月影

chapter 17


 早速家に帰って『かぐや姫』の絵本を引っ張り出してきた和葉は、同時に中学の古典の授業で最初に読んだ『竹取物語』を脳裏に過ぎらせた。ほぼ初めて見る歴史的仮名遣いを覚えながら読んだ冒頭文は『枕草子』や『徒然草』『源氏物語』と同様に今でもしっかりと記憶に刻まれている。
“今は昔竹取の翁といふ者ありけり野山にまじりて竹を取りつつよろづのことに使ひけり名をばさぬきの造となむいいける”
 思いのほかすらすらと出てきた言葉に嬉しくなって、翌日の昼休みには、しっかりと大典に聞かせていた。
「あの時は必死だったなぁ。結構忘れないものだね。ちょっと自分に感動しちゃった」
「脳は記憶を消したりしないんだ、知ってたか? 忘れてるってのは、片付けた記憶が探せだせなかっただけで、しっかり脳の皺には埋め込まれてる。だから嫌な、思い出したくない記憶は、簡単に見つけられないように意識して奥の方へしまうに限るんだ」
 竹取物語の冒頭など退屈なだけだ、と言わんばかりにメニューを広げながら大典は言った。和葉は不満そうに眉根を寄せ、しかしすぐに気を取り直した。大典のこういった薀蓄はよくあることだ。どうでもいい事をどうでもいい程に真面目に返してくる彼は、彼なりに和葉を気遣ってくれているのだとも思えた。
「じゃあシギは徒然草の冒頭、覚えてる?」
「つれづれなるままに、日暮らし硯に向かいて心移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、怪しゅうこそ物狂ほしけれ」
「源氏物語は?」
「いづれの御時にか、女御、更衣、あまたさぶらい給いける中に、いとやんごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめき給うありけり」
 よどみなく、噛みもせずに言い終える大典に、和葉は面白くなって思いつく限りの古典作品を上げた。
「枕草子は」
「春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山際。少し明りて紫たなびきたる。雲の細くたなびきたる」
「奥の細道」
「月日は百代の過客にして行きかう人もまた旅人なり」
「方丈記」
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。――って、鴨長明、二回目。つか、俺で遊んでるだろ」
 和葉は声に出して笑い、悪戯が見つかった子どものように小さく舌を出した。
 呆れつつ、しかし大典は安堵し、苦笑にも似た優しい表情を浮かべた。和葉から突然、夜に連絡が来てからまだ今日で幾日も経っていない。しかし朝の内は声を掛けるのも躊躇いがちだったが、今はもうそんなことはなかったかのように以前と同じ振る舞いを見せている。少しずつではあるが、彼女の中で消化されていっているのかもしれない。
 大典はあの夜、和葉の身に何があったのかを、知らない。倫子にも聞くことをしなかったし、倫子も話さなかった。もしかしたら倫子も知らないのかもしれない。和葉が何も言ってこないので、今はまだ知らないままで良いということなのだろう。大典としてはあの日、連絡をくれた時点で話して欲しかったけれど。
「凄いね、シギ。あたしでも方丈記まではさすがに怪しかったよ」
 感嘆の声を上げる和葉を見て、大典はニヤリと意地悪く笑って見せた。人差し指で自分の頭を指した。
「乙瀬よりは整理整頓が出来てるってわけだな。脳の皺が違うのだよ、君」
 大典の無駄に芝居がかった言い回しに、和葉は笑って、口だけは「どういう意味よ」と反抗した。
「けど俺は古典より現代の方が好きだな。太宰治、夏目漱石、宮沢賢治、中島敦」
 彼が上げていった文学者の並びを聞いて、和葉は思わず噴出しそうになった。あまりにも大典らしかったからだ。
「これは有名な話だけど、夏目漱石は英語教師をしていた頃、『I love you』を生徒にどう訳せと言ったか知ってる?」
 突然、脈絡もなく大典は言った。どこかで聞いたことのある話だ、と思いつつも話の展開が読めず、和葉はキョトンと瞬きをして大典を見た。
「生徒は『我君を愛す』と訳したんだけど、漱石は『月がきれいですね』と言えばいい、と言ったんだ。それだけで伝わるから、ってさ。当時の日本人は愛してる、なんて直接的な言葉は使わなかったんだろうな。だいたい、もともと『愛してる』なんて言葉自体なかったんだし」
 和葉は驚いた。そして感心し、納得した。確かに古典で『愛してる』と訳された書物を見たことがなかった。壮大な恋愛を描いた源氏物語でさえ、言葉での愛の告白はあまり記憶にない。漱石の言うとおり、かつては相手を想うのに言葉など必要なかったのかもしれない。
 それにしても、と和葉は改めて大典を正面からまじまじと見つめた。
「その話を持ち出した、その心は?」
 和葉が尋ねるなり大典は小さく笑みを浮かべ、手にしていたメニュー表を閉じた。
「まぁ、黙ってカツ丼でも食え」
 その一言で和葉は大典の言いたいことを理解した。だとすれば自分も立派な日本人だということだ。
 大典は店員を呼び、自分が食べる蕎麦定食と和葉のカツ丼を注文した。
「そういえば各務さんと付き合ってるんだってね?」
 店員が下がると、和葉がそう切り出す。倫子から彼女に自分たちのことを話した、という報告は聞いていなかったので、僅かながらに驚いた。
「各務さんから聞いたんだ?」
「うん。前に言ってた年上の彼女って各務さんのことだったんだね。いつからなの?」
 大典は、そういえばそんな話もしたか、と思い出す。基本的に社内恋愛を禁止しているような殺伐とした社風ではないけれど、なんとなくそういったことは大っぴらにしない方がいい、と思っていた。
「新人研修の時、各務さんが指導チーフとして来てただろ。そこで俺の一目惚れ。研修終わってすぐに口説いて、見事ハッピーエンド」
 照れた様子も見せなず淡々と話す大典に、和葉は「それだけ?」と思わず言った。
「ライバルの登場とか、紆余曲折はなかったの?」
「ないよ。何回か勤務終わりに食事に誘って、休日も外に連れ出して、何となく、もう俺達付き合ってるよね、っていう感じだったかな。だいたいそんなもんじゃないか?」
「なぁんだ、つまんない」
「お前ドラマの見すぎ。そう都合よくライバルばっか現れて堪るかよ」
 大典は笑って、水を口に含む。態度にこそ出さないが、やはり面と向かって自分の恋愛話をするのは、照れる。男同士ではもっと具体的な話もするし、相談に乗ることもあるが、それは同性だからという面が大きい。気恥ずかしく、居た堪れなくなった大典は気を紛らわすようにもう一度コップに口を付け、和葉に視線を向けた。
「そういう乙瀬はどうなんだよ?」
 大典に尋ねられ、不意に也人の顔が頭を過ぎり、焦り、ゆっくりと瞬きをした。
「前言ってた年上の人。映画観に行ったんだろ?」
 まさに……だった。
 一気に鼓動が早くなる。
「あ、うん。でも恋愛とは違う……かな」
「脈なしってこと?」
 そこでちょうど蕎麦定食とカツ丼が運ばれてきた。タイミング良いな、と大典が笑う。
 和葉は小首を傾げて考えるが、難しい顔をして、すぐに頭を振った。
「脈がないというか、そもそもそういうじゃないんだよ」
 カツを避けてご飯を箸で挟みながら和葉は言ったが、大典には彼女の言葉の意味が理解できなかった。
「同情してくれてるんだと思うよ、たぶん。色々あったから」
 和葉は、それに、と幾らか明るく声の調子を変えて顔を上げる。
「あたしも当分は彼氏よりも仕事かな! 覚えることばかりで他のこと考える余裕ないんだよね」
 元気よく、目標を掲げるように溌剌とした顔で笑った。どこか自分に言い聞かせているように見えなくもなかったが、大典はそれを指摘することはしなかった。それを言ってしまえばせっかくの彼女の決心を折り曲げてしまう気がしたからだ。和葉はきっと、大典が今までに出会ったどの女性よりも強いのだ、と思う。倫子を含めてもきっと、和葉の奥は誰よりも深い。

 結果から言えば、和葉はカツ丼をご飯粒一つも残さず綺麗に平らげた。けれどあの日のことを打ち明けることはなかった。さすがに賑わう食堂の一角では無理だったか、と冗談半分で大典は肩を落として見せるが、簡単に話せることでもないのだと分かったことは、ある意味一つの収穫であったのかもしれない。前向きにそう思うことにした。
 食堂から出ると眩暈を誘うほどの熱気に包まれた。涼しかった店内が急に恋しくなるが、仕方がない。すっかり梅雨は明け、季節は夏の真っ盛りなのだ。
「そういや盆休み、乙瀬はどうするんだ?」
 気づけば八月まではもう何日もない。大典はふと思いついて尋ねてみた。
「まだ特に予定は決めてないよ。お墓参りくらいかな」
 和葉は至って平然と答える。一人暮らしの彼女は、しかし帰省する実家もない。両家の祖父母とも疎遠なため、毎年両親の墓参りくらいしか、この時期の予定は決まっていなかった。今年も例年とそう変わらない過ごし方だろう。
 そういえば、と和葉はあの日の夜の知史を思い出した。彼もまた家庭に何らかのわけがあるようだった。少しだけ覚えた親近感は勝手なものかもしれないが、何となく気になった。それに彼から返事が来た、という話を倫子からまだ聞いていない。知史はモデルの話を引き受けてくれるのだろうか。今のところ直接メディアに出るわけでもないから、それを伝えれば少しは協力してくれるかもしれないな、などと最近は考える。
「シギは実家に帰省するの?」
 和葉が聞き返すと、考える間もなく大典は「いや」と首を横へ振る。
「学生の時は帰ってたけど、今年は彼女居るし残るかも」
「ああ、各務さん、今それどころじゃないもんね」
 ゴールデンウィークはさすがに会社も休みだが、日付としては平日に当たるその辺りは、特に大きい仕事を持つ社員以外でしか休みを取らない。基本的に休日などないとされる広告業界で、和葉の会社はそれでも休みのある方だ。そして倫子はまさに今大口の担当をしている。榎並のエキュリアがそれだ。上手くいけば盆の頃は本格的な撮影が始まっているだろうから、休めるはずがない。
「新居君、連絡くれるといいけど」
 和葉が願うように呟く。大典はあの夜、和葉の横にいた少年を思い出した。どうにか記憶を手繰り寄せ、確かに彼は綺麗な少年だったと改めて感心した。まだ幼さが全体的に残る彼は、けれど不安定な雰囲気が見て取れ、大人になりきれない少年特有の魅力があった。もう少し中性的で、女性っぽい顔立ちであったならば、男といえども充分にそそられた。
「俺としてはあの子が承諾してくれない方がいいな」
 大典がそう言えば、和葉は信じられないとでも言うように振り返る。
 だってそうだろ、と肩を竦めて大典は苦笑した。
「今俺の恋人はあの子に夢中だからな。撮影だ何だって、これ以上気を引いて欲しくない」
「広告マンとしてそれはどうなの?」
「広告会社の人間の前に、一人の男としての意見だよ、さっきのは」
「各務さんはそんなふうに自分を切り離して見ないと思うよ」
「……確かに」
 溜め息と共に呟いた大典は、だから厄介なのだ、とは言わなかった。
「まっ、元気出して!」
 独占欲に駆られる不安げな大典の背中を叩き、和葉は努めて明るく言った。少し力が強すぎたのか、痛っ、と小さく大典の声が漏れる。
「ほら、方丈記の冒頭文!」
 突然言われ、食堂での会話を思い浮かべる。
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し……。何だよ、急に」
 大典は訳が分からず、とりあえず言われたとおり冒頭文を口にしてみる。和葉はにっこりと満足そうに微笑んだ。
「特に意味はないけど」
「ないのかよ」
「ないよ、全く。全然。一欠けらも」
 行く川の流れは絶えずして、と自分でも歌うように口ずさみながら、和葉は言った。あまりに軽々しく言うので馬鹿馬鹿しくなった。大典は何だそれ、ともう一度言って、苦笑した。確かに仕事相手に対して抱く感情としては、これは全く、全然、一欠けらも、意味のないものである。
 大典の横で和葉の暗唱は続いていた。
「――淀みに浮かぶ泡沫は……あれ、何だっけ」
「かつ消えかつ結びて久しく留まることなし、だろ」