとは別に納得する部分もあった。今になってみれば、和葉の様子が可笑しい、と大典が倫子に相談していたのも、彼女が和葉の先輩であることのほかに、気を遣わない恋人であって相談しやすいというのもあった気がする。
 静かな部屋で今日の出来事を反芻しているとなかなか眠れなかった。横では倫子の寝息が心地良く聞こえる。
 和葉はそっと目を開け、頭の上の携帯電話を手探りで掴みとり、画面を開く。
 宛先は高歩だ。今日のお礼をメールで送る。そういえばちゃんと言えてたか覚えていない。あの時はまだ動転していたのだ、おそらくは。
「おっ、わっ」
 すぐに返事が来た。驚いて、思わず声が出た。起き上がって倫子の様子を窺うが、起きた様子はない。
 安堵して再び横になり、受信メールを開く。
『明日もまた送りに行きます。無理しないでくださいね。お休みなさい』
――たった、それだけのことなのに。
 和葉は嬉しくて、泣きそうになった。
 也人に襲われたときも出なかった涙が、高歩の言葉で溢れそうになり、和葉は目を閉じる。
「お休みなさい」
 小さく呟いて、高歩の顔を思い浮かべた。
 なんだか眠れそうな気がした。