月影

chapter 24


 勢いで外には出たものの、行く当てなど知史にはなかった。高校に入学したばかりの頃は、よく意味もなく街をブラブラと歩き、同じように夜を楽しむ連中に声を掛けられていた。あの時はどうやって暇を潰していたのか、今ではあまり思い出せない。ただ、思い出したくないようなこともあった、ということは覚えている。
「あれぇ? もしかしてサトシじゃね?」
 丑三つ時と言うにはまだ早いが、それでも夜は更けきっている時間帯。終電を向かえ暗くなった駅をよそ目に、その周辺はまだいくつもの明りが輝き、それに群がるように同じような若者がたむろしている。その若者の内の一人が、知史を見つけて声を掛けてきた。
 俯いていた顔を上げると見覚えのある顔があった。暗がりでも分かるほど明るく染めた髪を立て、耳に大小様々なピアスを付け、そのくせリングやネックレスといったアクセサリーは一切付けていない青年は、夜の街をブラついていた知史の面倒を積極的に買ってくれていた男だ。
「あぁ」
 返事をしてみたものの、今はあまり人と関わりたくなかった知史は、そのまま通り過ぎようとした。が、それを慌てて男が止める。
「まぁ待て待て。暇なんだろう? 久しぶりに寄っていけよ」
 後ろから腕を掴まれ、知史は反射的にそれを振り払う。男は驚いた表情を浮かべたものの、気を悪くした様子は見せなかった。知史が逃げなかっただけでも良しとしたのか、人の良さそうな笑みを浮かべてもう一度「いいだろう?」と誘いの言葉を投げかけた。以前は強引なところが何も決められなかった自分にとってありがたく感じたが、今は鬱陶しいだけだ。
「悪いけど、今日は」
「なんで? 良いじゃん。サトシ来なくなって寂しがってる奴ら結構いるんだぜ」
「良いか悪いかは俺が決めるんで」
 もう一度肩に触れようとした男の手を避け、そんなことはどうでも良い、という表情で知史は冷たくあしらう。
 街に出たのは失敗だった。知史は何も考えていなかった自分を後悔し、けれど咄嗟に行く先を思い浮かばないことに舌打ちしそうになる。辛うじて行動に移さなかったのは男が目の前にいたからだ。ここで舌打ちすればさすがに愛想の良い男も不快な表情を浮かべるだろう。
「何だ。そういうところは相変わらずだなぁ」
 男は可笑しそうに言った。どうやら諦めてくれたようだ。
「ま、オレ達はいつでも暇してっからさ。たまには戻ってこいよ」
「考えとく」
 無愛想に返事した知史に満足したのか、男は頷いて「じゃあな」と手を上げた。知史は小さく会釈をして踵を返す。
 後ろから「気をつけろよ」と言った声が聞こえたが、既に彼に背を向けていた知史は振り返ることもなく無視をした。何に、と逆に聞きたいくらいだ。
 偶然だが男と再会し、この辺りを歩いていると、嫌でもこの周辺をよく連れ回された時のことを思い出した。何もかもが嫌になり、学校へはろくに行かず、高歩がかなり長い時間をかけて向き合ってくれるまでは、家に戻るのも月に数度という荒れっぷりだった。我ながら生意気なガキだと思う。そしてそれは今も変わらないままだ。優しくされることに甘えて、構ってくれるまではと何度も確認して。
 夜の街へ出て行くようになったのは高校に入ってからが初めてではない。義父が母親のことを“そういう”想いで慕っていたのだと分かった中学の時から、たまにふと外へ出ていた。ただ、高校入学をきっかけにその頻度が増したのは確かだ。
 最初の頃はその刺激の強さと、知らないことの多さに胸を高鳴らせ、夜の遊びにハマったものだ。それこそ学校へは出席日数の許容範囲を何とか保つくらいにしか行かず、昼間は寝てばかりの生活だった。初めてタバコを覚えたのも、酒を飲んだのも、女を教えられたのも同じ頃で、特に女の中に入ったときの快感は言葉では言い表せない。飽きることもなく誘われるままに毎回違う女とベッドを共にした。幸か不幸か、母親によく似たこの顔は女を惹き付けるには充分なほどのようで、相手がその気になっていなくても、軽く声を掛け甘く見つめればすぐにホテルへ行けた。最悪だったのは、好きモノの女に誘われた時だ。いつものように誘われるまま女の部屋へ上がりこむと、そこには既に一組の男女が絡み合っていた。
 乱れきっていた。世間の常識やら法律やら観念やら、全てにおいてお構いなしだった。今が楽しければいい。自分が楽しければいい。この街の、知史が過ごした夜のルールはそれだけだ。オカシイと誰もが知っていて、ダメだと誰もが分かっていて、その上で出来たルールだった。
 今でこそ馬鹿馬鹿しいと思う。初めて高歩に心を開いてからは、現実もそれ程悪くないと思い出した今の知史にとって、そのルールが存在する幻想は何とも儚く、マジメに夢を語る人間と同じくらい愚かに思えた。夢から醒めた心地は良いものではなかったけれど、重く圧し掛かる重力のように慣れてしまえばどうということもない。
 そういえば一度だけ夢の話をした人間がいたな、と記憶を探っていく。知史を最悪の状況に陥れ、それ以降一時的にではあるが、女を抱く気にさせなかった、あの好きモノの女だ。彼女の語った夢が何だったかというのはすっかり忘れてしまったが、それを話している時の彼女のキラキラと輝いた瞳や、その時だけは良く回っていた舌、そして諦めの表情を浮かべ俯く姿は、よく覚えている。
 美人と言うには程遠い容姿だったが、熱く語る彼女は眩しかった――と思いに耽っていると、すれ違う人間と肩がぶつかってしまった。
「悪い」
 反射的に知史は口にしたが、相手には聞こえなかったらしい。そのまま通り過ぎようとすると思いきり力の込めた手で肩を掴まれた。体は強制的に振り返る形にされる。
「おい、ぶつかっといて謝罪もなしか」
 舐めつけるように睨みを利かせてきたのは長めに伸ばした髪が邪魔そうな大柄な男だった。センスを問いたくなる派手なシャツを着ており、知史はげんなりとした。おまけに鼻を摘みたくなるほどの酒臭さだ。
「……」
「てめぇ、何とか言えねーのか。ガキのくせによぉ」
 ぐっ。と一瞬肩を掴まれた手に更に力が込められたかと思えば、頬に思い切り痛みが走った。まじかよ、と眩暈がする。
 よろけた後にぶつかった男を見上げる。不機嫌な顔が表に現れていたらしい。「生意気な目で見てるなよ」と更に一発食らわされた。さすがに無駄に2発も食らって黙っていられるほど、知史はお人好しな性格をしていない。
「っざけんな!」
 拳を握り締め、嫌な思い出の分も力を込めて思い切り、男の顔面へと腕を振り上げた。

「いてて……」
 腫れた頬を押さえて蛇口を捻る。掌に水を溜めて頬を濡らす。若干冷たさは伝わるが、痛みを緩和してくれるような作用はない。夜の公園は静かで、虫の音と風の音しか聞こえない。最初からここに来れば良かったかも知れない、と思うほど穏やかだ。
 結局ぶつかってきた男とは乱闘になった。酒が回っているだろうに、長髪の男は力任せに腕を振り回し変に近づけなかったし、ふざけて男の連れも参戦してきた。あり得ないだろ、と悪態を吐くも、男たちには格好の暇潰しの相手にしか見えなかったのだろう。おかげで知史は顔を殴られ衣服はボロボロだった。破られなかっただけマシと言えるだろうか。
 それにしても困った。これでは義父が仕事に行くまでは家に戻れないし、学校へも行けない。無論街に戻るのはあり得ない。どうするか。
――結論は早かった。行けないのならしょうがない。
 もともとそれ程学校へ行くことを重視したことはない。一日くらい休んだところで“いつものこと”だ。知史はそうと決まれば濡れた頬を袖で拭き、ベンチへ腰を下ろす。ただ問題なのは、この夜を公園のベンチで過ごす他ないという、状況だけだった。
 空を見上げれば小さな星がいくつか見えた。それよりも月の方が大きく綺麗で、知史は月が好きだった。生憎今夜の月は雲に隠れて光が僅かに漏れているだけだが、それも情緒があるように思える。自分が撮ったブレた写真も、本当はこういうのが撮りたかったのに。
 空を見上げたまま知史は目を閉じた。瞼の裏に月の明りが残る。どうしようか、と自身に問いかけた。