月影

chapter 18


 ホームへ降りると、急ぎ足で改札を目指す。高歩が待っているのは改札の正面にある薬局の前だから、混雑が激しい今の時間帯でもすぐに見つけられる。定期を通し、素早くそれを引き抜いた。キョロキョロと視線を移してみれば、軽く手を振る高歩が見えた。和葉は何度目か知れない安堵の息を吐く。
「すみません。今日はちょっと片付かなくて」
 無論、和葉の言い訳は仕事のことであり、高歩は何も問題はないと小さく相槌を打っただけだった。
 時間を確認するといつもより50分も彼を待たせていたことに気づく。ほぼ一時間だ。
「気にしてませんよ。特に時間を決めていたわけでもないですし」
 眉根を下げる和葉を見ては、逆に可哀想になる。けれどそんな慰めの言葉を言ったところで彼女の気落ちした表情が上向くわけでもない。それは高歩も何とはなしに知っていた。
「それよりもお腹空いてませんか? 良ければ今日は食べてから帰りません?」
 思ってもみなかった高歩の誘いに、和葉が断るはずもなかった。
 高歩は駅より僅かに離れた商店街へ進み、角に位置する鍋料理の店を選んだ。中は木造建築をそのまま生かしたようにシンプルなデザインで統一され、木目がそのまま浮き上がっている黒い壁と、それを当てる間接照明がなかなかに雰囲気を出している。学生達がワイワイとやってくるような手軽な値段ではあるが、仕事帰りのサラリーマンやOLの姿も少なくはない。
「チゲ鍋とかもあるけど、どうしますか?」
 メニューを開いて和葉に見せる。
「よく来るんですか?」
 思いのほか種類が豊富で迷った挙句、和葉は参考にならないかと高歩に尋ねてみた。
「いえ、一人で来たことないし、ここはほぼ初めてです」
 和葉は、高歩がこの店を迷いなく選んだのでかなり通っているのではないかと考えたのだが、実際はそうでもないようだ。ということで和葉は、最初に目に付いたチゲ鍋の辛口を頼むことにした。
「じゃあ僕はモツ鍋を一人前」
 店員を呼んで注文を済ますと、そういえばこういうことは初めてですね、と今更ながらに高歩が言った。
「前に映画に行った時とは、やっぱり違うものですね。二人とも仕事着だからかな」
 彼の言葉に、それは確かにそうかもしれない、と和葉も頷く。高歩との繋がりは夜の帰り道くらいしかなかった。それは也人の件があった今でも大きく変わらないことの一つだ。
 それから、仕事、という言葉を聴いて和葉はふと昼間の倫子を思い出した。
 倫子が知史に連絡をして欲しいと言ってからほぼ一週間が経過していた。その間、知史から倫子へ連絡が来たことは、まだ一度もない。つまり返事を貰いあぐねている状態が続いており、しかし企画を提出する期限は確実に迫っている。知史の返事がなければ撮影を始めることはできないから、絵コンテなどの手書きでイメージを伝えるしかない。それだとやはりどうしても、インパクトに欠けててしまう、と倫子は思っているのだ。今回の彼女企画は、知史の整った容姿が何よりもカギであった。彼を実際に見てみなければ、なぜそこまで“少年”に拘るのか、おそらくは完全に伝わることはないだろう。
 そうして切羽詰った倫子はとうとう、休憩室で和葉に小言を洩らしたのである。入社して間もない和葉に弱音を吐くのは、倫子の性格からみてもよっぽどのことなのだと感じた。そんな彼女の役に立てれば、と和葉が考えるのも当然なのかもしれなかった。
「あの、新居君は……元気ですか?」
 尋ねていいものか迷いながら、遠慮がちに和葉は口を開いた。
「新居ですか?」
 高歩は小首を傾げつつ最近の知史を思い浮かべる。特にこれと言って変わった様子もなく、元気と言えば元気である。しかしそれをなぜ彼女が気にするのだろう、と考えて、そういえば以前にも同じようなことを聞かれたことを思い出した。
「元気にやってますよ。乙瀬さんがお礼を言ってたと伝えたら、照れてました」
 言いながら、その時のことも思い出され、高歩は小さく笑い声を洩らした。きっと感謝の言葉を伝えられることが少ないのだろうと分かるほど、知史の表情は幼く変化し、それが年相応にも見えて高歩には可愛らしく映った。和葉が、お礼を言ってください、と高歩に言付けた二日後のことだ。
「あ、そうなんですか」
 和葉は笑っていいものか判断が付かないような、微妙な表情を浮かべる。実際、その心情は複雑だった。特に変わりなく元気にやっている、ということは大して倫子の頼みに心を砕いているわけでもないようだと想像できたからだ。もちろん知史が乗り気ではなかったことは既に目で見ていたし、希望も低いことは明白だった。それでも倫子も和葉も一縷の望みを託していたのだ。
 これはやはり、高歩の力を借りるしかないだろうか、と思う。
「失礼ですが、新居が何か?」
 さてどうやって切り出そうかと頭の隅で思案していると、高歩が不思議そうに顔を覗きこんできた。
「えっ」
「何だかやけに新居のことを気にしているみたいでしたから。あいつが何かやらかしたのかと」
「まさか! とんでもないです!」
 驚いた和葉は慌てて首を横に振る。むしろその逆である。
「どちらかといえばこちらが新居君にしでかしたくらいです」
 しでかす、と物騒な物言いに高歩が目を丸くする。高歩が知る限り彼女と知史はあの夜が初対面である。それから接触したという話も聞いていないので、二人にまだ繋がりがあるとは思ってもいなかった。
「何を――」
 和葉と知史の間に何があったのか、と高歩が口に出す前に、和葉は意を決して座りなおした。真っ直ぐに高歩を見つめ、実は、と改まった態度で口を開いた。同時に高歩の放たれかけた言葉は途中で飲み込まれる。和葉の言おうとしていることがその答えだと感づく。
「実は、新居君には個人的に頼んでいることがありまして」
「頼み?」
 予想外する単語が出てきて、高歩は更に驚いた。
 タイミング悪く、そこで和葉の注文したチゲ鍋と高歩が注文したモツ鍋が運ばれてきた。食べ方の手順を店員が説明している間、何とも言えない空気が流れたが、彼女が下がれば箸を動かしながらも「それで」と高歩が促したことをきっかけに和葉は再び自分の話すべき内容を思い出す。一人前とはいえ鍋というものはなかなかテーブルを占領して話すことに集中できるものではなかったが、それでも野菜や肉を一通り入れ終えれば、なんとか自分のペースを見つけることが出来た。
「はい。筵井さんにはあたしの仕事について、軽く話したことがありますよね」
 そう言われて高歩は軽く頷いた。それは出会ったばかりの頃だ。その時に自分も教師であることを打ち明けた。
「簡単に言えば広告を作ってる会社です。それは企業や個人を問わず、依頼を受けて、制作するんです。それで今、ある商品の広告を作ることになっているんですが、そのイメージモデルに新居君を起用したいと思っていまして。新居君に意思があるなら連絡をして欲しい、とお願いしていたんですが」
「新居をモデルに、ですか」
 高歩は驚きつつも、知史ほどの容姿ならば納得できる話だった。そして彼女の最後の言い回しから、知史がまだ連絡をしていないということも察しがつく。彼女としては否か是か、どちらの返事でも連絡が欲しいのだろう、ということも理解した。
「新居君が興味ないと言っていたので、望みは薄いんですが、できれば筵井さんからも言ってくれないでしょうか」
 困った表情を浮かべる和葉に、思わず高歩は頷きそうになった。慌ててそれを抑えたのは、教師としての理性が働いたからだろう。
「それは金銭的なことが発生するものでしょうか? 個人的にアルバイトを率先して進めるのは……」
 高歩がそう言うと、和葉はそこまで思い至らなかったようで、ハッと息を呑む。
「すみません。もしかしてアルバイトは禁止でしたか?」
「まぁ、一応校則では許可制になっているので、厳密には禁止と言うわけではないのですが」
 言ってしまえば、今時の生徒は律儀に許可を取っている方が少なく、学校側も保護者がとやかくと煩くなったのでやむを得ず黙認している状態だ。だが和葉にそこまで内情を知らせる必要はない。ただ高歩は申し訳なく「すみません」と謝るしかないかった。
 ただそこで諦めるほど和葉も潔い人間ではない。何より倫子の思い入れを一番間近で見ていたのだ。簡単に引き下がるには早すぎる気がした。
「でも金銭が絡まなければ“仕事”ではないので、問題はないですよね?」
 明るく和葉が言うと、意味が分からないというように高歩が小首を傾げる。
「それはどういうことでしょう」
「あの、イメージモデルといっても街中のポスターに出るとか、テレビに出るとか、まだそういう段階の話ではないということです」
「そうなんですか?」
 高歩の問いかけにコクンと頷いた和葉は、今回の話はカンプ制作のためだということを簡潔に話すことにした。こういった制作話は業界以外の人間が知らなくても当然のことなのだ。
「ポスターでもCMでも、まずはクライアントに完成イメージを見てもらって、そこでゴーサインを貰わないと撮影に入らないんです。何より広告は企業イメージに直結するので、出来上がってから直せといわれても難しいし、費用もバカになりませんから」
 一旦言葉を区切る和葉に、高歩は小さく頷く。考えなくてもその流れは理解できる話だ。
「それで、今はその完成イメージを作る段階です。要するにプレゼンテーションの準備段階ですね。だから本当に“イメージ”だけなので、仮にそれで作品が選ばれたとしても、ギャラが発生する本格的な撮影はプロのモデルが起用されることがほとんどです。少しだけ新居くんの写真を使わせていただければ、それでいいんです」
「……なるほど」
 和葉の話を興味深そうに聞いていた高歩は、一通り聞き終えると面白そうに呟いた。
 プレゼンテーションということはそれなりに期限も迫っているのだろう。だから個人的な頼みを助けてくれるように高歩に相談してきたのだろう、ということも想像に難くなかった。
「でもまだ新居が返事をしていないということは、あいつもまだ迷ってるってことじゃないですか?」
 高歩にそう言われても、和葉は首を傾げるしかない。何も言われてこないということは、無かったことにされているのかもしれない。倫子が連絡先を渡したときの知史のやる気ない表情を見ていた和葉は、むしろ後者の方が断然説得力のあるように思え、不安である。
「といあえず内容は分かりました。一応口添えはしてみますが」
 静かに、しかしはっきりとした口調で高歩が言う。
「ほ、本当ですか!」
 驚きと嬉しさで和葉の声も自然と高くなる。高歩は僅かに驚いたが、彼女の嬉しそうな表情を見て自然と笑みを浮かべた。
「まぁ期待はしないでくださいね」
 高歩はそう言うものの、和葉は最初の不安を少し取り払えた気分だった。
 知史が高歩のことを慕っていることは既に知っているし、その彼の言葉であれば、多少の無理は押し通せるのではないかと思ったからだ。それに和葉は高歩のことを信頼している。彼に任せれば良い方向に転がるのではないか、と思わずにはいられないのだ。
「いえ、充分です。よろしくお願いします!」
 元気よく頭を下げる和葉はなんだか新鮮で、高歩は笑みを更に深めた。本当に嬉しそうに言うので、今の仕事が好きなのだとよく分かった。受け持ちの生徒と言うわけではないが、好きな仕事に就けた彼女を見ると高歩も嬉しかった。一昨年は3年生の副担任をしていたので、その時の卒業生も、短大や2年制の専門学校へ進んだのならきっと、今の和葉と変わらないと思えば感慨深い。
「僕も年を取ったかな」
 ふとそんなことを呟けば、耳にした和葉は驚愕の表情を浮かべた。
「筵井さんはまだ若いですよ」
「ははは。ありがとう」
 和葉の言葉をフォローと受け取った高歩は可笑しそうにしたが、真面目に言った和葉はもう一度「若いですよ」と念を押した。