月影

chapter 23


「あれ?」
 現像された写真を見ながら、杉浦は首を捻った。
 散らばった写真の片づけをしている知史が横切ると、顔を上げた杉浦が知史を呼び止めた。
「なあ、お前が撮ったやつ、全部ピント合ってないけど」
 デジカメ壊れてたか、と心配する杉浦に、知史は顔を険しくした。正しく不機嫌さをそのまま表情にしているようだ。
「……外してるんだ」
「え?」
「ピント。ボケてるんじゃなくて、ボカしてんの」
 それだけ言うと、ふい、と顔を逸らしてまた手を動かし始めた。
 しばらくそれを眺めていた杉浦は、はぁ、と呆れたように溜め息を吐いた。
「お前全然分かってねぇな」
 そこに意図を感じさせない写真にもう一度目を落とす。正面の花は近すぎてぼやけている。その背景に焦点を当てているのかと思えば、そうでもなく、微妙にズレている。人物を撮った写真も然りだ。通行人に焦点を当てているようで、けれどその特定の人物が中心になっているわけでもない。何を撮りたいのかが全く見えてこないものばかりだ。
 知史はすっかりと無視を決め込んでいるようで、振り返りもしなければ視線すら寄越すことがない。それはそれで良いか、と杉浦は思った。その態度がこの写真の答えなのだろう。
 粗方机の上が綺麗になったところで、杉浦は立ち上がる。
「そろそろ帰るか。送っていくぞ」
 車の鍵をチラつかせれば、心得た知史は急いで部屋の戸締りを確認していく。窓、換気扇、それぞれをチェックして杉浦の後に続き、外へ出る。日はすっかり落ちており、心地良い風がさっと髪を撫でた。
 部屋のドアを閉め、隣の駐車場へと移動する。仕事部屋と言ってもアパートの一階の一角を借りているだけで、その駐車場も決して広いとは言えない。杉浦の後を追いながら、知史はその様子をじっと見ていた。
「杉浦さん……」
「あ? 何やってんだ。早く乗れ」
 ぼんやりと突っ立っている知史を背に、車のキーを解除した杉浦はさっさと乗り込んでしまう。エンジンが掛かると、知史は慌てて助手席に飛び乗った。最近気づいたのだが、杉浦は割りとせっかちである。待つのが苦手で、しかし人のことを待たせるのは平気なタイプだ。
 最初に会った印象は、クールで落ち着いた大人の男で、しかしフィルダーを通して見る観察眼は鋭く、どこか達観しているように思えた。そこに知史の理想像が見えた気がして、あの日、帰りの道すがらすぐに連絡先を教えてもらった。杉浦も快く承諾してくれ、仕事部屋へ来るようになるのに時間は掛からなかった。
 仕事部屋を「アトリエ」と彼が呼ぶことに初めは違和感を覚えたが、中に入ってみれば一目瞭然だった。壁には棚と窓を避け、一面に油絵が飾ってあったのだ。絵の具も筆もその他の道具一式全てが揃えられ、正しく画家の所有するアトリエ(画室)であった。杉浦曰く、元々油絵を趣味にする友人の部屋だったのを、譲ってもらったということだ。
「そういやお前、ちゃんと学校には行ってるんだろうな?」
 部屋を出るときは何か言いたそうだった知史だが、車に乗ってからは何を言うでもなく黙ったままだ。それに耐えかねた杉浦は自ら口を開いた。
「……行ってるよ」
 僅かな沈黙ができたが、動揺を億尾にも出さないで知史は言ってのけた。嘘だな、と杉浦は即座に見抜く。けれど知史の言葉を否定することはしなかった。杉浦も知史の年齢の頃にはこういう嘘の常習犯だったことを思い出したのだ。なるほど、大人になってみれば子どもの嘘なんてものは眼に見えて分かるものなのだ。
「上手くやってるのか?」
 ちらりと隣の助手席に視線を流し、杉浦は尋ねた。知史は、話の流れからして学校のことだろう、と理解する。
「やってるよ。先生のことは、好きだし」
 知史が友人達よりも先に思い浮かべたのは高歩で、だからすんなりと肯定の言葉が出た。入学して早々、登校拒否気味になった知史を引き戻してくれたのは他でもない高歩だった。彼の言うことならば信じられたし、高歩なら絶対に自分を裏切らないと信じている。知史が嫌がることを強要することはないし、かと言って甘やかすわけでもなく叱ってくれるところも高歩が好きだと思える一つだ。何より、高歩の傍が知史の居場所だと言ってくれたのが、一番嬉しかった。
「ふうん。それって女の人?」
 窓の外を見る知史の表情は、杉浦からは見えなかった。
「なんで?」
 先生の性別なんかを気にして何になるんだ、と知史は怪訝そうに振り向いた。
「いや、何となく気になって。そんなに好きなセンコーに会えるってなかなか無いぞ?」
 杉浦は答えながら、しかし本音は口に出さなかった。もしその教師が女性ならば恋愛感情を持っても何も思わないが、実際それが男ならば――。その思いが錯覚であるならば正してやりたいし、本気であるならば虚実だと錯覚させる方が知史にとって幸せなのかもしれない。関わりを持って日の浅い知史に対して、珍しく杉浦は真剣になっていた。
 そうさせる危なっかしさが彼にはあるのだ。昔の自分によく似ている……。杉浦は初めて会ったときから抱いていた感情を改めて実感した。
 会話の無い車の中は、ラジオから流れるジャズの賑やかな音に包まれる。J-POPもまともに聞かない杉浦にはそれが有名な曲であるのかも、著名な奏者の曲であるのかも分からない。ただその陽気なリズムは心地良く、知史がどんな表情でいるにしても、音楽に耳を傾けていれば気が紛れた。そうしている内に車は知史の住むマンションの前へ辿り着いた。
「ありがとうございました」
 車を停車させ、ドアのロックを解除する。知史はドアを開けてから座ったまま礼を言い、降りた。普段はタメ口も大概にしろと言ってやりたくなる程なのに、こういうところではきっちりと丁寧語で話す彼が、妙に子どもっぽくて可笑しくもあった。
「知史」
 ドアを閉めようとする寸前で、杉浦は助手席へ身を乗り出し、彼の名を呼んだ。
「何か?」
「一つだけ忠告しとく」
 杉浦は片腕で自分の体重を支え、もう片方の腕を屈んで車の中を覗き込む知史へと伸ばした。くいっ、と襟元を掴み、自分の方へ彼の顔を引き寄せた。
「あんな意味の分からない写真はもう撮るなよ」
 ムッ、と眉間に皺を寄せる知史にニヤリと笑って見せれば、杉浦はすっと体を引いた。早くドアを閉めろ、と手を振ってやる。
 知史は何も言わず、しかし表情は険しいまま、バンッと派手に音を鳴らしてドアを閉めた。
 ドアのロックが掛かると、車はすぐに発進した。知史はしばらくそれを見ていたが、車のライトが角を曲がり消えていくと、ようやく背を向けてマンションへ入っていく。
 エレベータで上り、部屋の前へ着く。鍵を開ける。玄関へ入り、足元を見れば、見慣れた小さな女性物の靴が礼儀正しく並べられている。派手な装飾があるわけでもなく、ヒールもない、大人しいベージュのそれは、決して若い女性が穿く感じではない。実際、この靴の持ち主は知史の母親よりも年齢は上である。ただし母が生きていれば近い年齢であったかもしれない。
「お帰りなさいませ。晩御飯は冷蔵庫にありますので、レンジで温めてからお召し上がりください」
 靴の持ち主である彼女は、知史の帰宅を認めると丁寧に頭を下げた。随分と長く仕えてくれている彼女は知史が軽く頷くだけで満足そうに笑顔を向けた。彼が小学校へ上がった頃から週に5日来てくれている家政婦だ。家事の出来ない義父が両親を亡くした知史を引き取った頃に雇い始めた。
「旦那様は本日も遅くなるとのご連絡を頂きました」
「そう。俺も遅くなってごめんね。今度から気をつけるよ」
 既に帰る支度は終えているのだろう彼女に気を遣い、できもしないことを口にしていた。だが知史の性格も、今までの行いも全て承知している彼女はまるで母のそれのように笑みを浮かべる。
「そうしていただけると助かります。では、お休みなさい」
 もう一度深く頭を下げてから彼女は部屋を出て行った。玄関のドアの音が閉まるのを確認すると、知史は一人大げさに溜め息を吐いた。
 冷蔵庫を開けると二つの皿が目に付いた。どうやら今日のメニューは大根サラダと特製豆腐ハンバーグらしい。ふと、小さい頃はよくねだって作ってもらったことを思い出す。どうしてそれを思い出したのかは深く追求せず、皿を取り出して電子レンジへと入れた。炊飯器を開ければ炊き立ての白米が食欲をそそる匂いを放っている。
 一人で食べる食事は味気ないものだと言うが、知史にとってはこれが日常で普通だ。大勢で食べるという経験は学校行事の他でしたことがないし、遠足や修学旅行にこれと言って取り立てる思い出もない。テレビの賑やかな声に耳を傾けつつ、黙々と食べる。
 義父が帰宅してきたのは日付も変わろうかという時刻になってからだ。
 知史は既に風呂に入り、髪を乾かし、歯磨きも終え、うとうととソファに寝転びながらテレビを見ていた。
 リビングのドアが開いてから知史は義父が帰ってきたということに気づき、失敗したな、と内心で舌打ちする。できるなら玄関のドアが開いた時点で気づき、顔を合わす前に自室へ入ってしまいたかった。いや、本当ならばこの時間帯になる前に自室へ戻っていれば良かったのだ。今日も遅くなるという情報は耳にしていたのだから、それくらいの回避は容易かったはずである。
 顔を合わすのも億劫に思う知史は、いっそこのまま眠ってしまおう、と重くなり始めていた瞼を閉じることにした。とりあえず目を合わせなければ、言葉を交わさなければやり過ごせると考えた。そして義父が風呂に入るなり、自室へ入って着替えるなりしている間に、リビングから抜け出せば問題ない。
 テレビからは野球の試合結果が聞こえる。どこの球団が勝ち、勝因は何だったか。各選手のプレーはどうだったか、などの内容が解説者とキャスターによって議論されていた。
 その声が不自然にぷつりと消える。義父がテレビの電源を切ったのだろう。カタ、とリモコンがテーブルに置かれる音が遠くで僅かに聞こえた。部屋が静まり、他に音が無くなったので、変に神経が集中してしまい、余計な小さな音でも拾ってしまうのだろう。義父が動く度に服の擦れる音も聞こえてきそうで、そのことに寒気がした知史はより固く目を閉じる。
「……知史、寝ているのか?」
 静かな声が独り言のように語り掛けてくる。誰が、と返事をしそうになるのを耐え、息が震えないように気をつけた。
 そろり、と優しく頬に手が触れてくる。義父が自分の顔を撫でているのだと思うと鳥肌が立った。
――気色悪い。
 思わず眉根を寄せそうになり、必死で我慢する。ここで目を開ければ気まずくなるのは必至だ。
「ああ……、本当に似ているな……」
 息を吐くように呟かれたその意味は、知史が誰よりも分かっていた。そして義父が誰と重ね合わせているのかも瞬時に理解する。今では腹立たしいくらいに同じ顔をした人物は、知史が知る限り実母である彼女だけだ。知史がそうであるように、生前は人形のように美しかった。
「義姉(ねえ)さん……」
 愛しそうに囁かれたのは特別な感情を添えられた声音で、ぞわり、と知史の肌を逆撫でる。明らかに兄の妻である義姉を呼ぶ声ではなかった。
「うるせぇ」
「ッ!」
 いよいよ耐えかねた知史がパチリと目を開けると、思ったよりも顔を近くに寄せていた義父の視線をもろに受けた。義父もまさか目が開くとは思っていなかったのか、驚いたように目を大きく開いていた。
「気持ち悪い声出してんじゃねぇよ」
 知史が吐き出すように言うと、義父はよろよろと手を離し、立ち上がって距離を取る。
「……起きてたのか」
「アンタが気色悪ぃことするから目が覚めたんだよ」
「すまない」
 即座に謝罪の言葉を口にした義父に、知史は言いようのない苛立ちを覚えた。
「何が『すまない』だ、ああ? 俺とあの女を重ねて見たことか。それともあの女にそっくりだってだけで男の俺に欲情したことか?」
 知史の放った言葉に義父の顔が険しく歪む。
「なんだと?」
 低く唸るような彼の声は久々に聞いた。しかしそれが肯定しているように聞こえ、知史は嘲笑してみせる。
「そんなに良い女だったのかよ、兄貴の嫁ってのは。どうせなら生きてる時に奪っちまえば良かったのに。あんな女――」
 知史が最後まで言えなかったのは押し倒されたからだ。義父の下から逃れようと暴れるものの、下半身の上に跨がれ全体重をかけられた上に両腕はしっかりに押さえつけられている。彼が押し黙った時から気をつけていなければならなかった、と気づいたのは激しく怒りを表すその目を見てからだった。
「仮にもお前の母親だ。『あんな女』などと言うんじゃない!」
「っんだよ! 離せよ!」
「義姉(ねえ)さんは知史の母さんで、知史の父さんは俺の兄貴だ。分かったか!」
「分かってるよ、それくらい! いいからさっさと離せ!」
 足をばたつかせ、腕を振り切ろうともがくが、知史がどうにかしようと動く度に義父も抑え付けようとその動きに合わせる。腕を握られる力が次第に強くなり、痛くてたまらない。
「お前は分かってない! 兄貴がどんなにすごい人だったか、義姉(ねえ)さんがどんなに素晴らしい人だったか、全然分かろうともしてない!」
「アンタに何が分かるんだよ! 俺の何を知ってんだ! 面倒は全て雇いの家政婦に任せてるアンタに!」
 僅かに動揺を示した義父の隙をつき、知史はソファの下から転がるようにして這い出た。
「知史!」
 背後から呼び止めるように叫ぶ声が聞こえたが、知史は当然の如くそれを無視し、玄関を飛び出した。
 閉まるドアの隙間から後を追ってくる義父の姿が横目に見え、エレベータを待つこともせず、階段を駆け足で下りていく。外へ出れば当てもなく走り始めた。