月影

chapter 21


 某日日曜日。和葉は、知史が通う高校の最寄り駅で彼と待ち合わせをし、そのまま倫子が指定した場所へと移動した。そこは都心から離れた場所で、はっきり言えってしまえば何もない所だ。閑静な住宅街も抜ければ、すぐそこは山である。倫子に“集合場所”として渡された地図を片手に辿り着いたのは、山林公園とは名ばかりの、遊具一つない広場だった。
「ここ?」
 休日だというのに自分たち以外の人間とすれ違うこともない、閑散とした場所を目の前にし、知史は思わず呟いていた。確かにここのはずだけど……、と和葉は自信のない声で答える。
 倫子から手書きの地図を貰った後、念のためインターネットで実際の地図と照らし合わせ、プリントアウトしたものも持って来ていた。
「あんた、実は“地図の読めない女”とかいうオチじゃないよな?」
「失礼な! 地図くらい分かります」
 ムキになって和葉は言い返すが、実際、強く言われればすぐに尻込みしてしまいそうな、それくらいの自信しかなかった。
 入り口で待てばいいのか中に入っていればいいのか分からず、二人して顔を見合わせた。気分はすっかり迷子のようだ。
「あ〜、もう来てたんだ」
 不意に声がして振り返る。和葉はあからさまに安堵し、胸を撫でた。
「各務さん!」
「ごめんね。もしかして待たせちゃった?」
「いえ、あたし達も来たばかりです」
 そして和葉はそっと倫子の隣に視線を移す。隣には長身の男がいた。和葉と視線が合うと、にこりと微笑んだ。きっと彼が倫子の言っていたカメラマンなのだろう。
 倫子は和葉と男の視線に気づき、早速本題に入ることにする。
「新居くん、乙瀬さん。こちらが今日付き合ってくれる杉浦さん。一応フリーでやってるプロのカメラマンよ」
「はじめまして。杉浦です。プロと言ってもどこと専属で契約してるわけでもないから、あんまり期待しないでね」
 そう言って杉浦と名乗った彼は、和葉と同様に知史へ微笑んで見せる。染めていない黒の短髪、細い一重の目、鍛えた逞しい体つきから体育会系かと思えば、その笑みは甘く硬派というよりは軟派な青年に見える。
「杉浦さん、この子が今日頼んだ新居くん。こっちはあたしの後輩の乙瀬さん。くれぐれも手は出さないでくださいね」
 倫子は付け足すように、最後の言葉を冗談とも本気ともつかない口調で言った。杉浦も分かっているのか真に受けていないのか判断しにくい笑みを浮かべ「ハイハイ」と頷いただけだ。
「じゃあ早速だけど、新居くん、行こうか」
 そう言って杉浦が歩き出したのは、公園の中ではなく、山道へ続く方だった。
「え、あ、どこに?」
 戸惑いを隠せず、杉浦の後を追いながら知史は声を掛けた。現地集合と言うからてっきり撮影場所もこの公園だと思っていた。それは和葉たちも同じだったのか、知史が彼女たちに視線を向ければ、倫子は肩を竦めて杉浦に続くよう目で促すしかしてこなかった。
 何なんだ……。知史は溜め息をわざとらしく零し、けれど従うほかの術を知らない。
 杉浦は歩く足を止め、振り返って答える。
「どうせならロケーションに拘ってみたいだろ」
 同意を求められたのだろうか、と知史は逡巡してみせたが、杉浦はそれ程返答を求めているわけでもなかったらしく、可笑しそうに口元を上げて再び歩き出した。
 そうして行き着いたのは川の中流付近だった。行楽日などにはバーベキューをすることも多いのか、近くに道具一式を揃えたレンタル屋やアイスクリームの屋台が並んでいる。生憎シーズンオフの今日はどちらも青いシートを被っており、看板がなければただの古びた小屋でしかない。
 杉浦は手招きをし、知史を川原のほうへ呼んだ。
「あそこにでっかい岩があるだろ。そこに座ってみて」
 知史は嫌そうに顔を歪ます。分かっていたことだが、やはりカメラを取り出す杉浦を見てしまうとどうしても身構えてしまう。高歩から今日は仕事に関係ないからと聞いていた。ここで従う必要はないだろう。
「何でですか」
 つっけんどんな言い方で尋ねる知史に杉浦は驚く。まさか拒まれるとは思っていなかった。
「何でって、俺が撮りたいからだよ。それ以外に何があるの」
 杉浦は答える。だが知史はそれでも嫌そうな表情をやめない。どうしてだろうか、と杉浦は首を捻った。
「……まぁいいや。嫌ならその辺ブラブラしててよ。俺が勝手に撮るから」
 知史はまだ納得していないようだったが、杉浦は気にせず彼から距離を取った。カメラをバッグから取り出し、彩度や光度などの調整を始める。今のカメラはデジタルなのため長くはかからない。実際の撮影はカメラとラフ板を使って照明の調整を測るのだけれど、倫子から本格的なものではないと聞いていたので、用意してこなかったのだ。
「乙瀬さん」
 杉浦はカメラを片手に和葉を呼んだ。後ろで成り行きを見ていた和葉は、突然自分の名前を呼ばれ、驚きつつも急いで駆け寄った。
「新居くんの相手を頼めませんか。一緒に歩いたり話したりするだけで良いんで」
 にっこりと杉浦に微笑を見せられれば、訳が分からずとも頷くしかなかった。和葉は意を決して一人でいる知史へと近づいた。
 後ろから杉浦が見ていたが、緊張よりは心強さの方が大きかった。
「に、新居くん」
 川辺で立ち尽くしている知史は和葉の方へ顔を向け、詰まらなさそうに肩を竦めた。
 思ったより不機嫌ではないようで、ほっとしながら和葉は知史の隣へ立った。
「あのさ」
 和葉が必死になって話題を脳内で模索していると、意外にも彼の方から声を掛けてきた。顔を上げて隣を見れば、知史は眉根を寄せ、さらさらと流れる水面を見つめていた。
「あの人俺をモデルにするつもりでいる気満々なんだけど」
「あー。や、だってプロのカメラマンだしね」
 カメラマンを相手にするのはモデルしかないだろう、と思いつつ、和葉は賢明にも口には出さなかった。知史が容姿にコンプレックスを持っていることは高歩から何度か聞かされていた。
「筵井さんからは何て言われてきたの?」
「先生には……別に。カメラマンに会うかって聞かれて、いいよって答えた。それだけ」
 ポツリポツリと答える知史に、和葉は驚いた。
「それだけ?」
 高歩の端折りすぎた誘い文句も大概だが、あっさりと頷いた知史の行動は意外だ。
「モデルじゃなかったら行っても良いかなと思ったんだよ。どうせ暇だったし」
 その言い方がまるで拗ねた子どものようで、和葉は小さく笑った。
「そうなんだ。でも結局撮られちゃってるね」
「まぁな。ったく、暑いのに山登りなんてさ、するとは思わなかった」
「でも気持ちいいよね、ここ。ほら、水も冷たいし」
 言って、和葉はしゃがんで指先を川の水へつける。底が見えるくらいには澄んでいる水は見た目どおり気持ちよく、暫く掌まで水に濡らして遊ぶ。
 ふと見上げると、呆れつつも知史の表情は幾分か柔らかくなっている。少しは緊張が解けてきたのだろうか。
「前から聞きたかったんだけど」
 知史もしゃがみこむと、和葉と同じ視線になる。真っ直ぐと見つめられると、やはり知史の美貌が目の前に迫り、和葉は慣れない胸の高鳴りに動揺した。当然それは耐えて隠すけれど、知史は試すようにじっと彼女を覗き込む。
「あんたと先生ってどういう関係?」
「どういうって……」
 それは知史が和葉の存在を知って以来ずっと疑問に思っていたことだ。高歩には尋ねたことがあったが、上手く交わされたようで納得の行く答えは貰えていなかった。ならば、と彼女に向けてみたのだが、和葉は困ったように首を傾げた。
「答えられないような関係なの」
「ていうか……」
「セフレ?」
「は?」
「なんだ、違うの」
 一瞬、和葉には何を言われたのか理解できなかった。
 しかし脳内で変換機能が働くと、見る見るうちに顔が赤くなっていくのが分かった。顔だけでなく、きっと耳まで真っ赤だ。
「な……っ、違うに決まってるじゃない!」
「恋人ってわけでもなさそうだし。まさか友達とか言わないよな」
 確かにその通りだろう。高歩とは年齢が離れているから友人と呼ぶには彼に失礼だろうし、もちろん恋愛感情を挟む間柄でもない。知人と済ますには素っ気無さすぎる。あまり考えたことはなかったけれど、一言で表すには難しい気がした。言うなれば……なんだろう。
「筵井さんは、あたしの恩人……かな」
 曖昧に答える和葉に、知史は真意を探るように彼女を見つめる。
「新居くんもあたしの恩人だよ」
「俺と先生は同じ位置なの?」
「うーん……」
 僅かに知史の視線が鋭くなった。きっと彼には彼なりに望む答えを持っているようだ。
 けれど、和葉にはそれが何かが分からないし、正解を言えば彼が満足するとも思えない。それに二人が全く同じ位置なのかと問われれば、それは当然“否”だ。
「感謝してる、という意味では同じ位置にいるかもしれない。でも、支えてくれてる意味では、筵井さんは大恩人だよ」
 新居くんはただの恩人、と付け足して、和葉は可笑しそうに目を弧にする。ふふっ、と声が漏れている。
「ふぅん」
 知史には何が笑うところだったのか分からない。しかし胸の奥にあったモヤモヤとした渦は少しだけ影を薄めたようだ。
 視線を上げると、ちょうど杉浦がカメラから顔を上げたところだった。今の一瞬を撮っていたのかもしれない。
 知史は立ち上がって和葉の隣から離れ、杉浦の元へと近づいた。
「撮ったの?」
 杉浦の手元を覗いてみれば、カチカチと数枚撮った画像を確認しているようだった。
「デジカメ?」
 知史が驚けば、杉浦は悪戯っぽく笑った。
「手軽で良いだろう? 今のは精度も高いからな。これなんか良く撮れてる」
 そう言って見せてくれたのは、和葉と話しているときの横顔だった。自分の顔は鏡で見慣れているはずだし、改めて見るのは気恥ずかしい。そこには僅かに不機嫌な表情をした少年が映っている。なぜかピントが手前の和葉に合わせられているため知史の顔は厳密にはぼやけているのだが、それが返って知史自身を安堵させた。
「なんで後姿にピント合わせてあんの?」
「お前を中心に世界は回ってない。それが良く分かるだろう?」
 にやり、と杉浦は意地の悪い笑みを見せる。知史は驚いて言葉が出なかった。
「何枚か撮ってるとさ、意外とそいつの内面ってカメラに映るものなんだ。お前、素直そうじゃないから」
「……」
 知史の目つきが一段と鋭くなる。なぜ初対面の人間に自分の欠点を指摘されないといけないのだ。不快だった。
 杉浦はそんな彼の心情を察してか、他の数枚も見せてみる。ピントが和葉に合わせているのは最初に見せた一枚だけで、それ以外は全て知史が中心の写真だった。知史は、やはりそれらは面白くない、と感じてしまう。杉浦が言っていた「良く撮れている」の意味が何となく分かる。
「そうだ。新居くんも撮ってみる?」
 じっとカメラを見つめたままの知史を見て、試しに尋ねてみる。ふっ、と知史の瞳が揺れ動いたようだが、彼からの返事はなかった。
「違う世界が見えるかもよ」
「やる」
 即答する知史に、杉浦は堪えきれずに肩を揺らした。
 簡単にカメラの操作を教えると、適当に渡す。
 カメラは思ったよりもずっと軽かった。こんなに小さなもので世界が変わって見えるなら、今までいた知史の世界は、いったいどのように映るのだろうか。恐る恐るカメラを持ち上げて、川原に佇む和葉をレンズに映す。緑に映える彼女の白いワンピースに、知史は思わずドキリとした。