月影

chapter 16


 知史は机の上に倫子から握らされたメモ用紙を広げ、一人唸った。そこには倫子の携帯電話番号と、メールアドレスが書かれている。奇しくも知史の持っている携帯電話と同じ機種のものだった。
 はあ、と溜め息を一つ洩らす。倫子にはモデルをしてみないかと誘われた。興味がないとすぐさま断ったはずなのに、どうしてこの紙切れはなかなか捨てられないのだろう。駅のゴミ箱に破り捨てることだってできたはずなのに、わざわざポケットにしまって持って帰ってしまった。そして今は、それを手に溜め息を吐いている。迷っているのだろうか、俺?
「どうしたんだよ、新居。元気ねーなー」
 朝から机に伏している知史に、上から声が降ってきた。面倒臭そうに顔を上げれば水藤(すいとう)だった。クラスメイトでもある彼は、よくつるむ連中の内の一人だ。基本的にテンションが高い奴なので、朝からこいつはキツイな、と失礼すぎることを思う。
「んな鬱そうなカオしてたら、せっかくのキレイな顔が台無しだぜ」
 へらへら、と笑って水藤が言った。軽く知史の肩を叩く。瞬間、すっと知史の目が細くなる。
 あ、と水藤は焦る。ついこの間も同じ事で知史の機嫌を悪くさせたのだ。
 どういうわけか知史は己の容姿について言われることを極端に嫌う。小さく端整な顔立ちにすらりと長い手足、背は決して高い方ではないが、スタイルのバランスが良く、彼に憧れる女性は数多い。だから容姿のことと言ってもだいたいは通常なら褒め言葉にあたるものばかりだ。キレイ、カッコイイ、ビジン。しかしどれも知史には不快を与える言葉でしかないようだ。
「もう一回言ってみろ」
 低く地べたを這うような声で知史が立ち上がった。これはまずい、と水藤の背筋が凍った。今日はいつもにも増して機嫌が悪いようだ。
「わっ、悪かったよ! うっかりだった!」
 慌てて頭の上で両手を合わせて謝るポーズを作った。
 そこでふと、知史は胸倉を掴みそうになった手を下ろす。そういえば水藤は凝りもせず、何かといえば知史の容姿をからかってきていた。馬鹿にするような、そんな揶揄ではなかったけれど、と思い出した。
「……俺の顔ってそんなに言うほどなのか?」
「はへ?」
 思いがけない言葉に水藤は間抜けな顔で知史を見上げた。知史の表情はいたって真剣だった。
 どうやら真面目な質問だったらしい、と気づいた水藤は、これでもかというほどに首を縦に振った。知史が自分の顔について口にすることも珍しかったが、何より驚いたのはその自覚がなかったらしいということだ。あれほど周りから言われているにもかかわらず、それを指摘されることを嫌っていた知史には何の意味もなかったということだろう。
「俺の顔は売り物になると思う?」
 知史の真剣な表情に水藤は答えるでもなく戸惑いを見せた。
「なに、金が欲しいの? そりゃ新居くらいだったらカオを利用しない手はないと思うけどさ」
 言ってから、水藤は腑に落ちた表情を浮かべた。そういえば知史は自分の家を嫌っているようだった。というのにアルバイトもろくにせず、街をぶらついているだけだったけれど、ようやく重い腰を上げたのかと思えば納得できるような気もした。
「そうじゃねぇよ。そうじゃないけど……」
 都合が悪くなった時に見せる、困ったような表情を浮かべ、知史はふと水藤から視線を逸らして腰を下ろした。頬杖をついて眉根を寄せる。
 どうしたことかと水藤は驚いた。
「やっぱいいや。俺には無理だ」
 投げやりな態度で呟く知史は、しかしこれで良いような気もしてきた。よくよく考えなくても、元々は断るつもりだったのだ。先ほどの自分は何を血迷っていたんだろう。持っていた紙切れをくしゃりと丸めると、呆然と立ったままの水藤に「あげる。ゴミ」と手渡す。
「え? 諦めるのか?」
 未だよく状況を飲み込めていない水藤は、渡されたゴミをどうすることもできず受け取ったまま、しばらく知史を見つめた。このやり取りで状況を理解できる者も存在するとは思わないけれど、と水藤は自分自身に言い訳をし、それでも知史はすっかり口を開くのをやめてしまったようだ。
「何だよ、これ」
 答える様子を見せない知史に、水藤は勝手に「ゴミ」と言って渡されたそれを開いてみる。
「ケー番? と、メルアドじゃん。え、なに、女?」
 知史と女性、というのはなかなかに結びつかなかったが、好奇心で水藤は口にしていた。自分達がカノジョの話をしても、一番モテてヤることはそれなりにしているくせに乗り気な態度を見せない知史だったから、女か、と尋ねて頷いた知史を見たときは心底驚いた。今日の彼は、やはり、どこか変だ。
「女! まじで? どこの学校の子?」
「社会人」
「うへ! OLかよ! 美人?」
「そうなんじゃねーの」
「まじかよー。つかどこで知り合うだよ?」
 チラと知史は水藤へ視線だけを向けた。
 そこでチャイムと共に担任が教室へ入ってきた。水藤は慌てて席へ戻り、結局最後の質問の答えは聞けずじまいになった。
 それでもまぁいいか、と水藤はくしゃくしゃになった紙の切れ端を見てにやける。知史が認めるくらいなのだからさぞや美人のOLなのだろうと妄想は膨らむばかりだ。そして知史が珍しく己から容姿について口に出したのは、そういえば今回が初めてだった、と気づいたのは半日も過ぎた後、4時限目の終わりの頃になってからだった。教卓では古典の教師が源氏物語の冒頭部分を復唱していた。

                □ □ □ □

 改めて待ち合わせをする、というのはなんだか気恥ずかしい思いがした。
 和葉は朝からそわそわと落ち着きなかったが、実際に高歩が目の前に現れるとそれはストンと落ちた。何事もなかったかのようにトクトクと心臓は通常の動作を続けている。
「すみません、遅くなって。思ったより会議が長引いてしまって」
 珍しく和葉より遅れて現れた高歩は後頭部に手を回して小さく頭を下げた。開口一番に謝ってきた高歩に、和葉はいつもそれが自分のしていることだから困ってしまう。自分ももっと申し訳なく思うべきなのだろうか。そう言うと高歩は可笑しそうに乾いた声を出した。
「そんなことないですよ。ただやっぱり、女性を待たすのは気が引けます」
 それから少し真面目な目つきをしてそっと和葉の顔を覗き込んだ。
「昨日はよく眠れましたか?」
 近づいた高歩の顔に和葉は思わず後退る。目の下の隈に気づかれたかもしれない。視線を逸らした和葉を見て、高歩は苦笑を浮かべた。なんて正直なんだろう、と学校の生徒と重なった。
「まあ、あんな事があって、眠れるわけないですよね」
 知らず、高歩は生徒にするように和葉の頭を撫でた。驚いた和葉が肩を揺らし、慌てて手を離す。
「あ、すみません」
「いえ……ちょっとびっくりしただけです」
 そう言って和葉は高歩が触れたところに手を当て、少し微笑む。高歩はほっとして、同じように笑みを浮かべた。
 どうも彼女といると対応が生徒とのそれと同じようになってしまう。それに元は恋人といっても大の男に襲われたばかりの彼女に、安易に触れてしまって焦った。もっと盛大な拒絶を示されても可笑しくはないのだ。
「あの、そういえば、新居くん」
 和葉はふと思い立ってそう口を開いた。
「新居?」
 思いがけない名前を聞いて高歩は聞き返した。そういえば彼女を先に助けたのは彼だった、と思い出す。
「そういや今日は来なかったな」
 高歩がそう呟けば和葉は「えっ」と驚いた声を上げる。
「え?」
「新居くん、学校へ来なかったんですか?」
 和葉の見せた表情は驚き、というよりは動揺に近く、不思議に思いながらも高歩は「いや」と首を横に振った。
「いや、学校は来てたみたいですよ。ただいつもは僕のいる準備室へ顔を見せに来るんですけど、今日はそれがなかったなと思っただけで」
 和葉は知史が“いつもと違うこと”をした、という点で表情を曇らせた。
 本当は学校へ来ることも“いつものこと”ではないのだが、あえて言う必要はないだろう。
「新居がどうしかしたんですか?」
 そこまで彼女が知史を気にかける必要性も感じなくて、高歩は尋ねた。
「あ、いえ」
 和葉は何かにハッとし、我に返ったように頭を振る。
「新居君にもお礼、言ってなかったなと思って……その」
 昨日の――。そう言おうとして言葉が喉の奥に詰まった。意識しているつもりはなかったが、思った以上に自分は也人に恐怖していたらしい。頭が重くなり、立ち眩みしそうになった。
 先ほど咄嗟に倫子が知史にスカウトしたことを話しそうになったことも、まだ思考回路が正常に起動されていない証なのかもしれない。お礼の話へ切り返せたのは偶然だった。まだ知史からの返事も貰っていないのに、これ以上高歩の気を煩わせることもない。今時高校生のアルバイトなんて珍しくも何もないのだけれど、何だか知史の背景は複雑そうだったから、今はまだ言わない方が良い。
 しかし、もし知史が倫子の誘いに乗ってくれて、ミーティングで知史がモデルに採用されたら、その時高歩に伝える役目は自分がしたい、と思った。
 どうしてだろう。それはきっと知史自身がするべき事なのに。
「そうですね。昨日のはあいつが居てくれたから、未遂で済んだんですよね。ちゃんと伝えておきます」
 優しく高歩が微笑む。和葉も思わずそれにつられた。
 会話が途切れてようやく二人は帰路へと足を動かした。何だか話し込んじゃいましたね、と高歩が笑って言ったから、和葉も笑う。
 不思議だった。彼が笑ってくれるだけで自然と笑みが作れる。昨夜のことがあってから今日は、上手く顔の筋肉が動かせなかったのに、それこそ大典にしきりに心配されるくらいには表情が硬いと言われた。でも、心地良い。そして昨日の知史を思い出し、彼が高歩を慕っている理由も分かる気がする。
 空を見上げると美しく月が輝いている。高歩と出会う前は追ってくる月の光は不気味なだけだったのに、今はこんなにも明るく感じて、和葉は嬉しくなった。昔父によくせがんだ『かぐや姫』を思い出した。