月影

chapter 20


 改札口の前で待っていた高歩は僅かに気落ちしている様子だった。
「すみません。新居への説得、失敗してしまいました」
 和葉の前に立つと、高歩は申し訳なさそうに頭を下げ、開口一番そう言った。
 何となくそんな気はしていたので、和葉はそのことよりも、高歩が頭を下げたことに慌てる。何も高歩が気を悪くすることはないのだ。
「いえ、こちらこそ我侭を聞いていただいてありがとうございました!」
 和葉が明るく努めるも、自ら言い出した手前もあってか高歩は恐縮した様子のまま、もう一度軽く頭を下げる。
「お礼を言われることは何もしてないですよ。あと、勝手に乙瀬さんのご両親のことも話してしまいました。すみません……」
 そして深々と頭を下げた。実は、高歩が最も気にしていたのはこれだった。
 軽々しく他人の口から触れていいことではなかったと気づいたのは、知史が準備室を出ていってからだ。気づいた時はひどく動揺し、後悔した。和葉に対して申し訳なく思っていたことの大方は、説得に失敗したことよりもこちらの方だ。彼女に謝罪したらといって後ろめたさが消えるわけでもなかったが。
「そんなことは全然! 本当のことですし、隠すことでもないですから」
 和葉は懸命に首を横に振る。しかし高歩の表情が晴れることはなく、ほとほと困ってしまう。高歩の優しさは嬉しいが、あまり気を遣われすぎるのも窮屈だ。それに和葉は、知史には既に父親が亡くなっていることを言っていた。高歩が気にするほど繊細な話題としての認識は、和葉自身は少しもしていなかった。
 和葉の困惑する表情を見て、高歩はようやく肩の力を抜くことに意識した。こうして時間を過ごしても、おそらくは平行線のままだと気づいた。彼女の過去を気にしすぎるのは、自分にも同じような経験があったからだ。しかしそれを押し付けることは違う。また失敗したな、と高歩は気づかれないように溜め息を吐いた。
 駅から離れ、細い小道へ入る。賑やかな明りが一気に減る。しかしその静かな空間も、高歩が横にいるのなら、和葉は何一つ苦痛ではない。
「思ったんですけど」
 高歩は昼間の知史が言ったセリフと、彼の背中を思いだしながら口を開いた。
「一度現場を見せてもらうって、できないでしょうか」
 窺うように高歩が和葉の顔を覗きこむ。彼女はキョトンとして「現場、ですか?」とオウム返しをする。
 高歩はコクンと頷く。
「撮影現場を一度、見せていただけたらと思ったんです。例えばほら、靴を買うにしても見ただけの印象と実際に履いてみるのとでは、そのデザインの見え方も違ってくるし、履き心地も分からないでしょう? だから新居の場合も、一度現場へ誘ってみたら興味を持ってくれるかもしれないと思うんです」
 さすがは教師、という話術と説得力でもって高歩はさり気なく提案してみせた。和葉は「確かに」と素直に頷く。
「それはそうかもしれませんね。一度各務さんにも伝えてみます。……あ、各務さんは新居くんをモデルに選んだ本人なんですけど」
 倫子の名前を出して高歩が首を傾げたので、そういえばまだ紹介していなかったと思い出して付け加えた。和葉の簡単な説明で納得した高歩は小さく頷き、是非お願いします、と念を押した。
 あまりに簡単に和葉が望みを受け入れてくれたので、高歩はまた一つネタ晴らしをすることにした。
「本当は、僕はモデルに関係なく、新居には興味が持てるものを見つけて欲しいんですよ」
「え?」
「今あの子に必要なのは夢中になれる何かだと思ってるんです。今でさえ学校にも勉強のためとか、友人がいるから来ているわけじゃなく、強制的に行かされているんです、新居は。だから本当は何だって良いんです。真剣に仕事に向き合ってる乙瀬さんたちに刺激を受けてくれれば良いかな、と思って現場見学を提案しました。すみません、何だか不純な動機で」
 困ったように苦笑を浮かべる高歩に、いいえ、と和葉は首を横に振る。やはり謝られることは何一つ見つけられない。
「あたしも高校生の時はそんな感じでしたよ。各務さんから確認取れたらすぐお知らせしますね!」
 和葉はニッコリと笑って言った。高歩はホッと肩を押して「ありがとうございます」と微笑み返した。和葉にそう言ってもらえただけで肩の荷が僅かに下りたようだ。
「よろしくお願いします」
 高歩に微笑まれ、和葉は予期せず顔を赤く染める。
 何も見込みはなかったけれど、はい、と頷いて前髪を整える。それは困った時の癖だった。

 自分達でさえ撮影現場へ直接赴くことは稀なのだから、と身構えていたが、意外にも倫子はあっさりと快諾した。
「え、良いんですか?」
 だから思わず聞き返してしまったのも仕方がないだろう。和葉が驚いてそう尋ねれば、うん、と倫子は呆気なく頷いた。しかしすぐに少しだけ眉を下げてネタ明かしをしてくれた。
「でも榎並の件はもう良いの。どうしたって時間もないし、モデルしてもらうのは諦める。だから紹介するカメラマンも友人として合わせるけど、それでも良い?」
 確かに今からモデルを受けてもらったとしても撮影と編集作業も含めれば、少しの残業をしても間に合わないのは、入社して数ヶ月の和葉でも分かっていた。納得した和葉は大きく頷き、それでも新居のためにカメラマンと会わせてくれる倫子に頭を下げて礼を述べる。
 そうして倫子がカメラマンの承諾を得たことと待ち合わせ場所を伝えてきたのが、それから1週間も経たない内で、和葉は早速それを高歩に伝える。カメラマンのことは倫子の友人、ということしか和葉も知らないので何と言っていいか分からなかったが、そのままを伝えるしかなかった。

 自分でも気づかなかったが、高歩は知史が放った言葉を自分が思っている以上に気にしていたらしい。
「夢ってそんなに大切なもんかよ」
 未来を一番自由に選べる十代の少年が放つには悲しすぎる言葉を、抑揚もない声で言った彼は、いったい己の未来をどのように見ているのだろうか。おそらく霧のかかった闇の中にでも居る気分ではないだろうか。
 幸運にも高歩は、今思えば高校時代には既に未来を決定付ける人物に出会っていたのだから、知史の抱えている問題は想像の内でしか重ね合わせることは出来ないけれど。少しでも彼の闇が晴れれば良いと願わずにはいられない。
 教師の仕事の範疇を超えているような気もしないではないが、まるで年の離れた弟のように思える知史を、どうしても放っておくことはできなかった。
 周りは固めた。
 あとは教師として、一人の人生の先輩として、高歩が知史を誘うだけだ。
「新居!」
 教室を覗いても見当たらなかった知史が居たのは、体育館2階のトレーニングルームだった。ルームと言っても一つの部屋があるわけではなく、カーテンを開け閉めするための通路の正面にある広めの場所を利用して、トレーニング器具が並べてあるだけの空間だ。知史はそこの細長い台をベッド代わりにして寝そべっていた。
「……先生。なに、俺を探してたの?」
 本気で眠っていたわけではないのだろうが、大きく欠伸をしてから起き上がる知史は、すぐに蓋をしそうな瞼を擦って目を開ける。高歩の姿を確認するなり、僅かにその目を見開いて小首を傾げた。
「次、先生の授業だっけ」
 確か次に行なわれる授業は英語だ、とぼんやり記憶する時間割を思い出しながら知史が尋ねれば、高歩は小さく首を横に振って答える。
「違う。僕はこのあと空き時間だからね。だから少しだけ話に付き合ってくれないかな」
「なぁんだ。サボれってことじゃないの?」
「バカ言うな。そんなわけないだろう」
 軽く知史を睨んでやる。鋭くなった高歩の視線を受け、しかし知史は嬉しそうに笑った。
「何が可笑しい?」
「いや、だって、去年のやり取りと一緒なんだもん。あの時もこんなふうに俺を見つけてさ、話をしようって」
 一年前はトレーニングルームではなく保健室の本物のベッドで眠っていたんだっけ、と思い出す。そして結果的に一時間丸まる潰したのだ。
「そういや、そうだったか」
 高歩の何ともつかない返事を聞いて、知史は拗ねたように頬を膨らませる。
「先生、覚えてないの?」
 あれほど濃い時間を過ごしたことは今までなかったし、あれ以来もないのに、と知史は不満気な顔を見せる。高歩は忘れたわけではないが、肩を竦めて、悪い、と小さく謝る。すぐに思い出せなかったのは事実だ。
「ま、いいけどさ。何か用?」
 僅かに気分が沈むのを隠すように、知史は努めてどうでもよさそうな口調で、高歩がここに来た理由を尋ねる。
 けれど大体は、予想が出来ている。
「ああ。この間の話だけど、乙瀬さんがカメラマンの方と会わせてくれるって言ってくれたんだ。モデルの話は流れたけど、どうかな。会ってみる気はない?」
「モデルの話は流れたんだ?」
 知史は聞き返してはみたが、安堵することも落胆することもしなかった。ただの確認にすぎないのだろう。高歩は頷いて肯定する。
 ふうん、と呟き、知史はしばらく黙っていた。高歩も口を閉じ、知史の答えを待つ。
 例え知史の答えが望むものでなかったとしても、先日のようにあっさりと引き下がるつもりはなかった。この話は高歩から持ち出したものなのだ。こればかりは粘ってみようと決意し、胸の内で握りこぶしを作る。
「いいよ」
 不意に聞こえた声に、高歩は咄嗟に反応が出来なかった。
「え?」
 間の抜けた声で問い返す。
「いいの?」
 高歩の呆けた顔を見ながら知史は声に出して笑い、もう一度「いいよ」と答えた。
 知史を探している間も身構えていた高歩は拍子抜けた感じが否めず、そうか、と後頭部を掻く。
「じゃあ、早速だけど今月末の日曜日、駅で待っててくれるか。乙瀬さんが来てくれるから」
「分かった」
 知史はこの間の彼女の顔を思い出しながら頷く。
 そこで授業の始まるチャイムが鳴り、高歩は慌てて知史を教室へ向かわせることにした。だからなぜ彼が頷いてくれたのか、その真意を聞きだすことが出来なかったのだが、結果に不満はないので高歩はひとまず胸を撫で下ろしたのである。