月影

chapter 19


「あー、畜生! まただ!」
 何食わぬ態度で元の位置に戻っていくクレーンの下で、端に引っかかり落ち損なったぬいぐるみがこちらを向いた、その瞬間に水藤が悔しそうに声を上げる。数年前に流行った何とか系キャラの大して可愛いとも思えないぬいぐるみだったが、少ない小遣いの内の何割の損失として考えれば、水藤がガツンと機械を足蹴りした思いも分かる気がした。
「なんだよ、水藤。また八つ当たりか?」
 背中から笑い声と共にそう言われ、振り返れば射撃ゲームをしに行った連中が二人の方へ戻ってきていた。水藤は不機嫌な表情のままチッと舌打ちする。
「うっさいな。俺はこういうのは苦手なんだよ!」
「なら、そんなにムキにやるこたないんじゃねぇの?」
 笑っていた内の一人が真面目に正論をかましてきたから、水藤は居心地悪そうに更に表情を険しくした。
「そりゃあお前、女絡みに決まってるっしょ」
 水藤の代わりに答えたのは右隣の奴だった。さも当然とばかりに言ってのける。事実、水藤が、苦手なクレーンゲームと格闘していたのは、他ならない片想いの相手が好きだと言っていたキャラクターだったからだ。図星をさされ、思わず水藤は口を閉じた。
 あまりにも分かりやすすぎる理由からか、どこか浮かれた応援ムードになっていく空気を感じ、水藤は焦った。意外にも彼をそこから救ったのは最初に笑った奴で、そう言えばさぁ、と口を開いた。
「新居はどうなの、最近。全然遊んでないって聞いたけど」
「俺?」
 今まで静観していただけというのに、急に話題を向けられた知史は僅かに身構えた。その横で助かったとばかりに水藤が大きく頷く。
「そうなんだよな! それこそ女は絶やさなかったのにさ。筵井に何か言われた?」
 知史が、友人・教師を含めても高歩にだけ唯一懐いているというのは、周知の事実だった。高校へ入学してから更にその容姿が目立ってきた彼に言い寄ってくる女性達は後を絶たず、据え膳は残さないタイプである知史がある日を境にピタリと食わなくなれば、そういった疑問が放たれるのも当然と言えば当然だ。
「言われてねぇよ」
 不愉快だと表情を歪める知史だが、誰も信じた素振りを見せない。
「あ、でも、この前もOLからのメアド捨ててたじゃん」
 不意に水藤が口にしたそれは、知史自身が既に忘れようとしていたことだ。
「え、何それ?」
「どういうこと? ていうかいつの話?」
「OLって何!?」
 自分達が知らない話題を出され、好奇心で目をキラキラと輝かせた三人に知史は一気に詰め寄られた。非常に面倒で厄介なことになったと、煩そうに顔を顰める。
 完全に話の流れが知史へ集まったと確信した水藤はホッと息を吐き、調子に乗ったようにあの日のことを言って聞かせた。最後に知史が己の容姿に関心を持ったことを話せば、彼らの興味はその一点へ注がれることは明白だった。彼らもまた、知史に容姿の話で眼付けられた過去を持っている。
「マジ!? モデルって、スカウトされたってことじゃん?」
「なんで捨てるんだよ。絶対勿体無いって!」
 思ったとおりの反応を見せた三人に満足した水藤は、そこでようやくフォローに回ることにした。でなければただ知史の機嫌が悪くなる一方で、水藤にとってもそれは喜ばしいことではないし、メリットもない。
「でもさ、今回は乗り気じゃなかったけどさ、新居が自分の外見に好意的になったのは、俺は嬉しかったんだ」
 水藤はゆっくりと大げさなほど真剣に言った。そんな彼の言葉に「それもそうだな」と三人は大人しく引き下がる。口では何だかんだと喧しいことを言っても、友情には厚い奴らばかりなのだ。水藤は知史と同じくらい彼らを気に入っているし、彼らもそれは同じ気がする。
 何気なく話題が終わり、既に次に向かうゲームの話をする彼らの横で、知史は先ほどの水藤の言葉を頭の中で繰り返していた。奇しくも似たようなことを、数時間前の学校で言われたばかりだった。腹立たしいほどに、けれどそれを拒めなかったのは自分であるということも分かっていた。
――それが高歩でなければ同じ事を2回繰り返されたとしても大して気にしなかっただろうに。
 知史は僅かに眉根を寄せ、脳裏に過ぎるそれらを振り払うように目を閉じた。


「新居、ちょっと良いか」
 授業が終わってすぐ、席でぼんやりと頬杖をついていた知史に近づいた高歩が声を掛けた。次は眠くなるだけの現国だから、裏庭にでも逃げ込もうかと思案していたところだったから、思いのほか驚いた。
 通い慣れた教科準備室へ入る。自ら赴く時とは異なって、高歩の背中を見ながら足を踏み入れると、まるで疚しいことが見つかった時のような気まずさを感じた。ここへ入った最初がそうだったからかも知れない。
「まぁ、座れ」
 所在なさ気に立ち尽くす知史に苦笑を浮かべ、高歩は手前の椅子へ促した。そこはある意味知史の指定席と化している椅子だった。いつもと同じなのに、全く違う空気に知史は高歩を見上げる。次に彼が何を言うか予想が出来ず、知史は不安な表情を浮かべている。
「乙瀬さんから聞いたぞ。モデル頼まれてるんだって?」
 初め、オツセという人物が分からなかった。え? と首を傾げるが、モデルという単語を聞いてメモ用紙を渡された場面がフラッシュバックする。連絡先を強引に渡した女のことかとも思ったが、高歩の親しそうな口振りから判断するに、知史の隣にいた彼女のことだと思い当たる。父親が大好きだと言った彼女だ。
「返事をしていないと聞いたけど、迷っているのか?」
 知史が人一倍己の容姿にコンプレックスを抱いていることは高歩もよく分かっていた。だからこその質問でもある。
 もし本当に迷いがあるのなら、それは喜ぶべきことだ。是非とも応援してやりたいと思う。しかし知史は高歩の好意を無視するかのように視線を逸らしたまま、無愛想に「違うよ」と否定の言葉を口にした。
「モデルなんて興味ない。受けるつもりなんてないよ」
「なら断ればいいじゃないか?」
「連絡先知らねーもん」
 悪びれる風でもなく平然と言い放つ知史に、高歩は驚き、呆れた。和葉からは細部まで聞いたわけではなかったが、一週間後には連絡が欲しいと言っていると聞いているので、当然連絡先は教えているはずだ。それを知らないと断言するからには、知史が何らかの方法でそれを放棄したということだろう。
「あのな、新居。返事の内容がどうであれ、頼まれて自分の決断を報告しないのはルール違反だ」
 高歩は肩を竦めるのと同時に溜め息を零す。
「乙瀬さんには僕から直接断りを入れておくよ」
 声音に落胆の色を隠さない高歩に、知史は顔を窓に向けたまま視線だけを彼へ移す。なんだか高歩のセリフに無性に腹が立った。
「なんで先生が断るんだよ? いいよ、その人の連絡先教えてくれたら俺から言うから」
「遠慮するな。今日も彼女に会うんだし、ついでだよ」
 今日も、というところに知史の眉が釣り上がり、いよいよ姿勢を高歩へと向き直った。今日も、とはどうことだ。
「なに、そんなに頻繁に会ってるの? 付き合ってるの?」
 まるで浮気相手を探る女のようだ。知史は自分でも嫌気が差したが、口から吐いて出てくる言葉は止められなかった。
「ていうかマジでどういう関係? なんで先生、あの女の協力なんかしてんだよ。意味分かんねぇ」
 吐き捨てるように流れ出る言葉は完全に高歩を不愉快にさせた。知史にもそれは分かっていたが、抑えられなかった。表情が険しくなっていく高歩を見ても、逆にその反応に苛立って仕方がなかった。高歩が怒っているのは自分が彼女を貶しているからに他ならない。
「困っている人を助けたいと思うのは当然だろう。僕は乙瀬さんの手助けがしたいと思ったから新居にも声を掛けただけだ。それの何が気に入らないんだ?」
 心持ち高歩の口調が厳しくなる。どうして協力するのかという問いには答え、高歩と彼女の関係については受け流されていることが余計に知史の苛立ちを煽る。それこそお前には関係のないことだ、と言外に突き放されているようで、腹が立ち、悲しかった。
「何もかも気に入らねーよ。こんなツラ、曝け出して何の意味があんだよ? カオが良いからって、それが何の役に立つよ?」
「少なくとも、乙瀬さんの仕事には役に立つ。彼女の叶えたいことのために、新居のカオが必要なんだ」
 叫びだしそうなほどの勢いで捲くし立てる知史の言葉をじっと聴き終えた高歩は、言い聞かせるようにゆっくりと答えた。知史の視線から一度も逸らす素振りを見せず、真正面から向かい合った。
「乙瀬さんは広告代理店に勤めている。メディアを通して自分の作品を残すことが彼女の夢なんだそうだ」
 ふと、声の調子を落として昔話を語りかけるように、静かに高歩は話し出した。
「それは自己主張というより、自分の存在を世の中に記憶や記録として残しておきたいということの表れで、その手段にマスコミのメディアを選んだという理由だけだけれど、僕はとても素敵なことだと思っている。乙瀬さんはね、両親を亡くしているんだ。母親は幼いときに病で、父親は専門学校へ入学してすぐ交通事故で……。親戚とはもともと疎遠になっていたらしいから、父親が亡くなってからの環境を想像すれば、彼女が世の中に自分が居た証を残したいという願望を持つのは、僕はなんだか分かる気がする。だから応援したいと思うんだ」
「……」
 知史は言葉に詰まる。だから何だ、という思いと、そこまで彼女を理解している高歩が憎らしい、という思いが複雑に交差する。そしてやや前者の方に傾きつつある思いが表情になって表れる。それがどうした。嫌なものは嫌でしかない。
「なあ、新居」
 先ほどまでの射抜くような目つきを和らげ、高歩は微笑んで知史を見つめた。
 ピクリと知史の肩が揺れる。
「お前にはそういう夢とか、まだないのかもしれない。だから分からないのだろうけど、少なくともお前の嫌いなそのカオは、乙瀬さんの夢を叶えられる。それって凄いことだと思わないか?」
「……これくらいの顔、探せばいくらだっている」
 眉根を寄せて嫌がる知史に、高歩はふわりと笑った。
「でも選ばれたのは新居だよ」
 他の誰でもなく、お前なんだ。
 高歩が力を込めて強調した。それでも知史の仏頂面は直らなかったけれど。高歩は確かな手応えを覚えた。数年教師をやってきた勘に近いそれは、けれど1年近く知史を見てきた経験から言っても、それほど外れてはいないだろう。
「夢ってそんなに大切なもんかよ」
 知史は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに頭を振り、立ち上がった。もうは用はない、と振り返りもせず準備室を出て行く。
 高歩はその背中を黙って見つめ、閉じられたドアに向けてそっと息を吐き出した。
 最後に放たれた知史の言葉が脳裏に強く刻まれる。
 夢の価値がどれ程のものか、高歩は知らない。