月影

chapter 22


 教室のドアを開けると、真っ先に後ろの空席へと目が行った。さすがに朝一では来ていないか、と溜め息を吐く。最近はよく来ていたようだったから安心していたけれど、また“病気”が再発したのだろう。水藤は自分の席へ着くと、重たくもない鞄をドサッと無造作に置く。
「新居の奴、また休みか?」
 水藤が腰を落とすと同時に後ろから声がかかった。振り返るまでもなく、その声の主は目の前にやって来た。
「みたいだな。ったく、単位本格的にやばいんじゃね?」
 もう一人が横にひょっこりと現れる。二人して水藤が登校してくるのを待っていたようだ。水藤自身、同じクラス内で、知史と最も親しくしているのは己だと自負している。彼らが知史のことで自分に話を振ってくるのも自然に思えた。
 とは言うものの、知史が連日学校へ姿を見せなくなって数日、その理由をしっかり聞けたことはない。
「何の連絡もないってことは風邪とかじゃねぇし、その内来るだろ」
 知史の家庭事情を少しは理解している水藤は、二人を宥めるためにそう言った。半分は、自身の希望でもあった。しかしその希望を確実なものにするためには、高歩と一度話をした方が良いのだろう。
「でもさ、新居が来ないと女の子は集まらないし、つまんねぇんだよなぁ」
 水藤が真剣に考えている中、友人の一人は心底辛そうに不満を呟く。「はぁ?」と思わず呆れてしまった。
「結局はそれかよ!」
「いや、それもあるけど!」
「それが本音じゃん?」
 もう一人の友人も加わって突っ込めば、一瞬たじろいだ。
「いやまぁ、そうだけど!」
 結局は認めてしまうあたり、この友人は馬鹿で素直な人間だ。だから気兼ねなく付き合えて、水藤は知史とは違った意味で好きだった。
「あーあ。今日もまたこの面子でゲーセンか」
「カラオケでも良くね?」
「シューティングもいい加減飽きたな」
「水藤のUFOキャッチャーも見飽きたしな」
 何気なく返した水藤の提案はさり気なく無視された。
「無駄にテク付けた水藤の腕を見せたかったのにさ」
 例の子に振られたことを彼らは言っているのだ。水藤は我慢ならなくなり、顔を真っ赤にして叫んだ。
「お前ら煩せぇ!!」


 いつもより遅れる、というメールが高歩から届いたのは、昼休みだった。
 しかし実際に高歩が改札口へ姿を見せたのは、和葉が予想していたよりも一時間遅い時刻だった。
「え、新居くん、学校を休んでるんですか?」
 高歩が困った表情で話した報告に、信じられない、と和葉は目を丸くして驚いた。
 情けないことですが、と高歩は肩を竦める。
「家からの連絡は入っていないのでサボりだと思います。新居が家に居るのであれば、管理は厳しい家庭ですから、すぐに連絡が入ってくるはずです。でも、ようやく今年は大人しくなってくれたと思ったんですけど……」
 高歩の言い草から、以前は今よりもずっと問題児だったのだろう、と知史の姿を想像できた。
「ただ、今回はどこで何をしているのか、全く分からないんですよね」
 溜め息を漏らし、高歩は続ける。
「去年なんかは友達と一緒につるんでるというのがほとんどで、探しやすかったんですが、今回はそうも行かないみたいで」
 ほとほと困り果てている、という様子が高歩からありありと見て取れた。おそらく今日の帰りが遅くなったのも、知史を探していたからかもしれない。夜道であまり顔色は窺えないが、よくよく観察してみれば高歩は疲れきっているようでもあった。普段それ程饒舌ではない高歩がこれほど愚痴を言うのも、きっと疲労のせいだろう、と和葉は思った。
 慰めることは簡単かもしれないが、今言うべきことは他にある。和葉は僅かに躊躇いつつ、高歩へ顔を向けた。
「すみません、筵井さん」
 ペコリ、と和葉は頭を下げる。高歩は驚いた。
「え?」
「あたし、新居くんが学校休んでるなんて知らなくて……」
 深刻な顔をして謝る彼女に、高歩は首を捻った。知史とは言うほど接点のない和葉が、彼の学生生活の現状を知るわけはないのだ。だから知らなくて当然だし、和葉が謝る必要は全くないと言って良い。
「乙瀬さんが気にするようなことは何もないですよ? 確かに先日無理をお願いしましたが、むしろそれはこちらが迷惑を――」
 高歩の言葉を遮るように和葉は首を横に振る。
「新居くん、ここ最近はアトリエに行ってるみたいなんです」
「え、え?」
「カメラマンの人のなんですけど」
 和葉がそこまで言って、ようやく高歩は納得できた。時期から考えても、逆算すれば腑に落ちる。
「ああ、そういうことですか」
 知史は先日の現場見学でカメラマンである杉浦に懐いたのだ。学校をサボってまで彼のアトリエに入り浸っているらしい。それを同僚伝いに和葉は知っていたのだろう。確かに知史が連日欠席し出したのは、その翌日からだ。そしてようやく、和葉が申し訳なさそうにしている理由も分かった。しかしやはり、和葉が謝るのはお門違いだと思う。
「あたしがもっと早くに筵井さんに報告していれば、余計な心配をかけなくて済んだかもしれないのに……すみません」
 和葉はすっかり俯いてしまった。いくら高歩が言っても一向に顔を上げようとしない彼女に、高歩はどうしたら良いのか分からなくなる。彼女が生徒ではないことで余計に対応に困ってしまう。
「そんなに気に病まないでください。……とにかく、新居が行方不明ではなくなったことに安心しました」
 ふんわりと包み込むような優しい声音で高歩は微笑んだ。ちらり、と和葉が視線を上げてくれたので、高歩はもう一度にっこりと笑みを作った。
「それで、そのアトリエというのはどこにあるんでしょうか?」
「詳しい場所までは……。各務さん――会社の先輩に聞いてみれば分かると思います。明日聞いてみますね」
「ありがとうございます」
 ふふ、と笑った高歩は、そういえば、と立ち止まって鞄の中を探り始めた。
 和葉が数歩遅れて足を止め、何だろう、と見つめてみれば、高歩が取り出したものにハッとした。
 彼が手にしていたのは店頭で置かれている無料賃貸誌だ。
「すっかり遅くなってしまいましたけど、引越しの件、覚えていますか?」
 高歩は鞄を持ち直し、和葉の横に並ぶ。あと数メートルで高歩の住むマンションが見えるので、そこまではなるべくゆっくり歩くようにした。
「はい、覚えてます。本気だったんですね」
 驚いたままの和葉はとりあえず素直に頷いてみた。高歩が和葉に引越しを勧めたのは也人の件があった当日だった。それからは特に話題に出ていなかったので、てっきり提案の一つに過ぎなかったのだと思っていたけれど、高歩は真剣に考えてくれていたらしい。驚きと、申し訳なさと嬉しさが同時に和葉の胸に渦巻き、どういう表情をすれば良いのか決めかねていた。
「勿論ですよ。まさか社交辞令と?」
 苦笑しつつも、高歩はそう思われても仕方がないと分かっていた。だから責めるような口調にならないよう気をつけて和葉を見る。
 彼女はどこまでも素直に「ええ、まあ」などと肯定する。
「言いませんでしたっけ? 僕も引越しを考えているんですよ。だから物件探しはそのついでです。でも、乙瀬さんに引越しを勧めたいのはついでではないですからね」
「お手数をお掛けします……」
 律儀に頭を下げてくる和葉に、きっと彼女は遠慮深い性格なのだと結論付け、高歩はそれ以上言わないことにした。今までも散々「気にするな」という言葉をかけてきたが、彼女がまともにそれを受け取ったことはなかった。そのことに今更ながらに気づいたからだ。
「もし希望がなければ、今度の休み、一緒に不動産屋へ行ってみませんか?」
 パラパラと雑誌を捲りながら、高歩は一つの提案として和葉を誘ってみた。思ってもみない誘いに和葉は慌てた。
「い、いえ。そこまでしてもらうのは悪いですから! あたしもある程度どんな部屋が良いのか自分で検討してみますから!」
 全力で拒む和葉に、少しだけ高歩は悔しく思う。そこまで力いっぱい拒否しなくても、と思ってしまったのだ。
 そんな子ども染みた感情を和葉に気づかせたわけではないが、高歩は自分自身に動揺していた。
「まぁ、そうですね。情報収集は基本ですから。僕ももう少し絞ってみます」
「あ……、その、そうじゃなくて。筵井さんと行きたくないとかじゃなくてですね」
 和葉が焦って言葉を返せば、堪らず、高歩は笑った。
「分かってますよ。僕も少しお節介すぎました」
「そんなことないです! 筵井さんにはお世話になりっぱなしで、どうお返ししたらいいか分からなくて」
「お返しなんて、そんなこと気にしないでいいのに」
 高歩がクスっと笑い声を上げたところで、既にマンションの前を過ぎ、ちょうどいつもの公園の前まで来た。也人のことがなければここで別れていたが、今はずっと和葉がアパートへ上がるまで高歩が見送ることにしている。その方が和葉だけでなく、高歩も安心だからだ。
「あたし真剣なんですよ! 本当に、助けてもらってばかりで。全部、筵井さんには関係のないことなのに……」
 あまりに真っ直ぐ和葉が見つめるから、高歩は驚きを隠せなかった。
 高歩とて和葉が冗談を言っているとは思っていなかったが、笑ってしまったのはいけなかったかもしれない。
「乙瀬さん」
 高歩は改まって彼女の名前を呼ぶ。
「そんなに真面目に受け取らなくても良いんです。僕が手を出したくてやったことなんですから、全部」
「どうしてですか?」
「え?」
「どうして、そこまであたしのことを助けてくれるんですか?」
 高歩は咄嗟に答えられなかった。どうして、と言われても深く考えたことがなかったからだ。
 そういえば生徒でもない他人にここまで世話を焼いたことはなかった。
 しばらく今までの自分を振り返ってみた高歩は、ああ、と和葉に向き直る。
「乙瀬さんは、なんというか妹みたいに思えるんですよね。可愛い年の離れた妹。だから放っておけない」
 優しく微笑まれながら言われてしまえば、和葉は納得できる気がした。
「妹さんがいらっしゃるんですか?」
「ええ、2才下に」
 高歩の答えに、なるほど、と和葉は頷いた。
「納得してもらえましたか?」
「はい」
 和葉は満面の笑みで返事をした。嬉しかった。すごく嬉しかった。
 彼女の笑みは思いのほか高歩の気分も良くした。
「じゃあ、せっかくですし、乙瀬さんも僕を兄だと思って甘えてくださいね」
 さり気なく強いられた要望は、和葉を僅かに悩ませた。せっかくの機会だから、と高歩は言ってくれたが、もともと人に甘えることに慣れていない和葉に酷く難問に思えてしまったからだ。
「……ガンバリマス」
 それでも真面目に頷く和葉を見つめ、高歩は本当の家族を見守るように優しく微笑んだ。
 甘えることは頑張ることではないのだけれど、きっと彼女にそれを教えるのは骨がいりそうだ。高歩はそう思いつつも、暖かな気持ちが広がった。